那賀城(常陸大宮市(旧緒川村)大字那賀)
常陸国の南北朝史の中心人物である那珂通辰の居城と言われる。
城は緒川支所から御前山方向に約4km南下した緒川を東に望む西側より延びた台地の突端部にある。
標高は75m、緒川からの比高は約30mである。
城主と言われる那珂氏は、平安時代中頃(1090年位)藤原秀郷の子孫公通がこの地に来て、その孫の通資が1115年頃築城し、那珂氏を名乗ったという。
しかし、実際の姿は小野崎氏同様、は古代からこの地に土着していた氏族なのではないだろうか。
同じ流れを組むとする一族が佐竹氏重臣の石神城、額田城、山直城を本拠にした小野崎氏であるが、両氏は全く異なる道を歩む。
ともかく、那珂氏は平安時代以来、鎌倉時代を通じ、数代230年間この地の豪族として威を張った。
当時は頼朝に反抗した経歴のある佐竹氏の力が抑えられていたのでそれなりの勢力が維持できていたのだろう。
しかし、転機が訪れる。
南北朝の騒乱時で、佐竹氏は北朝側足利氏の付き、復活の賭けに出る。
その佐竹氏に対して、那珂氏8代通辰は一貫して南朝側に立つ。
彼を南朝の忠臣と言うが、実際は佐竹氏の勢力が拡大することに対する懸念が南朝方に与させた本当の理由であろう。
彼は北畠顕家の上洛を阻止しようとする佐竹氏の軍を甕原の戦いで背後から攻撃し、撃破する功績を上げる。
これにより佐竹氏は常陸太田城を放棄して金砂山城、武生(たきゅう)城に籠る。
一方の南朝方は瓜連城に集結し、金砂山城、武生城の佐竹軍と激闘する。
圧倒的に南朝方が有利だったが、まとまりを欠き、佐竹氏の粘りもあり、敗北に向かう。起死回生を賭け、
彼は単独で金砂山城の攻撃に向かうが、その間に瓜連城が落城し、進退窮まり、常陸太田市増井町で自害したとも敗死したともいう。
一族はほとんど滅亡し、領土は佐竹氏のものとなった。
しかし、一族のうち通泰は逃れ、後に北朝に組して戦功を上げ復活、下江戸城、河和田城、水戸城と移り、江戸氏として再興に成功する。
また、通辰の孫光通は陸奥に逃れ、石川氏として復活する。と、言っても那珂通辰はほとんど無名の人物。
それもそのはず、彼はここ常陸北部でしか活躍しておらず、この付近にしか知られていない人物である。
@西側の堀跡 | A東の台地斜面の横堀 | B 西側の堀に面して高さ2.5mの土塁がある。 |
その肝心の城であるが・・・彼の本拠は確かにこの付近ではあるが・・彼の城にしては小さい。
那珂通辰城主説は非常に疑問である。
それに今残る遺構は戦国時代のものである。
南北朝時代の城ではない。
現在、西側の堀のみが目立つが、実際は崖である北側以外の3方に堀を持つ。極めてセオリー通りである。
しかし、城は単郭であったようであり、他にも郭が存在したような感じではない。
ただし、堀等が埋まっている可能性もあり、これは発掘してみないと分からない。
城は西から緒川方面に延びる台地の先端の北東端部に存在する。 |
(追記)
平成17年に通信設備建設に伴う発掘で城址西側で中世の遺構が検出されており、西側にも城域が広がっていたことが確認されている。
また、地元の石川豊氏の研究によると、南の「観音堂」南の墓地が堀を埋めたものといい、西側の「宝堂」付近にも堀が存在していたといい、外郭を持つ梯郭式城郭であり、東西200m、南北400mの規模があったという。
那珂氏の本拠であったかは疑問であるが、戦国時代は小田野氏が管理していたという。
(常陸大宮市教育委員会「那賀城跡」平成17年9月を参考にした。)
花房城(常陸太田市(旧金砂郷町)花房)
常陸太田中心部から久米を通り、大宮に向かう国道293号線は花房付近で丘を越える。 この丘は南側に半島状に張出している。 その山系の最高峰標高63mの山に花房城がある。 山の名は陳ケ峰と言うが、陳は陣が訛ったものと考えられる。 下の水田地帯からの比高は30m程度である。 城域は直径70m程度と小さく、野戦築城による砦程度のものである。 1辺50mの三角形を呈する本郭の北側を除く3方の周囲に帯曲輪を巡らし、北側に堀切を設けている。 土塁等はなかったようである。 |
付近の地名には「御陳取山」「陳城山」等の名も見られ、合戦に関係のある場所であることが推定される。
「金砂郷村史」では、断定はできないが、その合戦としては南北朝の騒乱時に瓜連城の南朝軍と金砂城、武生城の佐竹氏を中心とした北朝軍の間に花房で激しい合戦が行われたという記録が見られ、本城はこの合戦において南朝側の前線陣地として臨時築城されたものではないかと推定している。
(2006.2.12追加)
この城は何度か挑戦したが、取付き口が分からず苦渋を飲まされた。 何しろ急傾斜で藪は凄く、谷津から登ろうとすると沼状態である。 意外にも西側から山を崩して切通しの道を造ったところがあり、この道を行くと城址まであっさり行けるのである。 どうもこの山から土砂取りをしようとして止めたようである。 (不況で倒産?) 肝心の城址であるが、この土砂取りの道を造ったため、若干は崩されているが幸いにも大体はそのまま残っている。 上に鳥瞰図を付けたがまさにこの通りの城であった。 しかし、小竹の密集がすさまじく、本郭の南半分は全く侵入できない有様であった。 それでも南を覆う帯曲輪と虎口は確認できた。 |
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この帯曲輪はどうも前面に土塁を持っていたようである。 | 南側の帯曲輪は前面(左)に土塁を持つ。 | 本郭北側。郭内は2段になっている。北側のみは帯曲輪はない。 |
南側の帯曲輪以外はほとんど自然地形といっても差し支えないような山であった。
これが本当に南北朝期のものなのであろうか?それにしては帯曲輪と虎口はしっかりしていた。
何となく戦国時代のもののような感じがしないでもない。
戦国時代にも使われていたとしたら、この地が大宮の部垂城、宇留野城、前小屋城方面と久米城の中間地点であり、緊急時の狼煙台としてではなかったであろうか?
この花房山であるが、この付近に5つほどある山の1つであり、確かに標高は最も高いが、周囲の山が邪魔をして東側以外は視界がきかない。
周囲の山である北西側の伊勢神社のある山とその南の山に登ってみたが、その山頂部も平坦になっていた。
当然、これらの山も砦の跡であったようである。
それらの砦の総合指揮所がこの花房城であったかもしれない。