宮ヶ崎城と宮ケ崎古館(茨城町宮ヶ崎)

涸沼南岸の台地突端部、海老沢地区の東に鹿島神社があり、北側を県道16号線バイパスが通過する。
その通過地点がちょうど城域の南の部分に相当し、遺構がこの部分が改変されている。

ちょうど通過部分は城のある台地の南側と東側が浸食されて形成された谷津に相当し、この谷津Hは幅30m以上あり天然の堀として利用されていた。
本郭(T)は涸沼を北に見下ろす比高25mの台地北西端縁部の高台に位置し、その周囲に二郭(U)、三郭(V)を展開させる梯郭式。
全体として1辺約300mの三角形をし、けっこう広い。

↑は西側、海老沢地区から見た城址である。左下が涸沼である。

ほぼ全域が農地になっており、堀、土塁が確認できるのは本郭部のみであるが、本郭南側の土塁と堀は耕地化により一部湮滅している。
ただし、本郭内はすでに耕作は放棄され、藪化しつつある状態である。


↑は涸沼北岸親沢から見た対岸である。城址は左手の岡にあたる。

本郭Dは約100m四方の広さでほぼ全周、土塁が覆っていたようである。
南側、西側は高さ約4mほどの土塁が囲み、東側、北側の土塁の高さは約2mと低い。
←昭和50年の国土地理院の航空写真
その周囲に北東側を除き幅8〜10mの堀Fが覆っていたようである。
西側の堀底から本郭土塁上Eまでは6mほどの高さがある。

@二郭虎口部、林が本郭部 A二郭南側の切岸、土塁があったが湮滅している。 B二郭東側の切岸、左が三郭。
C広大な二郭内部はサツマイモ畑だった。 D本郭内部は耕作が放棄された畑。 E本郭南西端の櫓台
F本郭西下の横堀 G三郭には宮ヶ崎氏の菩提寺があった。 H城域南の自然の谷津を利用した大堀跡

南西側から見た本郭部(林の部分)
左に涸沼が見える。
左下の低地は土取りで湮滅している。

本郭の北西側は独立した曲輪となっているが、本郭西側斜面が土取りで崩されているため、本来は二郭とつながっていたと推定される。
現在、藪状態で眺望は悪いが、木がなければ、ここは涸沼が一望の下に見渡せる眺望に優れた場所であり、湖内監視用の物見の場所であったものと思われる。

本郭の南側、東側は畑となっているが、そこが二郭、さらに2、3mの段差A、Bを置きその東側、南側が三郭となる。
二郭には土塁が存在していたというが、耕地化に伴い失われている。

三郭南東部に宮ケ崎氏の菩提寺跡Gがあり、寺跡の標識が建っている。
かつて五輪塔が出土したという。

城は大掾氏の流れを汲む宮ヶ崎氏が築城したものという。
宮ヶ崎氏は田野辺政幹の次子家幹が鎌倉初期に興した一族であり、涸沼の水運を管理していたという。
宮ケ崎という姓は地名から来ているものであり、「崎」という漢字のとおり、湖水に突き出た地から来ていると考えられる。

宮ケ崎氏の居館は鹿島神社南にある宮ヶ崎古館(別名「きゅうでん堀」)であったという。

昭和50年の国土地理院の航空写真に写る古館
J北西端部の土塁と堀 K館内から見た北側の虎口 L 館内部は一面の畑である。

この館は南北約140m、東西約100mの規模を持つ巨大な方形館であり、堀、土塁が半分程度残存する。

この館の規模は茨城県内でも最大級の方形館であり、宮ケ崎氏の実力が想像できる。
古館と宮ケ崎城の間にある鹿島神社は大掾一族が信仰する神社であり、宮ヶ崎氏の創建という。

宮ヶ崎氏については、又太郎幹顕が南北朝時代、暦応元年(1338)に起こった神宮寺城攻めに大掾一族とともに出陣した記録が残る。
宮ヶ崎氏は上杉禅秀の乱に連座して滅亡したといわれ、歴史の舞台から消えてしまう。
宮ケ崎城は涸沼の水運を監視と非常時の避難所を兼ねた城であったと思われる。

しかし、宮ヶ崎城を見ると、本郭部はしっかりした構造を持ち、
規模も大きい。構造も戦国期のものである。

このため、今、残る遺構は宮ヶ崎氏後、水戸城の江戸氏が涸沼の水運管理と大掾氏と対立関係にあった江戸氏の南の最前線小幡城とのつなぎの城、補給基地として江戸氏により拡張整備され管理されていたものと思われる。
江戸氏滅亡後、佐竹氏が涸沼の水運管理に使用していた可能性もあるが、江戸時代には廃城になっていたと思われる。

想像復元図は北側、涸沼上空から見下ろした江戸氏支配の戦国期を想定した。
湖内水運を管理する城として、涸沼のどこからも見えるような威嚇用でもある井楼櫓が建っていた可能性がある。

涸沼の水辺は現在は堆積や干拓で後退しているが、当時は直下まで迫っていたと思われ、専用港があったのではないだろうか。
江戸氏管理を想定した場合、水戸から那珂川を下り、涸沼川を遡り、涸沼を通ってここまで来るルートが想定できる。

↑は涸沼東方向、右手に大洗の原子力施設群が見える。左手に涸沼川が流れ出て那珂川に合流し、太平洋に至る。
なお、涸沼は古代の湾跡の吃水湖であり、しじみの大産地である。戦国時代、この湖内を船が行き来していたのであろう。


また、江戸氏を支援する佐竹氏の軍勢、物資も久慈城、太平洋、湊城経由で大量輸送することも可能であろう。
このルートは遠回りではあるが、輸送効率の良い船運なら大量の物資、兵員を城まで運ぶことが可能であり、涸沼川上流で収穫された米等の収穫物も逆ルートで水戸まで輸送可能であろう。
水辺は涸沼側からの攻撃も考慮し乱杭が打たれていたのであろう。