小舟城(常陸大宮市(旧緒川村)小舟)
やすらぎの里公園から小舟川を挟んで東の山上から山麓にかけてあった。
鎌倉時代に高沢氏が築いたと言われる。

その後、小瀬城の支城となり小瀬氏の家臣内田氏が在城したと言う。
天文9年(1477)の部垂の乱では、城主内田弾正が部垂城の救援に赴いたが、時すでに遅く、主家の安泰を考え、逆川の辺で自害し、その地に弾正塚が建つ。

↑やすらぎの里から見た東側に見える城址。麓の民家のある集落「堀の内」が小舟城の中心部。2003年撮影

城は居館部、麓の城、詰めの山城の3つの部分からなる。
館跡は吉田神社参堂沿いの山麓部Lに相当し、民家、畑となっており、多少の段差が館跡を感じさせるに過ぎないが、水堀の跡らしい部分もある。
さらに南に続く山裾の集落Nでは段差が明確であり、ここに家臣団の屋敷や軍勢の宿営施設があったようであり、この部分が城の主体部と言えるだろう。

麓の城は吉田神社が建つ地Mであり、居館部の防御施設である。この付近は段郭となっている。
吉田神社は麓より30m位の比高があるが、ここより80m高い山上の尾根には詰めの城がある。
麓からの比高は110mほどである。
詰めの城の主要部分の位置は、吉田神社の背後の山ではなく、東側に位置する山である。
ここには吉田神社参道脇の民家から登る道が付いている。すなわち、この民家Lが居館の地だったと言えるだろう。

吉田神社背後の山にも石門と思われる遺構や物見台のようなものがあるが、城郭遺構とは判断できないが、吉田神社から登る道も存在するので、詰めの城の城域とみなせるかもしれない。
詰めの城部分は完存であり、明確に城であると言える部分は総延長400mもあり、小瀬城と同規模の尾根式の大型城郭である。
やぶもそれほどひどくはない。
構造も典型的な尾根式城郭であり、尾根を掘りきって曲輪を造り出す単純構造であり分かりやすい。

この詰めの城へ行くのは困難である。 
常陸大宮方面から国道293号を走り、小舟三叉路を烏山方面に左折、城址のある山の西下を600mほど行くと水戸黄門で知られる「風車の弥七」の墓の案内がある交差点がある。
ここを100m過ぎた場所に山に登る道がある。

ここから上がるのが一番、詰めの城に行きやすい。
直ぐに墓地があり、そのまま沢沿いを進まず、西側の尾根に出ると登っていく道がある。
道といっても荒れている。
この道をひたすら高度100m以上登る。
結構きつい坂道である。
道の東側は深い谷になっている。
この道は堀切状の虎口部に出る。
堀切の北側部分が詰めの城の主郭部である。
南側が出丸に相当する曲輪Vである。

尾根を60m北に進み、高度差8mの位置に直径8mの物見台と推定される平坦地がある。
ここから南東側にも尾根が派生し、平坦地Fがある。
ここも曲輪であろう。

北側に主郭部がそそり立つ。
30m進むと堀切@がある。
それほど深くはないが、主郭側からは3mほど深く、幅は6mである。

その20m北に堀切Aがある。
堀切というより、尾根を垂直近くに切り立てた感じである。
両側は竪堀が下る。
この高さ5mほどの崖状の切岸を攀じ登ると本郭、曲輪TBである。
ここの標高は240mである。
内部は5段構成になっており、北側から徐々に低くなる。
大きさは、南北55m、幅は12m程度である。

西側に尾根が派生し、9m下から曲輪Hが3段ほど確認される。
本郭の最高個所の北側に大きな堀切Cがある。
幅9m、深さ5m。北側にも土塁を持つ小瀬城にあるものと同じ形式のものである。


← 山城部の縄張図

ここから50m行くと物見台の平坦地があり、途中に堀切Dがある。
一度尾根を下り、再び上がると曲輪Uとなる。
曲輪Uは輪郭状に周囲に腰曲輪があり、60mほどの長さを持つ。
北端が壮大な二重堀切Eである。堀底までは一気に9mの深さとなる。
さらに二重目が5mほど深い。
堀幅は二重目の土塁先端まで20mもある。
ここが実質的に城域の北端のようであるが、この先は細尾根が続く。

@本郭南側1つ目の堀切 A本郭南側直下の堀切・・というか崖。 B本郭内部はスッキリしている。
C本郭北側の堀切と櫓台 D本郭と曲輪U間の堀切 E城域北端の巨大2重堀切

所々物見台のような平坦地や大子の鏡城の大手道で見たような岩の門のようなものもある(吉田神社の裏山部分に当たる。)ので城域はもっと広く、総延長1kmはあるかもしれない。
一方、登城口の堀切に戻り、南側に30mほど行くと曲輪Vである。

北側に腰曲輪があり、3mの切岸Gを上がる。
長さが50mほどあり、幅は12m。
徐々に下りとなり、さらに南下に曲輪が2段ほどある。
後は自然地形の尾根沿いの緩斜面となる。
この城でもっとも防御が弱いとしたらこの南側の尾根筋である。

F本郭と曲輪V間の平坦地 G曲輪Vの虎口 H本郭西直下の曲輪

もともと曲輪Vには物見程度はあったと思われるが、防御上の弱点を補強するために増築されたのではないだろうか。 
城のある山は結構、岩が多い。
しかも東西は急勾配である。
東西の斜面から攻撃された場合はこの岩が格好の武器になる。

要害性は小瀬城より大きいと思われる。
小瀬城の支城といわれ、小瀬城は南東2.5kmという近い距離である。

吉田神社参道、右の民家が居館跡らしい。 吉田神社の地は麓の城 公民館は寺跡であるが、ここが小舟城の主体部だろう。

しかし、本城である小瀬城と規模はほとんど同じであり、構造も類似している。
双子の城と言っても差し支えない。
この地は花立峠を越える馬頭方面からの道と烏山方面からの道が交わる地点であり、小瀬城を中心に高部城、小舟城の3城でこの地区を抑える役目があったのであろう。
この城の規模から推定すると、西3kmにある大岩城が小舟城の出城であったことになる。
当然想定する敵は那須氏であろう。

以上の記述は2005年3月に訪れた時の記録を基に作成したものである。

この時、本郭、曲輪Tから西側に尾根が派生し、下に曲輪が3つほど確認できる。と記述した。
しかし、それ以上の確認はしなかった。

I西尾根にある土塁付曲輪、ここから尾根が分岐。 J西尾根末端部のU字形の土塁と堀 K西尾根の分岐した北側の曲輪群 

2015年2月、その西尾根遺構群を確認するため、10年振りに小舟城を訪れた。
10年振りではあったが、ほとんど変わっていなかった。
杉などの針葉樹が多いので小竹等はほとんど生えていなく、地表がすっきりしている。

この西尾根であるが非常に勾配がきつい。
上から降りていくと小さな曲輪が何段にも重なり、途中に前面に土塁を有する堀切とも思われる遺構Iも存在する。
途中、2つに分岐し、南側の尾根を下ると9段ほどの小曲輪を経て、標高175m付近に土塁がU字型に構築された横堀遺構Kがある。
まるで鉄砲射撃陣地である。
この先はただの斜面となり、斜面を下っていくと公民館のある場所Nに出る。
ただし、この斜面には道は確認されないが、かつてはジグザグに下る道が存在していたのではないかと思われる。

一方、途中から北に分岐した尾根を下ると、曲輪J等が段々に展開し、堀もある。
木戸があったと思われる場所も存在する、この尾根を下って行くと明瞭な道が現れ、最終的に居館跡と推定される吉田神社参道南側の民家Lの裏に出る。
すなわち、このルートが居館からの登城路である。