金砂山城(常陸太田市(旧金砂郷村)上宮河内町)と東金砂神社

 金砂山城は、西金砂神社の地そのものである。
 城址に行く道はいくつかあるが、南東の「金砂の湯」から行く道が最も行きやすい。

 県道29号線を金砂小学校前から山方方面に向かうと「金砂の湯」がある。
 ここから北東に分岐する道を4qほど進むと、西金砂神社の鳥居があり、道が狭くなり林道となる。
 それでも何とか車で行けるが、対向車が来たらこれが大変である。
 急で狭い道をカーブしながら1.5kmほど行くと社務所や駐車場のある「陣ヶ平」という平坦地に至る。

 城址といっても土塁や堀といった城郭遺構はない。
 深い山中にあり、険しい地形そのものが要害と言える。
 この駐車場付近は盆地状であり、標高は335m。水も豊富であり、兵糧さえあればかなりの兵力の駐屯も可能である。
 この南側に50m四方程の平坦地が館のあった場所と言われている。
 金砂郷村史ではこの平坦地の南東、標高400mの山を城跡としている。
 神社は北側にあり、拝殿までの尾根は曲輪状になっているが、これが城の遺構かはわからない。
 本殿はさらに北側、標高412mの岩山の上にあり、ここに登る石段は急である。
 石段は104段あり手すりにつかまって登っても恐怖感を感じる。

 この本殿の場所からの眺望は素晴らしく、物見台があったものと思われる。
 西側は絶壁である。
 城の北端は標高410mのピークあたりまでといわれ、東西300m、南北700mが城域である。
 ところで本殿の建築資材はどうやって運んだのだろか?仮設ロープウエイかな?

 南北朝期には、甕の原の戦いに敗れた佐竹貞義が本拠を太田城より移し、武生城の佐竹軍と連携し、瓜連城の南朝方と激戦を交えているが、この城が直接の戦いの舞台にはなっていない。
 南北朝の戦いは南朝方が千早城や霊山城等の峻険な山城に立て篭もり、あるいは拠点とし、これを北朝方が攻めるという構図の戦いが一般であるが、ここでは全く逆である。 

しかし、この城は他に2回直接の戦いの舞台となっている。
 1回目は、治承4年(1180)、源頼朝が平家方に付いた佐竹秀義を攻撃した時である。

 秀義は金砂山城に籠城し、頼朝は和田義盛らに攻めさせたが、陥落せず、謀略により北側の諸沢の間道から内通者の手引きで侵入して攻めたという。
 秀義はかろうじて城を脱出し、その後、佐竹氏を再興している。

 最後は文亀2年(1502)であり、山入氏に太田城追われた佐竹義舜が、金砂山城に籠城し、山入氏を破った時である。
 これにより永正元年(1504)太田城の奪還に成功し、山入氏を滅ぼし、見事に佐竹氏を再興している。

 このように県内で最高の戦歴を誇る城であり、佐竹氏開運の地として城址に建つ西金砂神社は佐竹氏の崇拝を集めた。
 なお、西金砂神社があるので当然、東金砂神社がある。
 この東金砂神社は東の方向、水府の谷を隔てて、反対側の山にある。

 ここも結構山深い場所である。
 この東金砂神社も山入の乱の舞台となっている。
 孫根城を脱出した佐竹義舜はまず東金砂山に籠城する。
 しかし、山入氏の攻撃に耐え切れず金砂山城に逃れている。

 東金砂山神社のある地は深山の中であるが、神社の建つ場所はそれほど険しい地形ではなく、山の斜面に段郭を築いただけであり、要害性は金砂山城よりはるかに劣る。

 西金砂神社と東金砂神社は、平成15年に行われた金砂大祭礼で有名であるが、西金砂神社は女神、東金砂神社はその弟の男神を奉っているという。
元々は古代にこの地に渡来した海洋氏族によって開かれたと言われる。
本殿へ登る鳥居から見た駐車場と館跡と言われ
る平坦地。
岩山の上に建つ本殿。 本殿西側の目も眩むような崖。
本殿から下野宮方面を見る。頼朝による攻撃は
この方面から行われたと言う。
こちらは東金砂神社の本殿を下から見たもの。
ここも城郭っぽい雰囲気を持つ。
東金砂神社の本殿

 しかし、戦国期に佐竹氏の危機を救ったことから佐竹氏の崇拝を得る。
 大祭礼の行列こそは佐竹氏の紋章が入った旗をなびかせる完全な佐竹氏の軍事パレードであった。
 特に東金砂神社の行列は佐竹氏の紋のみであった。
これに対して西金砂神社の行列には一部、葵の紋が見られた。
 江戸時代には佐竹氏の影響を排除したい水戸徳川家の圧力で東金砂神社は寺院風に変えられてしまっているが、佐竹氏の影響は排除しきれなかったようである。

東金砂神社の行列。幟には佐竹氏の紋章が 東金砂神社の神輿。白と青が基調色。
背負子の衣装にも佐竹の紋が。
こちらは赤と黄色を基調とした西金砂神社の神輿。

(追加 2006年2月12日)

別件で再度、金砂山城を訪れた。
今回はさっと見るということではなく、じっくり見るためである。
館跡の東に標高400mの山があり、金砂郷村史ではこの山に城址の印が付き、ここを金砂山城としている。
この山には館跡の南東端から尾根伝いに登ることができる。

登り口には早くも2段の明瞭な曲輪が確認できる。
尾根伝いには不明瞭ながら曲輪のような平坦地が2箇所ほどある。
この尾根の両側は崖状である。
頂上部は長さ40m、幅7mの2段になった平坦地であり、北側に1段、東側の尾根に3段ほどの平坦地がある。
山頂の平坦地から北の鞍部を経て北にピークがあり、頂上は直径6mほどの平坦地である。
これらは余り明瞭ではないが、城郭遺構と考えて差し支えないと思われる。
ただし、長年の風雨に晒され不明確になっているようである。

この山は風雨を遮るものはなく、この日ももの凄い北風が吹きつけていた。
自然地形だけという印象があるこの城にもちゃんと城郭遺構は存在した訳である。
この山の遺構は物見の砦という規模に過ぎないが、ここを占領されたら麓の館は絶対絶命である。
当然、この山に曲輪位は置くのが当たり前であろう。
この山の遺構が果たして平安末期のものであるか、南北朝期のものであるか、それとも山入の乱の時のものであるのか?

一方、本殿のある岩山から南東に尾根が延び、ピークがある。(拝殿のちょうど東)
ここに行ってみる。ここは2段になり頂上が平坦になっている。ここにも物見台があったらしい。
なお、拝殿の北側の斜面には帯曲輪があり、井戸のような窪みがあった。

館跡東の山、山頂部。2段の平坦地と周囲に曲輪がある。 本殿北300m裏参道の鳥居。
左に行くのが頼朝が攻めた諸沢道。
本殿南東尾根のピークの平坦地。
ここにも物見が置かれたのであろう。
拝殿北側には井戸跡のような横堀状の窪みがある。

本殿から北に向かうと大きな岩のピークが2つあり、300mほど北に鳥居がある。
この方面が搦手口である。ここで道は3方に分岐し、西に下りると諸沢道、頼朝はここから攻撃して城を落としたと伝えられる道である。
東に向かうと水府方面に向かう道。大祭礼の神輿はこの道を下りたという。
この道は武生城との連絡ルートでもある。
そして直進すると城域の北端となる標高411mのピークとなる。
ここも平坦になっており物見があったのであろう。

以上から金砂山城の周囲の山の全てのピークには物見の砦があったらしい。
この城は館跡や社務所付近の小盆地を周囲の山に築かれた砦が守る形になっていたようである。