門部要害城(那珂市門部北坪)

門部館の西側900mの久慈川を北に望む門部台地上にある。
この台地は西から東に延びる台地であり、北が久慈川の低地、南側は台地を浸食した東西に長い谷となっている。
北側の低地からの比高は25mほどである。

この城は細長い台地を分断する一種の街道閉塞用の長塁であるが、長塁に3つの屋敷を兼ねた館(曲輪)が連結している城である。
異形の城と言えるであろう。

台地中央部を県道104号線が通り、長塁跡を垂直に横断している。
台地北側(曲輪V)に高さ2mほどの土塁が南北長さ80m、北側の縁部に東西60mほどにわたりL型に存在しているのが確認できる。
また、南側の民家(曲輪T)西側と東側に土塁跡が確認できる。

北側の曲輪Vの東端に要害古墳があるが、物見台、狼煙台として使われていたのではないかと思われる。

川崎春二著「奥七郡の城郭址と佐竹四百七十年史」によると3つの曲輪は台地を遮断するように南北に並んでいたという。
鳥瞰図は、川崎氏の著書掲載図から作成したものである。


曲輪Vは土塁のみが残存し、曲輪内は畑になっているが、南側の2つの曲輪は宅地になってしまい遺構はかなり失われ土塁の残痕が確認できるのみである。

川崎氏の著書から推定すると、これは街道を遮断する長塁と考えるのが妥当であろう。
地形から見て長塁は全長南北300mほどあったようである。
中央部に段差があり、南側が2〜3mほど高い。


↑ 良好に残存する曲輪V西側の土塁、右側が曲輪内部にあたる。

小美玉市の堅倉砦に非常に良く似るが、現在残る土塁から推定すると堅倉砦の突き出しの部分より遥かに大きい。
この突き出し部は湯崎城の横矢腰曲輪と良く似ている。

なお、川崎春二著「奥七郡の城郭址と佐竹四百七十年史」掲載図には西側に堀が1本描かれている。
その痕跡を探したが場所を特定するには至らなかった。

残存土塁から西150mにある北に降りる谷津状の部分が堀であったのではないかと思う。
ここなら堀工事が一番短くて済むが・・ただし、その堀の想定延長上にも堀痕跡は確認できない。

長弾上という者が住んだというが、この人物についてはいつの時代の者か分からない。
残存する土塁を良く観察すると土塁の西側に堀跡が残る。

片倉砦や湯崎城の場合、突き出した部分が防御方向であるため、東の額田、酒出方面からの侵攻を防ぐ目的を持っている城と思ったが、土塁の西側に堀が存在しているため、防御方向は逆の瓜連方面と考えるべきであろうか。
当初、守るべき城とは瓜連城と考えたがそうではなさそうである。

@北に残る曲輪Vの土塁西側の道は窪んでおり堀跡。
先に行くと明瞭な堀が現れる。
A曲輪V西側の土塁の南端部には社がある。
櫓台の跡だろうか。
B曲輪V北に残る土塁は東に折れ、その東側に堀がある。

逆に瓜連城の南朝方に対する北朝方の城ということも想定される。
しかし、当時、北朝方の主力、佐竹氏は本拠の常陸太田城を放棄して武生(たきゅう)城、金砂山城に籠るくらいに劣勢だったので、こんな場所に瓜連城に対する城を築く余裕があったとは思えない。
瓜連城と言えば南北朝に激戦を交えた城である。
果たしてこの時代にこんな構造の城があったのであろうか?と考えると南北朝期の城というのは疑問が残る。

C曲輪U北側の段差 D台地南側、曲輪Tの土塁の残部。

もっと後の時代の城のように思える。
むしろ、東900mにある門部館の西を守る出城と考えるべきであろう。

3つあった曲輪は家臣の屋敷であり、3つの屋敷を連結したのであろう。
もう少し東側がこの細長い台地の最狭隘部(150m)であり、ここに長塁を構築した方が防御や築城に効率的である。

東側の門部館を守る城とすれば、まず中央部の曲輪Uと南側の曲輪Tが始めに造られ、最狭隘部を遮断し、その後、一段低い北側部分に現在L型に土塁が残る曲輪Vを増築したのではないだろうか。
なお、古道がどこを通っていたのかははっきりしないが、現在の県道104号ではなく、台地北側を通る道路だったのではないだろうか。
この場所で北側の曲輪と中央部の曲輪の間を通過していたのではないかと思う。