磯部館(桜川市(旧岩瀬町)磯部)
国道50号線の北、磯部稲荷神社@境内から岩瀬東中学校の敷地にかけての台地北端部が館跡である。
この付近は比高15m程度の比較的傾斜が緩い台地である。
周囲は低地であり、当時は湿地帯に囲まれた場所だったと思われる。

ここに行ったのは2014年12月17日、実に10年振り。
神社東側に残る堀Bが見れればOK、という軽い気持ちで立ち寄った。

神社の南側の入口付近には土塁Aが残る。
神社前の道は堀跡であったようである。
南側の集落は根小屋であろう。
境内の広さは南北110m、東西最大60mほどである。

ここで、宮司さんに話を聞くことができた。
堀は1本ではなく、2重、3重に存在していたという。
北側の中学校の建設で3重目の堀は湮滅しているそうである。

また、本丸に当たる場所は神社の地ではなく、東下にある宮司さんの家の場所Cという。
そこが居館の地だったという。
本丸に当たる場所は神社の地ではないということが非常に奇異である。
根小屋から遥かに低い場所である。ここからは根小屋地区は全く見えない。
見えるのは南側に加波山であり、館主にとり加波山が信仰の対象であったようである。

@館跡にあたる磯部稲荷 A神社入口部に土塁が残る B神社東側に横堀が残る。右側にもう1本。

しかし、この構造、那珂市の南酒出城にもあった。
御城という城主居館が根小屋地区より低い場所にあり、根小屋からは見えないようになっているのである。
磯部館のこの構造も同じと思われる。
神社の境内から東下に降りる道があるが、これが通路兼竪堀だったと思われる。
この道の北側に登って驚く。そこは竪土塁であった。
この竪土塁は東の低地部まで延びていたが削られたという。

C神社東下が居館であり、こちらが主体部である。 D館跡東は低湿地、かつて池があったという。 E館跡(右)の北は岩瀬東中のグランド。
この道付近に堀があったらしい。

この竪土塁に登るとその北側に竪堀があり、もう1本の竪土塁がある。
竪堀は神社東で横堀になり、居館の地をコの字形に覆う。
さらに中学校側にもう1本の堀が存在し、居館の北側を覆う。
さらに中学校校庭南にもう1本の堀Eが存在していたことになる。
神社入口の道路は堀の跡だった証拠にそこから東下に堀が延びているのが確認できた。

本来は現在、道路になっている西側にも堀は廻っていたのであろう。
居館の地の東側Dは湿地帯であったと思われ、かつて池があったそうである。

宮司さんのいうように、2重の堀がコの字形で覆っていることから、磯部館の主体部は東下の居館部であり、神社境内は居館部を守るための施設であったようである。
こう考えると主要部が低地にある小諸城同様の穴城とも言える。
非常に変わった形態の城館、異形の城と言えるだろう。

館の歴史は明確ではないが、笠間氏家臣の城だったようである。この地は益子氏との境界部である。
両氏とも宇都宮氏家臣ではあるが、非常に仲が悪く紛争ばかり繰り返していた。
こんなのどかな田舎でも緊迫の時があったのだ。富谷城の益子氏側に対して、ここ磯部館、池亀城が笠間氏側の最前線であったという。