石岡城(北茨城市中郷町石岡)
茨城県の石岡市にある城ではない。
同じ名前の石岡城でもこちらは北茨城市中郷町石岡にある城である。

この地区には大北川が西から流れ、その水を利用した東京発電株式会社の石岡第一、第二発電所がある。
明治から大正にかけて開発を進めていた日立鉱山の採掘、精錬の動力をまかなうために建設されたものである。
その施設は国の登録文化財であり、機器も当時のものである。

その石岡第一発電所と第二発電所間にある標高140mの山が石岡城である。
城内を送電線が縦断する。
大北川からの比高は最高箇所で90m、山は東西に長く、長さは東西400m、幅は最高でも70mほどの細長い直線連郭式であり、最高箇所の西端に本郭を置く。
南側大北川側は断崖である。
城には東側から延びる細い道を行く、途中で未舗装となるが、車は十分に走行可能である。
この道が石岡第二発電所の上にかかる部分に切通しがあり、そこに駐車する。

この切通し、元々は堀切であり、それを利用して拡張したものではないかと思われる。ここから西に延びる山道を行くと城址である。
この地点の標高は90m、最高箇所までは比高が50mほどである。
肝心の遺構であるが、かなり不明確な部分があり、風化が激しいのかもしれない。例によって藪も酷い。
特に棘のあるイバラの存在がかなり見学の支障となる。
この城、土塁、竪堀、虎口、土橋、削平は確認できるのであるが、もっとも一般的な堀切はあまり確認できなかった。
かなり古いタイプの城のような印象を受けた。

切通しから西に延びる山道を入っていくと、南下に下る竪堀@が現れ、その先が木戸があったような感じであり、道が堀底道となる。
その道を行くと土橋があり、両側に堀Aがある。
その先北側に馬出のような曲輪があり、土塁が覆う。
この曲輪は帯曲輪となって主郭部北側を覆う。

虎口がありここからが主郭部である。
しかし、この虎口、どうやら鉄塔メンテナンス用の後付けのようであり、本来は南に回り込んで主郭部に入ったようである。

曲輪X、ここは30m四方ほどの広さ、虎口を覆うように土塁がある。
一段高く、曲輪Wがあるが、東西70m、南北30mほどの曲輪であり、内部は緩やかに傾斜している。

中央部が土塁のように若干高い。
その先の一段高い曲輪Vは東西50m、南北30mほどの広さで、ここも緩やかに東に傾斜している。
鉄塔が建つ土塁を越えると北側を覆う帯曲輪で出る。

この帯曲輪は本郭の北下を覆うが、本郭の北側ではさらに北側7m下に横堀Fがある。
曲輪Vの西に土橋と堀Bがあり、曲輪Uの虎口が開く。
曲輪Uは30m四方で内部は平坦であるが、北側は本郭の北を覆う横堀状の曲輪Eに通じる。

曲輪Uからさらに4m高く、最高地点の本郭、曲輪TCである。
50m×40mほどの広さであり、西側から南側に高さ2mほどの土塁Dが覆い、南側は土壇のように広くなっている。
西側は急傾斜であるが、下に帯曲輪が見える。
南西端の土壇には井楼櫓が建っていたのではないかと思う。
本郭の西側方面の尾根にも曲輪が存在したと思われるが、イバラが凄く行けなかった。


@東側の道路切通しから入っていくとこの竪堀がある。

←南東下大北川から見た城址。
右が石岡第二発電所
A @の竪堀の先に行くと城入口の竪堀がある。 B主郭部入口、曲輪U、V間の堀 C本郭内部、比較的平坦であるが、藪!!
D本郭西側を覆う土塁 E本郭北側、曲輪Uから続く横堀?土塁付曲輪? F本郭北下の堀?曲輪?

龍子山城の支城であり、城主は大塚氏一族であったと思われ、永禄年間は大塚成舜が城主であったという伝承がある。
永禄8年(1565)、佐竹氏重臣の小野崎氏に龍子山城が攻められた時、これを撃退したという。

その後、大塚一族は佐竹氏に従属するが、天正2年(1574)伊達氏の岩城氏攻撃時、高貫城を救援し、伊達軍を撃破したという。
城は大塚氏が慶長元年(1596)折木城に移転した時、廃城になったという。

この伝承であると戦国末期まで使われていた城ということになる。
普段、使用していなかったとしても、緊急時の城として整備されていたはずである。

しかし、遺構を見た感じでは、規模はそこそこ大きいものの、曲輪内部は平坦化されていなくそれほど整備されていたような感じは受けない。
居住を目的とした城ではないであろう。

城主の館は麓の石岡地区付近にあったのではないかと思う。
遺構も古臭い感じで、埋没、風化も進んでいるような感じである。
より古い時代に使用を停止していたのか、臨時の時に使うか、陣城として使われた程度のものではないかと思う。

島崎城(北茨城市中郷町松井)
北茨城ICの南1.5q、南から大北川の低地方面に張り出した比高20mほどの岡がある。

↑西側から見た城址の岡、先端部は削られている。木が切られている場所が北城にあたる。

当時は南側以外は湿地帯であり、そこに半島状に北側に突き出ていたのだろう。
明らかに北方向が敵を想定する方向である。
名前の「島崎」もその地形から来ているのだろう。
別名を巴城とも言うが、上から見ると「巴」形をしていることによる。

その半島状の岡先端部分が城址である。
岡先端部付近は一段高いが、南の山地に続く鞍部になっている部分は先端部より10mほど低い。
岡の上はまっ平らであり広いが、岡に上がるアクセスが難しい。

岡の東側から南側にかけての下には民家があり、行く道が分からない。
困ったことに田舎に付き人もいない。これは困る。
西側から登れるかと思うが、この方面は急勾配の上、鬱蒼とした杉林、突破が難しい。

登り口を探していたら、岡先端西側の「霊友会」の施設の南側に上り口を発見。
ここを行くとちょうど城址の南西端に出て、そこから岡の上に上がれる。
その岡下からのの登り口@であるが、竪堀を利用したもののように思える。


↑ 岡先端部から見た北方面。最高の物見の場所であることが分かる。

岡の上の鞍部状の場所までは比高10mであるが、城址部はそこからさらに比高10mほど上ある。
すでに帯曲輪が岡の南側と西側の一部にまわっているのが確認できる。
岡の上は驚くくらい平坦。(標高は28m、岡下の水田は6m)
かつては一面の畑だったようだが、かなりの場所で耕作が放棄され、薄が生えた状態である。

岡の上の曲輪全体の城域は底辺120m、高さ200mの三角形状である。
曲輪は3つ存在していたという。

中央部に御塚神社があり、標高は32.5mその部分が周囲より高さ4mほど高い土壇Aになっている。
この土壇は東西40m、南北20m程度の大きさ。西側が鍵状に抉れている。
この土壇は古墳なのだろうか?御塚神社も建っているし。
この御塚神社の東側に堀跡がある。
この堀はこの土壇の南側を通り、西側まで延びていたらしい。
ここから南部分を南城という。

神社の土壇から北側を中城という。
神社から岡の東?を北に行き、東下を覗き込むと8mほど下に帯曲輪Eが巡っている。
帯曲輪を造り出すことにより切岸の勾配を急にしていることが分かる。

さらに北に行くと、幅12mほどの堀跡Bがあり、先端の曲輪となる。
そこが北城である。
堀は西側は竪堀となり、東側は竪堀兼用の通路となっている。
先端部の曲輪、北城は畑Cとなっており40m×70mほどの広さ。
北側、西側の木が切られたため、眺望が非常に良い。

@南西端のこの道は竪堀跡か? A御塚神社部分は高さ4m、手前が堀跡らしい。 B北城と中城間の堀切跡。
C先端の北城内部は畑になっている。 D岡先端部は湮滅している。帯曲輪が確認できる。 E東側の帯曲輪を東下から見る。

さらに先端部に一段低く帯曲輪Dが回っていたらしいが、岡先端部が削られており先端部は湮滅している。
この城、広くて居住性は良いが、岡の上は風が吹きさらしであるため寒い。
そのため、現在も集落は岡の下である。
特に岡南側の鞍部などは岡が風避けにもなり、日当たりも良好である。

居館をおくには理想的な場所である。したがい、当時も岡の上に居館があったのかはなんともいえない。
また、当時、岡の周囲は南側を除いて湿地だったと思われ要害性もそこそこ良い。
しかし、防衛の弱点である山に続く南側が長く、防衛線が長い。
また、曲輪自体も広すぎ、守るにはかなりの人数がいないと無理である。
ただし、岡先端部からの眺望だけは抜群である。
結局、物見や軍勢の宿営地用に使われる城だったのかもしれない。
常北遺聞によると、竜子山城の出城であり、大塚氏家臣の滝対馬が城代であったという。
北の岩城氏に対する城であったことが分かる。