根本館(常陸太田市白羽町字西ノ内) (36.5684,140.5452)
「根本さん」は全国に約92000人ほどいるそうである。
姓別としては全国で236位だそうである。
そのうち、22400人は茨城にいるそうである。
根本姓、茨城では7位、圧倒的に多い。県民の0.43%が根本さんだそうである。
県外にも根本さんは多いが、茨城にルーツがある人も多いらしい。
秋田の根本さんも茨城にルーツを持つ人が多いと思われる。
さらに茨城の根本さん、県北地域に圧倒的に多い。
この館の地元、常陸太田では市民の3%が何と根本さんなのだそうである。
職場でも学校でもだいたい一人は根本さんがいる。
そのほとんどの根本さんのルーツがこの根本館と言われる。 |
その根本氏ルーツの館、根本館は里川左岸、里川を西の眼下に見る両側を侵食谷に囲まれた東の山地から延びる舌状台地の先端部にある。
館の北側は里川に流れ込む沢が侵食した崖であり、南側はやや緩い斜面、東側は台地平坦部に続く。
現在の根本館、遺構の残存状態は酷いものである。
@館内部西側、土塁の残痕がある。 民家は一段低い腰曲輪に建つ。 |
A館内部東側、鳥居の左にBの櫓台がある。 鳥居と家の間の上に見える山が詰城の「白羽要害」 |
B数少ない残存遺構、北東端の櫓台・・藪で分からん! |
わずかに土塁と櫓台Bが残り、本郭部@A付近が少し高く形状が把握できる程度に過ぎない。
土塁のほとんどは崩され、堀が埋められしまっており、かつての姿の再現は困難になっている。
ここまで破壊が進んでしまったのは館があった場所が、広く平坦であり、耕作するのは非常に良い場所だからである。
と言うことで、この根本館については半湮滅状態、ほとんど再現不能、トライしても無駄、ということで放置というか無視していた。
C東から見た本郭部、建物は稲荷社、手前に堀があった。右にB櫓台がある。 |
ところが、本郭からかなり離れた場所に土塁や虎口らしいものがあることを知った。
そこで2020年10月8日、地元のO氏、S氏なども交え、5名で調査した。
その結果、館は2郭からなり、南北約170m、東西110〜120mというかなりの大型のものであることが分かった。
居館のレベルとしては県内最大級の部類である。規模だけなら城としても良いレベルである。
この規模を有する館の館主、根本氏の実力はかなり大きなものであったことが推定される。
これだけの子孫を残していることからも伺えるだろう。
D二郭南端から見た曲輪内、先が本郭。 | E二郭南端東側の土塁 | F大手虎口、高さ約7mの切岸を一気に下る。 |
当初、本郭部のみの単郭と思われていたが、その本郭部は標高が40m、東西約90m、南北約60m、西側から南側にかけてL形に幅約15mの帯曲輪が覆っている。
帯曲輪南側は宅地になっている。
これだけの規模ならまずまずの規模を持つ居館であり、それほと特筆すべきほどのものではない。
土塁は残存状態から推定し、東側から南側の台地続きの部分のみを覆っていたようである。
←G館北側は高さ約15mのある崖、この方面は安全である。
堀も本郭の外側に存在していたようであるが、東側には北に下る竪堀の存在から堀があったのは確実であるが、南側(特に南側の西半分)を覆っていたのかははっきりしない。 北は高さ15mほどある崖Gであり、この方面からの攻撃を心配する必要はない。 虎口は東と南にあったようである。 この本郭の地から東を見ると白羽要害がはっきり見えるA。 この根本館の詰めの城も白羽要害であったのだろう。 その南の虎口からは道が南に延び100m先に虎口Fがあり、末端部が鋭い切岸になっている。 さらに両側に一部土塁Eが残る。 どうやらここが大手虎口だったようであり、本郭の南側も館域だったことになる。 ここが二郭だったと思われる。D 広さは東西約80m、南北約110m、標高は本郭部より若干低い約37m。 しかし、そこから台地続きの東側が平坦で何もない。 これでは館の防衛は成り立たない。 でも、まさか東側が柵列だけということではないだろう。虎口の立派さと釣り合わない。 東側に堀と土塁が存在していたはずである。 そこで地籍図を調べてみた。 その結果、本郭の東の堀位置から真っ直ぐ南に地籍境界が延びていることが確認できた。 さらに古い航空写真を見るとその地籍境界に沿って土壌の変色部が確認された。 これは堀を土塁の土砂で埋めた跡と推定された。 これらから東に台地を分断する堀と土塁が存在していたようである。 さらに東にもう1本、堀があった可能性もある。 一方、館の西側は高さが10mほど低くなり、里川からは約10m高い平坦部になっている。この場所にも何かあったような気がする。 里川の水運に関わる倉庫などが建っていた可能性もあろう。 |
(以前の記事)根本館(白羽町字西ノ内)
里川左岸、里川を西の眼下に見る両側を侵食谷に囲まれた東の山地から延びる舌状台地の先端部にある。
館の北側は里川に流れ込む沢が侵食した崖であり、南側はやや緩い斜面、東側は台地平坦部に続く。
本郭部は、東西約100m、南北約50mの長方形。
館のある場所の比高は約20m。
里川側の一段低い位置に腰曲輪がある。
本郭の入口は東側にあり、この部分は台地を掘り切り二重土塁が設けられていた。
土塁は畑と宅地となりほとんど失われている。
館主は藤原秀郷流 小野崎通成の子盛通が根本氏を称して居住し、以後18代に渡り在館したというが、いつまで居館していたかは不明である。
館跡を南東側から見る。
土塁が残存しているのが確認できるが、ほとんど遺構は湮滅している。
幡館(幡町森東)
幡館は常陸太田市役所の東約1km里川左岸の幡台地南端に位置し、茨城県遺跡地図によると長幡部神社の南側にあったことになっている。
現地の地形と照らし合わせると単郭の館ということになるが、良く観察すると長幡部神社境内にも土塁や堀の跡があり、東側には明確な帯曲輪が見られる.
このことから、ここも館の領域であったようである。
したがって、2つの曲輪からなっていたようである。
長幡部神社境内も館の領域とすれば、東西100m、南北200mの広さである。
館址の西と南側は急坂であり登攀は難しいが、東は比較的緩やかな斜面が低地まで続き、裾野が森東の集落である。
北側はほぼ平坦であり、台地中心部につながる。
館のある場所の比高は約35mである。 館址とされる神社南側は平坦地Tであり、ここは間違いなく城館跡である。 ここは南北70m、東西50mの広さを持つ長方形であり、広い。居住を兼ねた空間である。 北側以外の3方向は高さ3m〜4mの切岸に加工され、東側には長さ25mにわたり土塁が残る。 ただしこの土塁は1mほどの高さしかない。 切岸の下には帯曲輪が取り巻く。東側は幅10m程度と狭いが、西側は15mの幅を持つ。 北側の長幡部神社境内南東側にある天満宮の社は土塁上に建つ。 この土塁は高さ2m、幅は10m、長さ30mある。古墳を転用したものである可能性が大きい。 土塁上に大きな板状の岩があるが、石室のものかあるいは門の礎石ではないかと思われる。 土塁の南側が窪んでおり、ここは堀跡ではないかと思われる。 土塁が外側にあり、堀が内側におく形式は古代の城に多いので、この館の歴史は中世以前に遡る可能性もある。 この曲輪Tへの入口は3箇所ある。1つは北側(長幡部神社の東側)であり、ここには土橋が土塁東側に残る。 その東側には堀が残る。もう一つは曲輪南側から南東の森東の集落側に下る道である。 その途中には物見台のような盛り上がりを持つ曲輪がある。 最後の一つは郭南側から南西下に下りる道であるが、この道は急坂であるが、やはり途中に曲輪が残る。 一方、北側の神社境内東の林の中に土塁跡と思われる列状の土の盛り上がりが20mにわたり存在するので、神社境内も曲輪であった可能性が大きい。 |
この館の関係で最も城郭らしい雰囲気のある遺構は、館の地より西に200mにある長幡部神社の参道である。
ここは柔らかい凝灰岩を削って造った切通であり、深さは3mほどもあり、鎌倉の切通と良く似た景観である。
この道は蛇行しながら50mほど続き、台地下に通じる。
この切通の道がいつごろ造られたか不明であるが、本来、この道が大手道であり、現在の長幡神社境内を通り、北側の虎口から館内に入っていたのではないかと思う。
館主は不明であるが、常陸風土記にこの地に機織を業とする長幡部族という集団がおり、その長の館ではないかという説がある。
この一族は律令制の下で発展し、律令制の崩壊に伴い衰えたと推定されるため、館も平安時代初期頃までには機能し、その後は放棄されてしまった可能性もある。
したがって、古代末期の豪族の館と考えることもできる。堀を内側に置く形式はこの推定を示唆する。
なお、機織りが行われた場所はこの地より北側400mの地点と言われており、当時使用された土師器はその地より多く出土している。
ところが、館址付近からの土師器の出土は少なく、旧石器や縄文時代前期、弥生時代の土器が結構出土する。
(東の山麓には縄文早期、前期に形成された森東貝塚、築崎貝塚が立地する。)
この点からは古代末期、中世初頭の館である可能性は低いのではないかとも思われる。
室町初期の佐竹氏家臣団の佐都東西郡奉公衆に「幡」氏の名が見られ、幡館がその居館であった可能性が大きい。
水戸の長者山城のように古代末期の館を利用したとも考えられる。
館のある場所は常陸太田城の東側の台地先端部であり、常陸太田城防衛上の物見などの役割があったと思われる。
台地を北側に2.5q行くと田渡城である。
「幡」氏が長幡部族の末裔で、佐竹氏の家臣団に組み入れられたものか、全く関係ない一族なのかは不明である。
その後の「幡」氏についての記録は明確でない。
長幡部神社東の土橋から見た堀状遺構。 | 神社西側にある台地下から登る参道。 |
本郭跡 | 本郭の東側に残る土塁 | 本郭北側の土塁(古墳?)と堀(右側) |
長幡部神社は、常陸太田市内では最古の神社であり、この神社を奉った長幡部族は常陸風土記にも登場する。
美濃から来た織物の専門集団であり、一族の墳墓である幡横穴群には船の線刻壁画を持つものもある。
当然、船でこの地に渡来したと思われ、久慈川河口から上陸した可能性が大きい。
金砂神社の神は海からやって来て久慈川河口に上陸したと伝えられているが、この神は先祖を置き換えたものらしい。
砂神社の神と長幡部族がどのような関係かは不明である。
あるいは同一かもしれないが、同一ルートでこの地に来たらしい。
佐竹氏の重臣に石神、額田、山尾に城を構えた小野崎氏がいる。
小野崎氏は佐竹氏がこの地を支配する前の馬坂城、常陸太田城の城主である。
一応、藤原秀郷の子孫と伝えられるが、これは疑問が持たれている。
小野崎氏がこの地に来た場合、当然、原住民との間で軋轢が生じるはずであるが、そのような記録、伝承もなく、いきなり馬坂城、常陸太田城の城主として登場する。
むしろ長幡部族など古代氏族の末裔であると考える説もある。
なお、長幡部神社はもともと北700mの地点にあったと伝えられており、江戸時代には現在の地に建てられているので、この館が廃館になった後に移転されて来たと思われる。
大森薄井館(大森町)
城館が密集する常陸太田市東部、多賀山地南端の谷津が発達した比高20mの尾根上に築かれている。
佐竹氏の旗本薄井(臼井)玄蓄の館と伝えられ、佐竹氏の秋田移封時まで存続していたと言われる。
残念ながらこれ以上のことは分からない。
非常に細い道が入り組んだ場所にあり、館のある場所がなかなか分からなかったが、山林をさまよって何とか見つけ出すことができた。 この北東側も曲輪のようであるが、内部は自然地形であり、加工した形跡はない。 |
主郭南側の中央部に登り道がある。西側と東側は2mほどの切岸となっている。 東側にはお化けが出そうな廃屋があり、曲輪の一部が破壊されているようである。 東側の窪地は幅20m程度あるが、その東には平坦な台地が続いているだけである。 これは防御上疑問があり、どうも廃屋が建設された時、埋められたのであろう。 川崎春二氏の「奥七郡の城館址と佐竹470年史」ではこの部分は二重堀であったという。 |
玄蕃坂を登ると主郭東の堀に出る。 | 主郭東側の堀跡。ここは二重堀になっていたという。 | 主郭北側の土塁。 | 主郭北側の切岸。 |
主郭西側の堀。 | 主郭西側の堀北側。 | 大手口の土橋。両側は堀状となっており、正面左右に土塁がある。 |
春友館(春友町字堀の内)
里川が蛇行して流れる里美に通じる山間にある。
館は里川の左岸の河岸段丘上にあり、館西側に里川低地の水田地帯を見下ろす。
館のある台地は低地からの比高は10m程度。
館の規模は150m四方の大きさを持つ単郭である。
館の周囲には全周にわたり土塁が築かれ、平坦部に続く東側と南側には堀が存在していた。
現在、館址は畑、宅地となっているため、ほとんど遺構は確認できないが、台地西側の大手口付近に台地縁部に沿って土塁が見られる。
台地上は平坦であり、東側は山地、残る3方は侵食谷。
館主は佐竹氏の近習衆の武藤氏と伝えられるが確証はない。
大手口に残る土塁 | 館東側。堀、土塁は隠滅している。 |
館址を西側の低地から見る。