沖宿堀の内館(土浦市沖宿)
霞ヶ浦に面した「かすみがうら市」との境界付近に位置する沖宿地区にある。
館を置くなら霞ヶ浦を望む丘上が望ましいと思われるが、この館は湖岸に面した低地の標高3.3mの微高地にある。
県道118号線沿いにある沖宿郵便局の東約400m、集落東端の水田地帯との接点にある。
現在でも周囲は蓮田であり、堀がそのまま蓮田である。

当時もこの景観はそれほど変わらず、泥田に囲まれた場所にあったのであろう。
この泥田、水堀以上に厄介である。
入ったら足が抜けない。そこを矢で狙われたら一たまりもない。
最強の防御施設と言えるだろう。

現在なら何でこんな場所に?と思うだろうが立地としては最高のチョイスと言えるだろう。
おそらく当時は乱杭が打たれ、綱が渡され高瀬舟でないと接近できなかったであろう。
←館西側の堀は蓮田になっている。左が曲輪内。
このような立地の城館、北西約3kmにある「木田余城」と同じである。
小美玉市玉里の「城之内館」も似た感じである。
館の規模は約100m四方に過ぎない。形は単郭方形である。
堀に囲まれるが、東側半分は宅地となって失われてはいるがL型に残る。

歴史等は分からないが、場所的には木田余城の支城を兼ねた小田氏家臣の居館と推定される。
小田治朝という説もある。

航空写真及び地図は国土地理院地図のものを使用。

木田余城(土浦市木余田)
「木田余」という字を読める人は少ないだろう。
「きだまり」と読むのだそうである。結構良い響きの地名である。でも珍地名に間違いなし。
この城は佐竹氏の攻撃の度、小田城を奪われた小田氏治の逃げ込み城として土浦城や藤沢城とともに登場する城である。

土浦城は近世まで存続し立派な遺構を残し、藤沢城もそこそこの遺構を残すが、この木余田城は歴史に名を残す城ではあるが、遺構がほとんどない。
なにしろ肝心の部分は常磐線の電車基地や線路の下である。
城址碑がその線路に挟まれた場所にあるが、そこが城の中心部であるのかもはっきりしない。

↑の写真は昭和21年にアメリカ軍が撮影した城址付近である。
中央部に南北に常磐線が貫通する。操車場は当時はない。
城址付近がうっすらと方形地形が浮かび上がる。
下の写真はこの写真の上部、線路右側部分である。


城は土浦城の本丸から北東1.5qの位置にあり、中城、城の内、横堀などの地名が残る。
中城は本郭を意味していると思われる。
広さは300m四方の大きさがあったという。

土浦城と同じ、水城であったといい、沼の中に島状に郭が浮かんでいたという。
今も常磐線の線路の東側は一面のレンコン畑、蓮田であり、この風景は意外と当時と変わらない感じなのかもしれない。
このレンコン畑、直に見ると想像以上の要害である。
ここに足を入れたらまったく身動きできないだろう。
乱杭を打ちロープを張り巡らせば、防御は完璧であろう。
当時は舟で行き来していたのだろうか。

堀跡らしいが・・左は寺跡だったという。 城北東端部の堀跡推定地、レンコン畑である。 付近一帯は一面のレンコン畑、凄い要害である。
当時も似た風景だったであろう。

遺構はほとんど分からない状態であるが、北東側の集落に土塁と堀の残痕が残る。
これが遺構の一部と思われるが、五輪塔も多く見られ、後世寺が置かれた廃寺跡のようでもある。。
この集落も外郭部と思われ、北東側に堀跡と土橋跡らしいものが残る。
土浦城とは至近距離であるが、この城とは双子城の関係であり、相互に補完しあう関係であったと思われる。

もともとは小田氏家臣信太氏の城であったが、築城時期は不明である。
始めは台地にあったという。付近の城とすれば1q北東にある手野城のことだろうか。  
この低地に木田余城が移った時期は分からないが、戦国時代、小田氏が佐竹氏に圧迫されつつあるころと思われる。
湿地帯が強力な防御施設であったためであろう。

←線路間に建てられた城址碑。でも周囲にはなにもない。

永禄年間、信太氏は主家小田氏に滅ぼされ、城は小田氏の直轄になっていたが、度重なる佐竹氏の攻撃で小田氏は降伏状態で和議を結び、和議の条件として、破壊されてしまったという。
しかし、ある程度の遺構は残っていたようであり、江戸時代、朽木氏が土浦城主の時、城跡の湮滅を心配して、宝積寺を移した。
宝積寺は明治時代、蒸気機関車からの飛び火で寺は焼けてしまった。
今では城跡の一角に五輪塔三基が建つのみである。
これらは信太伊勢守範宗と妻及び嫡子紀八の墓と伝えられる。