猿壁城(石岡市(旧八郷町)小屋)
上曽地区の真北に位置する釣鐘状の標高241.8mの猿壁山の山頂にある。
この山、南、東方向からは一見独立峰に見えるが北西側が足尾山628mに続く。
すなわち足尾山の尾根末端部にある訳である。

↑は南側、上曽地区から見た猿壁山。山頂部が城址である。

南麓の上曽地区からは比高200mほどあるが、山裾を林道が通っており、この林道を利用すれば比高を50mほど稼げる。
しかし、この林道、荒れていて棘のある枝が道路に突き出しており、走れるものではない。
車で行くと傷だらけになる。
特に南側からは行かない方が良い。
北側から向かう方が良い。(通行止めの標示が道路真ん中に出されているが、これを自己責任で無視して・・。)
山に登る道も林道沿いの東西にあるらしいのであるが、まったく林道脇からは確認できない。
南側から登れそうな道があったのでそこを行くが、途中で分からなくなり、岩場に出てしまった。
その岩場をよじ登り、ようやく山頂南直下に到達。

しばらく登ると曲輪3であるが、曲輪3だけ見ればがっかり。
しかし、北に行くほど素晴らしい遺構が現れるのである。
この城、北西から南東にかけての尾根頂上部170mほどが城域である。
幅は最大で50m程度である。
3つの曲輪からなるが、南端の曲輪3が果たして曲輪といえるか疑問である。
曲輪3は不整地の幅広い緩斜面に過ぎないからである。

この曲輪が不整地なのはこの山の南側斜面、岩盤剥きだしの急勾配であり、この方面からの攻撃は想定しなくてもよいからであろう。
防備は尾根続きの北西方向が厳重であり、尾根続きからの攻撃に備え、北側に曲輪2が構築される。
曲輪の標高は238m、本郭部より4m低い。
30m×15mの小さな曲輪であるが、北側に土塁を持つ。
北下4mにU字形の横掘り状の堀切を持つ。
東西は急坂であり竪堀が下る。
特徴として曲輪2は東側に内枡形のスペースがある。
本郭との間にも堀Bがあり、天幅15m、本郭側からの深さは7mある。

この堀から本郭の東下に南東側に横堀Cが40mほど延び、先端が竪堀となって落ちる。
その末端部から東に比較的広い尾根Eが下って行く。
これが大手道であり、麓の根古屋館に通じる。
この横堀は通路も兼ねているのであろう。

@本郭南側の曲輪3間との堀切 A本郭内部は段々状になっている。 B本郭北側の堀切
C本郭東下の通路兼用の横堀 D北端の堀切 E東下、根古屋館方面に下る尾根上の曲輪群

本郭Aは70m×25mほどあり、内部は3段ほどになっている。
北端部が最高箇所で標高は241.8m。

南側に行くに従い若干低くなり、末端部とは高低差は6mほどある。
虎口は北端部にあり、斜めに本郭に入るようになっている。

本郭南下5mに堀切@があり、曲輪3になる。
堀底から本郭東側下に回り込んで腰曲輪がある。
この腰曲輪、途中から犬走りとなり、横堀末端の大手口にまで通じる。
大した城ではないという先入観があったが、堀の深さ、切岸の鋭さ、土塁の配置等、技巧的であり想像以上の城であった。

上曽城、根古屋館の詰め城と言われる。
上曽氏は小田氏一族であり、八郷の地は小田領であったが、片野城を拠点に佐竹氏家臣となった太田三楽斎資正が小田領浸食を開始。
小田氏も反撃するがついには圧倒され、八郷は佐竹領となる。
当然、上曽氏も小田一族として佐竹氏と戦う。猿壁城は佐竹、小田の抗争以前から存在していたと思われるが、今の猿壁城の姿は佐竹氏との抗争の頃、整備された姿であろう。
確かにこんな高い山にこの気合の入った城、抗争の緊迫感の反映であろう。
上曽氏は結局、佐竹氏に下り、佐竹家臣となる。
その後もここ上曽付近に住んだようである。そして、関ヶ原後、佐竹氏に従い秋田に去る。

根古屋館(石岡市(旧八郷町)小山田)
猿壁城の麓の館である。
猿壁城の東500mにあるがそれは水平距離、比高は200mある。
館からは真っ直ぐ猿壁城に登る道が付いているようである。
谷津の奥にある尾根末端部とその南下の民家が館跡である。

↑ 根古屋館の地に建つ民家、右の林の中に土塁がある。左の山が猿壁城

標高は50m。民家の地は北側が山で北風が防げ、日当たりが良い居住に適した場所である。
南側の水田は堀も兼ねていたのであろう。

また、民家敷地西側には土塁の痕跡らしいものが存在する。
民家にお住まいなのは「藤代」さん。
城主の末裔か。
お断りして裏山に。民家の西側に山に入って行く道があるが、何とそれ堀@じゃない!
用水路で埋められてはいたが、その先は尾根を分断Aしていた。

西側には堀はなかった。

猿壁城まで続くと推定される道が延びていただけである。
一方、民家の北側の山は、平坦化されており、北側に孤を描きながら土塁Bが回っていた。
土塁上には氏神の祠と大木があった。

ここの標高が63m。
民家の地より13mほど高い。

@民家西の堀跡は通路になっている。 A岡最上部では堀切となっている。 B岡の上は平坦であり、北側に土塁がある。

上曽一族の城であり、手葉井坂の合戦では佐竹側の攻撃を受けた鯨岡城がここという。
この時、実際、猿壁城に退避したのかもしれない。

航空写真は昭和49年国土地理院が撮影したものを使用


龍門寺館(石岡市(旧八郷町)上曽)
上曽地区にあるJAやさと芦穂から県道7号線を真壁方面に300m進むと一言稲荷神社の手前に北に入る小道がある。
ここを北の山に向かって入って行った道の終点東側が館跡である。

↑ 南から見た館跡。正面の林の中に遺構が存在する。

ただし、この道、途中から細くなるので、広い場所に車を置いて歩いた方が良いであろう。
道の最奥に農作業小屋がある。この付近の標高は74m、上曽地区からは比高40mほどである。
その東側の林に入ると、山の懐部に明らかに寺院跡と言った平坦地があり、北側に堀がある。
堀の面して土塁がある。
堀は明確なのは幅10m、長さ50m程度。
この部分は箱掘状である。
さらに堀は東側の尾根上まで続いている。
遺構はこの程度であるが、堀は南に回り込んでいたらしい。
また、尾根東側にも堀が存在していたというが、耕地整理などで分からなくなっている。

龍門寺という寺のあった場所というが、尾根中段に平坦地を設けていることから、典型的な寺院立地のパターンである。
一見、城館とは思えない。

しかし、中世は寺院も城郭として使われていたので、ここを城として使用したとしても不思議はない。
おそらく、上曽館の緊急時の詰めの城という役目もあったのであろう。
ここが危険になったらさらに北の猿壁城に退避したのであろう。

@北側の箱堀、左が寺院跡 A寺院跡の平坦地

航空写真は昭和49年国土地理院が撮影したものを使用

大増城(石岡市(旧八郷町)大増)
旧八郷町北部、板敷峠を越えると桜川市の岩瀬地区となる県道64号沿いの大増地区にある。
大増地区に入っていく集落の南西側の山が城址である。
大増地区の標高は50m、城址のある山の標高は100m。
比高は50mである。

上の写真は北側の台地から撮影した城址のある山である。
中央部の木のない部分が畑跡、右手が主郭部である。

この山は西から東に張り出した尾根状の山であり、その付け根部が盛り上がった部分に本郭を置き、背後を三重の堀切で分断。
東の尾根側に段々状扇形に曲輪を展開させるタイプの城である。
ただし、主要部は先端部ではなく、奥まった西側の部分である。

城の形式としては常陸太田市の北大門城や山入城と良く似ている。
城に行くには北側の大増地区から登るのではなく、南側から登るのが良いらしいのであるが、この道もほとんど藪化している。
南から登る道は本郭に八幡社があり、その参道として整備されていたらしいが、その八幡社も崩壊した状態、過疎化によるものだろう。
北から登る道も畑を通るが、その畑が耕作放棄され、藪化して途切れているのである。

しかし、そんなことは知らない管理人、余湖くんのホームページに書かれているように、北側の城主、古尾谷氏の菩提寺、顕徳院に車を置いて登って行った。
そこを登ると鞍部のような平坦地Jに出るが、そこは畑であった場所である。ここの標高は83m。
先に述べたようにほとんどの畑は既に耕作放棄されており、葦と小竹が密集していて道が埋もれてしまっている。
ここも元は曲輪だったものと思われるが、なんとも言えない。

なお、ここから東側にも尾根が続くが、城の遺構はないと地元の人が言っていた。
確かにKのような竹林であったが、北側が帯曲輪状になっていたので物見程度のものはあったのではないかと思われる。
この東部分は鞍部より若干標高は高く85m。

鞍部より西側の城主体部に向かい何とかその藪を強行突破。
それより北斜面の杉林の中を抜けた方が、藪が少ないので楽であるのが帰路、気がついた。
ともかく、主郭部東側に段々状に展開する曲輪に出る。
しかし、この北下のルートももうすぐ完全に閉塞されてしまうだろう。

藪を突破して出た杉林となっている曲輪内は杉林になっておりそれほどの藪ではない。
曲輪間は3,43mの段差@になっており、数段が重なっている。
曲輪の幅は20〜40mと様々であるが、植林が行われており、また、かつて畑だったところもあり、どこまでが本来の形状を維持しているのか疑問である。
どうも一部の曲輪は崩されているようである。

最上部が本郭Aである。標高は97m。
ここは広く東西50m、南北45mほどあり、内部は植林されている。
南側に土塁上の道Bがそのまま本郭に入ってくる坂虎口がある。
西端が一段高く櫓台のようになっており、八幡社の石の社Cがある。
その周囲は石が積まれているがこれは八幡社に伴うものであろう。
この八幡社が建つ櫓台から西側は土塁が覆う。
この付近が最高地点であり、標高は101m。

@北下の曲輪と切岸、どこまで城郭遺構なのか? A本郭は平坦で植林されている。 B本郭に南側から入る虎口は土塁を利用した坂虎口
C本郭西端の櫓台には石垣があるが祠に伴うものだろう。 D本郭西下の堀切、北側は横堀となる。 E本郭西側の堀切と土橋、両側は竪堀となる。
F最西端の堀切、竪堀は南に下る道になっている。 G Dの堀切の南は豪快な竪堀となる。 H Dの堀切から北に延びる横堀
I Hの横堀は途中で竪堀となり北下に下る。 J東の鞍部、大増集落から登るとここに出る。 城址のある山の東側先端部には明確な遺構はない。

その西側がこの城の見ごたえのある部分である。
約8m下に1本目の堀切Dがある。
北側は本郭の北を覆うような横堀Hとなる。
この横堀は本郭北下の曲輪の出、途中で竪堀Iが下る。
一方、南側には豪快な竪堀Gが下り、末端で堀切Eから下る竪堀と合流する。
その東側には腰曲輪が4段重なる。
Dの堀切をさらに西に行くと、さらに1本の堀切Eがあり、竪堀が下る。
その西30mに最後の堀切Fがある。
南側から登る道はこの西端の堀切Fに出る。

城主は古尾谷壱岐守という。
小田氏一族らしく、室町時代にはこの地にいたらしい。
本郭に八幡社が祀られているが、これは後にこの地を領した佐竹氏によるものかもしれない。
戦国時代には小田氏に属し、佐竹氏と戦ったようである。
しかし、佐竹氏の軍事力に屈し家臣となり、佐竹氏に従って秋田に移ったという。

その古尾谷氏の居館は北下の大増の集落内にあったらしい。
集落の一角に五倫塔があったが、これは戦国時代のものと思われる。
この付近に居館があったのであろう。

手葉井山城(石岡市(旧八郷町)小幡長峰)
茨城県中央部、今は石岡市となっている旧八郷町であった八郷盆地の南部、小幡地区南部にある。
長峰城、膳棚城ともいう。

この地の中心、小幡地区で西の筑波山東山麓風返峠に通じる県道42号線と真壁方面湯袋峠に通じる県道150号線が分岐する小幡三叉路から県道42号線を西に800m行くと、果樹園地帯となる。
ここ八郷はリンゴもみかんも採れるのである。
そこに「鈴木果樹園」がある。
その横の道を南西方向に延びる道がある。
この道を進むと道は北東方向に延びる尾根を登っていく。
1qほど進むと道は2つに分岐する。その分岐した道の山側を400mほど行くと城址となる。

←は北側県道42号線から見た城址がある尾根である。
この尾根の先、登りとなる中腹部に城がある。


なお、分岐した山側の道の先には民家が1軒あるだけで、車はそれ以上いけない。
もっと北側か谷側に分岐した道の先にある広い場所に止めておくべきだろう。


この山道であるが、これが八郷と小田方面を直線的につないだ古道であったと思われる。
手葉井山城は城内をこの古道が通り、街道を取り込んだ城である。
山城であるが、普通は山城は山頂部や尾根末端にあるのがほとんどである。
しかし、この城は山の尾根中腹にある。
非常に変わっている。

この立地から街道を守る城であり、八郷側の勢力の城ではなく、八郷に攻め込んだ勢力がその退路を守るとともに兵站を確保するための城であったと思われる。
その勢力とは小田氏であろう。

そして、八郷側の佐竹方の太田三楽斎や真壁氏の軍と激突したのが、手這坂の戦いである。
その戦いが展開された場所が今1つ明確ではないが、地名からしてこの付近であることは可能性が高いと思われる。
この城が戦場であったのかもしれない。

その手這坂の合戦は、永禄12年(1569)10月に起きたという。
当時、佐竹義重は小田氏治との対立に備えるため、永禄9年(1566)に小田氏から奪った八郷の片野城、柿岡城に客将として迎えていた太田資正、梶原政景父子を入れ、常陸南部方面軍とし、小田城の小田氏治に圧力を加える。
永禄12年1月、小田方の海老島城を落とし、小田領内を荒らしまくる。
これに対し10月24日、小田氏治は佐竹義重が奥羽に出兵し、この方面が手薄な隙を狙い3000(輸送部隊を含む数だろう。兵士は1000くらいか?)の軍勢を率いて筑波山東麓の手這坂に布陣し、片野、柿岡の両城を攻める。
太田勢の兵力は600ほどであったが、真壁氏幹の加勢を得て、片野城を出撃、手這坂から出撃する小田勢を迎撃。
この時、真壁軍が鉄砲を使用したという。
この地方で鉄砲を用いたとの記録が残るのはこの合戦が初めてと言う。
この新兵器の威力効果がどの程度か分からないが、小田勢は崩れて敗走した。
その一方、別働隊を率いて密かに小田城に向かった梶原政景が「御館御帰陣」と偽って城門を開かせて攻略した。
このため、小田勢は小田城に帰れず、土浦城に逃れた。
以後、小田氏治が小田城に復帰することは叶わなかった。

この小田氏最後の当主、氏治さん、凄い人物である。
何しろ戦は連戦連敗。戦国最弱の武将かもしれない。
それにも係わらず、なんと、あの上杉謙信に単独でガチンコ勝負を挑んだのである。
山王堂の合戦がそれである。勿論、敵う訳ない。

どうも名門意識が強すぎ、「佐竹になんか負けるか!成り上がりの北条がなんだ!くそくらえ」というプライド1本がこの人の支えであったようである。
だから佐竹の敵である北条と強く結ぶということもしていない。

しかし、不思議なことに部下はこんな殿様を見捨もずに、裏切ることもしていないのである。
よく部下が付いてきたものである。
普通はこんな世渡りが下手な殿様、見捨てられるだろう。
余程、人徳があった魅力的な人物だったのだろうか。それとも金を持っていたのか?
不思議な人物であり、戦国の謎である。

氏治さん、この敗戦と小田城喪失後、佐竹氏に降伏。
藤沢城を与えられ整備するが、でも最後、小田原の役で北条氏にそそのかされて「小田殿!我方にお味方の折は常陸一国を・・」と言われたかどうか?
そして、最後の対佐竹戦に望む。
北条氏が秀吉に勝てると思ったのか?最後まで世の中の流れを見誤った武将であった。
結果は予想通り、全てを棒に振り、戦国大名としての小田家は滅亡してしまう。
変なこと考えなかったら名門武家だけあり江戸時代も小大名として残ったのではないかと思うが。


なお、この小田氏治さんとガチンコ勝負を演じたのが、太田道灌の孫、迷将、あの太田三楽斎。
小田氏治もプッツンしているが、太田三楽斎もプッツン振りは負けない。

戦国時代の流れに一切無関係のまさにドン・キ・ホーテ同士の戦いが、この関東の片田舎で繰り広げられたのである。
でも、ご両人ともどことなく憎めない不思議で魅力ある人物である。

@北東端の堀、ここから主郭部となる。 A @の堀の南側、土塁と堀、切通しがある。 B 古道は堀底道となって城内を通る。
C本郭西側の土橋と竪堀、これが4つ続く。 D 本郭内部は藪状態。東側以外は土塁が覆う。 E 西側2つ目の土橋と竪堀。これが一番見事。

その手葉井山城、遺構規模は臨時築城に近いと思われるが、山中に良く残されている。
しかし、かなりの藪であり全貌が掴めない。
城のある部分は標高100mから150mにかけて比高50mほどにわたる。
なお、小幡集落は標高35m程度である。

城としては長さは全長400m程度、幅は30〜40m程度であろうか。
尾根の形状に合わせ、「く」の字形をしており、北東から南西の延び、途中で東西方向に曲がる。
民家を過ぎると杉の林となるが、そこは緩斜面で比較的平坦な場所である。
兵士の駐留場所の可能性もある。

道を登って行くと、道の西側が尾根になり、その上が曲輪らしく段々になっているが今一つ不明瞭である。
その先に大きな土塁があり、横堀@がある。深さは4〜5m、幅は20mほどある。長さは50mほどであろうか。
道はその南側を迂回するが、山側Aは堀状になっており、中央部の切通しが古道である。
ここを上がると西側4m高く段々の曲輪が段々に展開するが、そこは凄い藪、幅が分からない。

この曲輪群と道は西にカーブしながら一部、堀底道Bとなって登って行くが、道の東側は谷であるが、数本の竪堀が下り、曲輪もある。
最上段の曲輪が本郭であろう。は東側以外、土塁Dが覆い、櫓台状になっている。曲輪の幅は15mほど。
その東下の曲輪の幅は広がり30mほどある。本郭は土橋Cとなり、竪堀が下る。横堀@からここまでは長さ150mほどだろうか。
本郭の櫓台は堀底からは7mほどの高さがある。
その西に長さ20mの曲輪があり、土橋付の竪堀E。さらに50m先に3段の曲輪があり、西端が櫓台となり、土橋付の竪堀があり、ここから道は下りとなり、さらに先に土橋付の竪堀があり、そこが城の西端である。
本郭の背後には都合4本の竪堀があり、厳重に防備していることが伺える。

余湖くんのホームページ参照)


上曽城(石岡市上曽)と御蔵館(石岡市小屋)
八郷町の中心部柿岡から西の真壁方面に県道7号線を進み、フルーツラインを横切り600mほど上曽方面に進むと上曽地区になる。
ここにJA八郷芦穂支所がある。
この付近が上曽(うわそ)城、西館ともいう。

↑は昭和50年の国土地理院撮影の航空写真である。
左の赤で塗った場所が上曽城、青く塗った場所が「八郷町の中世城郭」での推定地である。
右上が御蔵館である。


小田氏2代目の小田知重の4男朝俊が築城し、地名を取って上曽氏を名乗ったという。
この辺りは西から東に延びた岡であり、その東端付近が城らしいのであるが、緩い岡である。
遺構らしい場所としてはJAの東に土塁がある。これが城郭遺構なのかは分からない。


しかし、「八郷町n中世城郭」ではその少し北を城址としている。
でもその場所、低地なのである。南の岡から見れば丸見えである。
ここが城址とは思えない。南側の岡の方がふさわしい。
現在、そこは民家になっており、北側に堀跡のような水田となっている場所はあるのだが。

南の低地から見た城址のあったという微高地 JA八郷芦穂支所付近にあるこの遺構は土塁であろうか?
一方、ここから北東400mの場所に御蔵(ごくら)館がある。
直径200mほどの広さであり、そこは数軒の民家の敷地である。
北と東は低地であり、現在は水田であるが、当時は湿地であったのではないかと思われる。

← 2つの曲輪があり、堀があるのが確認できるが、かなり湮滅しているようである。
民家の敷地なので入ることは無理である。

こちらは東館ともいう。
名前のとおり「蔵」のあった場所と推定される。

規模から言って蔵ではなく、こちらが上曽氏の居館ではなかったかと思われる。

野田南館(石岡市野田)
 野田館の谷津を挟んで南側の台地の西端が館跡である。
この館は2012年10月に源五郎さんから掲示板に書き込みをいただき知ったが、なかなか行くことができなかったが、2013年1月、やっと行くことができた。

遺構は道路工事で発見され、訪れた時は一部、埋戻しされてしまった。
↑の写真@は西側から見た館跡である。
中央部を道路が通る。写真右にAの土塁があり、左の竹林の中にBの遺構がある。


昭和50年国土地理院の航空写真。上が野田館の堀が存在する部分。
下が野田南館。両館の間には谷津があるが、本来は1つの館であったかもしれない。
A先端南側部分、高さ2mの土塁がある。 B先端北側の遺構 C東側は台地続き。遺構は確認できない。

野田館自体がほとんど遺構らしいものがないが、谷津を挟んだ南側のこの台地の遺構もどうも訳が分からない。
台地の西端部には土塁を持つ曲輪Aがあり、櫓台や切岸Bが存在していたが、台地続きの背後、東側Cはただの畑が広がり、遺構はない。
ただし、少し窪んだような部分があり、堀が存在したのかもしれない。
堀が存在しないとしたら、東側から攻められたら一たまりもない。
城館としては成り立たない。やはり堀が存在していたと見るべきであろう。
しかし、本当に存在したのかの確証はない。
堀がないとしたら、戦闘用の城ではないと思う。
居館や関所という可能性もないとは限らないが・・結局よく分からない。