長田天神山館(常陸大宮市長田)36.6139、140.3609
JR水郡線玉川村駅から県道102号線を約3q北上すると長田郵便局がある。
その西の鉄塔が建つ標高150mの山が館跡である。
麓の標高が88mなので、比高は約60mである。

↑ 南東側、県道102号線脇から見た館跡。主郭に鉄塔が突き刺さる。

この地の少し北で西の桧沢方面に行く道と東の山方方面に行く道(県道29号線)が分岐し、さらに南の東野に行く道が分岐する。
その三叉路近くに立地する。

東の山麓に住む金子氏と圷氏が佐竹家臣の伝承を持ち、館主の可能性がある。
館へは南東山麓にあるゲートボール場の裏から道があり、そこを行けばよい。

@主郭には鉄塔が突き刺さる。 A山頂の南東下に帯曲輪が展開する。 B末端には横堀があるが・・埋没が著しい。
C帯曲輪群の末端は緩斜面が続く。 D主郭西側の尾根のピーク E最南端のピークは物見台だろう。

山頂部の鉄塔が建つ主郭@から南東の斜面に帯曲輪Aが数段展開する。
末端部には2本の横堀Bがあるが埋没が著しい。
この方面は山の傾斜Cは緩やかである。一方、主郭から西北に尾根が延び、物見台DEがある。
その周囲は急斜面であり、背後からの襲撃に対しては強いと思われる。
(「常陸大宮市史」中世・資料編2を参考)

長田南物見台(常陸大宮市長田)36.6049、140.3707

長田天神山から南に約1.5q、県道102号線の東の標高110mの山にある。

↑北側から見た物見台

北側にため池があり、少し南を県道151号線が横切る。

明確な遺構は幅2mほどの堀切1本のみである。↑


堀切の北西側の尾根平坦地が少し高く、ここが主郭ということになるが、特段、何もない。
周囲の斜面にも何もない。
堀切の東側もピーク上は平場になっている(狼煙台か?)だけで明確な遺構はなく、尾根が東西に続くが、尾根にも特段、何もない。
南側に麓から登る道が横堀のようにある。
北方向を監視する物見であり、南約1.8qにある照田羽黒山館の出城であろう。

舟生要害(常陸大宮市中舟生)
山方城の北西約2q、JR水郡線中舟生駅の西約1.2mの標高211mの山(26.6458、140.3787)にある。
この場所、行くのが難しい。

山の北、関沢から南に位置するこの山に比高約100mを登るか、山方城の北の堀切の切通しを通り、おっかない山道を進むしかない。
後者の道を選んだが結構な山奥に水田があったり、民家があるのは驚き。
片っ端から「ポツンと一軒家」である。
その道の最奥部から北に位置する山に登る。
このルートそれほどハードではない。むしろ、尾根上が広く、歩きやすいのに驚かされる。
これは山上を通る街道だったのではないかと思う。

さすが城がある山頂部は勾配がきつく道は曖昧である。
この山の小字、「龍居」という。「タキオリ」、「ツイ」と読むそうだが、語源は「リュウガイ」じゃないかという説がある。
もちろん、「リュウガイ」は「要害」の訛り、要害・・・それは城を意味する。
その発想でここを訪れたのが、いくつかの城を発見した「不審者M氏」である。
その嗅覚、さすがである。
彼の「たれこみ情報」に基づき、常陸大宮市の職員等と確認に登ったのだが、「ビンゴ」だった。

間違いなく城郭だった。2022年の初物である。
しかし、物見の砦程度の規模のものだった。
まだ知られずに残っている城、この程度のものしかない。
頂上部に細長い平場Aがあり、西側に埋もれた堀切@が、東側に小さな曲輪があるだけ。

@西側にある堀切。埋没が激しい。 A山頂部の平場、ここが主郭だろうが狭い!

南側を道が付き、堀切@から入るようになっている。
さらに西に続く広い尾根に道が延びている。
この山からは山方城(高館城)が見え、狼煙や鐘で知られることが出来る。
当然ながら山方城の北西方面を監視する物見である。
ここから北下と南下の谷を通る道を監視するとともに山上を通る道を管理するのが役目であろう。


檜沢古道(常陸大宮市下檜沢)

常陸大宮市下檜沢に檜沢城という巨大城郭がある。
ところでこの城のある緒川沿いの河内城、高部城などは緒川の対岸に向館がある。
この檜沢城にも向館はあるが、緒川の下流側にあり対岸にはない。
その対岸には城下集落である宿があるのだが、その背後、東側の山にも何かあっても不思議ではない・・・のだが・・。
向城は存在するのか?

そこで行ってみる。
百聞は一見にしかず。
そこでここじゃ?というピーク(219m、36.6472、140.3452)によじ登る。

麓の標高が130m、比高は約90mなのだが、比高が問題ではない。急傾斜で道なんかない。
そこを一直線に登る。で、そのピーク、結局何もない。ただの平場だった。
尾根続きにも堀切などない。
完全に空振りであった。

もうちょっと先か?そこで尾根を東に進んで行く。
そして400m東、標高250mの尾根が分岐する地点(36.6478、140.3476)に至る。
そこには横堀状の古道があった。
この古道、S字状に曲がり、会津檜原の「鹿垣」や山入古道とよく似る。

また、城の正面からここが見える点では山入古道と似る。
山上を通る道である。ちなみにこの山中、尾根上を東に進むと2.5q先に舟生要害がある。
久慈川方面とを結ぶ古道であったようである。
なお、この古道の尾根分岐部横のピーク上は径5mほど、人工的に削平されていた。
監視の場、あるいは関所等、何らかの施設があったものと思われる。

@山をS字状に下って行く横堀状古道。 A尾根分岐部を通過する古道、何故か土塁状になっている。 BAの北にあるピーク部上は削平されている。

野上小屋場 城館推定地 (常陸大宮市野上)36.6117、140.3867
旧山方町の南、JR水郡線「野上原駅」の北約600mに「小屋場」という地名がある。
この地名、城館に係ることが多く、小屋場地名から城館が確認された場合もある。

さて、ここの小屋場は?・・どうもそんな伝承はないようである。
いや、あったが忘れられてしまっている可能性もある。
そこで現地を調査してみた。
すると、館跡らしい場所が2カ所あった。


@ T区画にあるこの盛り上がりは土塁か?

一カ所は三角形をし、土塁が全周@、Aにあり、2辺が道路に面して切岸状になっている区画T。
もう一か所は上の区画の南西側にある50m四方の区画U。
ここは西側以外が切岸になっており、北側に土塁跡Bらしいものが見える。
(東側は竹が生えているがその中に土塁があるかもしれない。)

堀があったとしたら西側だろうが、宅地になっており分からない。
館としたら後者であろう。前者は三角形であり、館にしては形が不自然である。寺院跡か?

A区画Tの北西端には祠がある。鬼門避けか?
道路は堀跡か?
B区画Uは栗林である。
北辺に土塁の痕跡のようなものがある。

山方古館(常陸大宮市山方西野内)

古館とはこれまたストレートな地名である。
場所は旧山方町中心部の北東、山方城東下で国道118号線から国道294号線が岩井橋を渡り、久慈川東岸の金砂郷方面に通じる山間に入る手前の南側である。
ここの台地、居館を置くにはなかなか良い場所である。


北側と南側の登り口に土塁があったらしく、塁壁のような切岸となっている。
まず、東から西に延びた尾根末端部のテーブル上台地であり、若干傾斜はあるが、平坦。
さらに台地下を北から西、そして南と半円を描くように諸沢川が流れ、これが水堀の役目を果たしている。

水田地帯からは15m程度の比高があり、切岸も鋭くこの台地自体がなかなかの要害である。
台地上は100m×200mの広さである。
標高は50〜60m、民家と畑であり特段、遺構は確認できない。
この台地上には城主の居館もあったが、台地全体が城砦集落であり、総構えと言えるだろう。

↑西側の低地から見た城址。山の右手の高い部分が愛宕神社の建つ曲輪U、左側が主郭。
丘上の家の建つ場所が居館部。丘下には諸沢川が流れ水堀の役目を果たす。

一方、東側は山であり、標高131.5mの水田地帯からの比高90mのピークに愛宕神社があり、背後を守っている。
上の写真は西側から見た館跡である。
台地上の民家がある部分が居館跡、山城が背後を守る。

山へは特段の登り道があるのか分からない。
あったのかもしれないがほとんどなくなっている。
登り道を聞いた民家、何故かどこも留守なのだ。(いや、俺をセールスマンと勘違いして居留守か?)
かくなる上は突撃あるのみ。

テキトーに南から登って行くと、愛宕神社のある場所に出た。
この神社、岩の上に建っており、南から登ると最後の場面は岩をよじ登ることになる。
これは怖い。しかし、現実は北側からちゃんと道がついているのである。
まあ、こんなもんだ。

@物見台にあたる曲輪Uには愛宕神社が建つ。 A曲輪U背後の切岸は巨岩を利用したもの。高さ約4m。 BAの巨岩の北側には腰曲輪がある。

神社の地@がこの山の最高地点、標高131.5m、東西7m、南北15mほどに過ぎない。
周囲に木があって景色がよく見えないが、東以外の方向が木々の間から見える。
西には久慈川をはさんで山方城が一望である。ここは物見の場であろう。
この神社の地背後には大きな岩Aがある。
その下4mに小曲輪Bがあり、さらに4m下に堀切Cがある。

そこから北に鞍部が40mほど続き、北側の曲輪Tに至る。
この場所の標高は121.6m、神社の地より10m低い。
この曲輪が主郭であり、バナナ形をしており長さ約50m、幅15〜20mの広さがある。西側は段々になっている。
北から東下にかけて4m下に帯曲輪がある。東側の山との間の鞍部には土橋と竪堀がある。

CBの曲輪の北約4m下に堀切Aがある。 D主郭に当たる曲輪T、内部は平坦で広い。 E主郭南にある堀切Bは腰曲輪への通路を兼ねる。

南北120m、東西60mほどの小規模な城であるが、完存である。
山の最後部に物見を置き、その背後に主郭を置く形式である。

背後に主郭を置くのは危険に瀕した場合、東の山中に逃走するためであろう。
応永15年(1408)、上杉憲定の次子義憲が佐竹氏を継いだときに、後見として上杉一族で美濃山方出身の山方能登守盛利が同行しているが、はじめの居城がこの古館という。
この城の構造、麓の居館部を背後の山城が守る形式であり、山方城を小型にしただけでそっくりである。

F主郭T東下の帯曲輪 G東の山との間には堀切Cと土橋がある。 麓の台地上、居館があった。

本来は金砂山城への入り口を抑える城であったのではないだろうか。
戦国期においてもこの集落の立地は優れており、山方城とともに久慈川沿いを両側から抑える役目、すなわち向城でもあり、戦国末期まで現役だったのではないかと思う。
戦国時代末期、山城部は使っていたとは思えないが、山方城の城主家臣の居館は台地上にあったのだろう。

(以前の記事)
古館(常陸大宮市山方古館)

古館とはこれまたストレートな地名である。

場所は旧山方町中心部の北東、久慈川東岸、金砂郷方面に通じる国道294号線が山間に入る南側である。
ここは居館を置くにはなかなか良い場所である。

まず、東から西に延びた尾根末端部のテーブル上台地であり、若干傾斜はあるが、平坦。
水田地帯からは15−20m程度の比高があり、切岸も鋭い。

さらに台地下を北から西、そして南と半円を描くように諸沢川が流れ、これが水堀の役目を果たしている。
一方、東側は山であり、その標高130m、水田地帯からの比高90mのピークに愛宕神社があり、背後を守っている。

台地上は100m×200mの広さであるが、民家と畑であり特段、遺構は確認できない。

北側と南側の登り口に土塁があったらしく、塁壁のような切岸となっている。
上の写真は西側から見た館跡である。台地上の民家がある部分が居館跡、山に背後を守る曲輪がある。

台地上の居館跡 台地の鋭い切岸

応永15年(1408)、上杉憲定の次子義憲が佐竹氏を継いだときに、後見として上杉一族で美濃山方出身の山方能登守盛利が同行しているが、はじめの居城がこの古館という。
そういえば、この城の構造、山方城を小型にしただけでそっくりである。
本来は金砂山城の入り口を抑える城であったのではないだろうか。
また、戦国期においてもこの集落の立地はずば抜けて優れており、山方城とともに久慈川沿いを両側から抑える役目を持ち、戦国末期まで現役だったのではないかと思う。