山方城(常陸大宮市(旧山方町)山方御城)

 常陸大宮市山方を流れる久慈川に突き出した丘の上に城の櫓を模した町の象徴でもある目立つ展望台がある。
 この場所にあった城が山方城である。
 
展望台のある場所はこの城の本郭に当たるが、当然、この建物とこの城の関係はない。
 ただし、この建物は遠くからも目立ち、この城祉に行く場合の絶好の目印となる。

 城は久慈川に突き出た比高約30m程度の丘の上にあり、東西に延びる細長い丘を3本の堀で掘りきって築城した典型的な連郭式平山城。
 この地は渓谷を久慈川が蛇行して流れ、上流に向かうにも下流に向かうにもこの城を通過しなければならない交通の要所。
 これは現在でも同様であり、水郡線と国道118号が本郭の真下のトンネルを通る。

 久慈川が眼下を流れ天然の水堀となっている。
鳥瞰図は「山方町史」記載の縄張図,、「図説 茨城の城」掲載図及び現地調査をもとに描いたものである。

↑は昭和50年国土地理院の航空写真

中世戦国j代は城の堀底道を南郷街道が貫いており、街道を取り込んだ関所城の性格を持っている。
この点では茂木街道を取り込んだ石塚城や東海道を取り込んだ山中城と似た性格を持つ。


↑は東の久慈川にかかる岩井橋から見た御城曲輪に建つ模擬天守?である。

 ↑ 御城曲輪から見た南側、久慈川が流れ、下を国道118号御城トンネルが貫通する。右手の町が城下町である山方宿である。

遺構としては畑と宅地及び展望台Cの建つ3つの郭と郭間の堀及び南側の帯曲輪と土塁Bが確認できる。
南側には人家がある曲輪Aがあり、根小屋と呼ばれ城主の平常時の生活の場であったと言われる。

その南は北皆沢川の流れる谷津である。
川に掛かる橋は嘆願橋@と言われ、住民はこの橋より先に行けず、城主にこの場で嘆願をしたと伝えられる。
城下町は今の山方町市街地であったと推定され、宿場町も兼ねていたと考えられる。

 郭はいずれも台形状であり、比較的大きく、御城曲輪(本郭)は東西100m南北100m。
中城(二郭)は東西70〜80m南北100m。外城(三郭)は東西250m南北400〜500mであり、郭内はほぼ平坦であり、郭間の標高差はない。

御城曲輪と中城間の堀Eは13mの幅があり、中城と外城間の堀Fは7mと狭い。
この中城と外城間の堀底が「南郷街道」と言うが本当にここだろうか?
外城内の道路の方がその跡のように思える。
外城西側の堀Gは谷津を掘り込んで構築したものと思われ30m近い幅を有する。この堀は北に延びていたようであり堀状の窪みと土橋跡Hのようなものがある。

これら3つの郭からなる主郭部は東西400m南北100〜500mの大きさとなる。
さらに、この城の西側の山上には階段状に構築された8つの郭からなる高館城がある。

城の築城時期は明らかではないが、文献に登場するのは、応永14年(1407)佐竹義人が幼年時、山方能登守盛利を後見としてこの城に居城した記録であり、築城はそれ以前と思われる。
その後、城主は佐竹義治の5男政義に代わり、その子孫は東殿と呼ばれ、東を姓として佐竹重臣として活躍した。
佐竹義宣の時代には東氏は6万石の領地を有し、佐竹氏最大の家臣となった。城も街道と久慈川の水運を抑える城であるとともに、外城の広大さを見れば軍勢の集合地、宿城であることが分かる。
佐竹氏の最重要の1つであったのだろう。
後に佐竹氏の水戸進出に伴い、東氏も武熊城に移り城は廃城になった。

西にある高館城については山方城の詰城という説と山入義顕が文明元年(1469)築城したという説がある。
しかし、後者の説では同時期に、目と鼻の先の山方城に東氏がおり、両者並立は考えられない。
したがって、前者の説が妥当と思われる。  
      

@北皆沢橋にかかる嘆願橋から見た根小屋と主郭部 A根小屋地区に建つ民家 B中城南の帯曲輪と土塁
( 説明板には空堀と書かれている。)
C御城曲輪に建つ展望台 D御城曲輪から見た西側、家があるところが外城、広大である。
山は高館城址。
E御城曲輪(右)と中城間の堀跡
F中城(左)と外城間の堀底は南郷街道 G外城南の堀跡 H外城北側の堀と土橋跡

(山方高館城)

山方城本郭の展望台から西に見える山方城主郭部から比高50mの山が高館城であり、詰めの城に当る。
本来はこの高館城の方が先に築かれたのではないかと思われ、山方城は根小屋に当る場所ではなかったかと思う。

この城には密蔵院側と北の切通しの道から登ることできる。
密蔵院の南西側にある神社の裏から登ってみたが、この方面は岩が剥き出ていて登りにくく、結構急である。
しばらく登ると尾根上の平坦地に出る。
尾根上は広葉樹の林が主体であり、一部、竹があるが比較的やぶもなく快適に見学できる。
遺構は完存状態である。

南北に長い尾根に郭、堀切を置いた典型的な直線連郭式城郭である。
曲輪の幅は精々最大40mほどであるが、南北に8郭が認められる。
東西の斜面は急勾配であるため、この方面は防御にそれほど注意する必要はない。
曲輪間には数mの段差が付けられおり、主要な曲輪の前面は土塁が覆い、堀切が置かれ、非常にメリハリがあり、尾根式直線連郭式の山城の見本のようである。

密蔵院西側の神社裏から登るとまず曲輪1に出る。30m×15mの大きさであり、北側に堀切と高さ4mほどの切岸を経て、曲輪2となる。
ここは40m×15mの大きさがあり、曲輪T側には「コ」字型に土塁がある。曲輪2の北側には高さ8mほどの切岸があり、曲輪3となる。
南から見た高館城 1の曲輪北側の曲輪2の切岸 2の曲輪の南側を覆う土塁 3の曲輪内部
4の曲輪北の堀 5の曲輪の土塁 6の曲輪から見た5の曲輪 7の曲輪内部

ここには東側からまわる虎口が開いている。
50m×30mの大きさがある。
この北側が最高箇所となる曲輪4である。大きさとしては30m四方であるが、3段構造になっている。
南側の段は二重堀切のように見える。ここには井戸跡と思えるような穴がある。
北側には櫓台のような大きな土塁がある。
この土塁が正真正銘の最高箇所にあたる。

その北側は6mほどの切岸となり、堀切を介して曲輪5である。直径40mほどであり、穴が3箇所ほどある。これも井戸の可能性がある。
北側はU字型に張り出し土塁がある。5mほど下が曲輪6となる。
曲輪6は40m×40mほどの大きさである。
さらに6m下に堀切を介し、突き出し15mほどの曲輪7、さらに7mほど下に曲輪8が段々状に築かれる。
その北端は、道路の切通しとなるが堀切を利用したものであろう。

古館(常陸大宮市山方古館)
古館とはこれまたストレートな地名である。

場所は旧山方町中心部の北東、久慈川東岸、金砂郷方面に通じる国道294号線が山間に入る南側である。
ここは居館を置くにはなかなか良い場所である。

まず、東から西に延びた尾根末端部のテーブル上台地であり、若干傾斜はあるが、平坦。
水田地帯からは15−20m程度の比高があり、切岸も鋭い。

さらに台地下を北から西、そして南と半円を描くように諸沢川が流れ、これが水堀の役目を果たしている。
一方、東側は山であり、その標高130m、水田地帯からの比高90mのピークに愛宕神社があり、背後を守っている。

台地上は100m×200mの広さであるが、民家と畑であり特段、遺構は確認できない。

北側と南側の登り口に土塁があったらしく、塁壁のような切岸となっている。
上の写真は西側から見た館跡である。台地上の民家がある部分が居館跡、山に背後を守る曲輪がある。

台地上の居館跡 台地の鋭い切岸

応永15年(1408)、上杉憲定の次子義憲が佐竹氏を継いだときに、後見として上杉一族で美濃山方出身の山方能登守盛利が同行しているが、はじめの居城がこの古館という。
そういえば、この城の構造、山方城を小型にしただけでそっくりである。
本来は金砂山城の入り口を抑える城であったのではないだろうか。
また、戦国期においてもこの集落の立地はずば抜けて優れており、山方城とともに久慈川沿いを両側から抑える役目を持ち、戦国末期まで現役だったのではないかと思う。

 

竜ヶ谷城

竜ヶ谷城の場所は、文章では表現できないくらい入り組んだ場所にある。
実際、まともな車道はなく農道程度の道しかない。
地図の上では「久慈川カントリー倶楽部」のある台地の東南端であり、東を流れる琵琶沢川と南を流れる湯の沢川の合流点北西に当る。

比高は約60mであり、城は北西から南東に延びた尾根末端にあり、東は絶壁もある急坂である。
西はやや傾斜が緩い。北西から尾根伝いに城に向かうルートが最も妥当である。
山方中学南西500mの芝地区西の琵琶川の低地から、西の山に向かい、谷津を巻くように登って行く。鞍部に出て尾根伝いに南東に進むと堀切がある。
この堀切は横堀状に南に延びる。この堀切を越えたところが曲輪3である。
東側が土塁状になっているが土塁がどうかはっきりしない。

曲輪3内も平坦ではなく、西にだらだら傾斜している。ここを過ぎると堀切がある。
この堀切は西側に向かい蛇行しながら延び、さらに南に向きを変える横堀になる。
セオリーどおり傾斜の緩い斜面に築かれる。

幅は5m程度と小さく、田渡城の横堀と同規模であり、鉄砲射撃の遮蔽用、兵員の移動用通路のような感じである。
堀切の南側が本郭であるが、藪がすさまじい。直径50、60m程度の大きさである。
3の曲輪北の堀 本郭北側の堀切 本郭西側の堀切 本郭南側の連続竪掘のような遺構

西から東に南側に幅6mほどの堀が回るがかなり埋没している。
ところどころに土橋があるが、障子堀のようにも見える。この南側が曲輪2であり、この曲輪も西に向かってだらだら傾斜しておりメリハリが全くない。
ただし、南側の帯曲輪はしっかり造成されており、切岸も急勾配である。

曲輪2の南東が先に延び、先端部が盛り上がり見張台のような場所がある。この見張台に向かう尾根に連続竪堀のような遺構がある。
尾根を抉ったようになっている。ただし、横堀状のような部分もあり、井戸のようにも見える。
大手はどうも南にあったような感じで、南側の腰曲輪間に虎口が開いて道が南に下っている。ここを行ってみたが途中で道が途切れ、強引に藪を進んだら沼地のようなところに足がはまり込んでしまった。

この城は横堀がきれいに構築されていたり、腰曲輪もしっかりしていると思えば、自然地形としか思えない、未整備の部分もあり、つかみ所がない。
このため、未完成の城のような気がする。
上杉氏から佐竹氏に養子に入った佐竹義憲の後見として同行した山方(山縣)能登守盛利が隠居城として築いたという。
彼は関東管領上杉憲政の孫であり、美濃山方を領して山方を名乗っていたが、応永15年(1408)佐竹義憲として佐竹氏に入ったとき、上杉憲定の指示で川井淡路守と同行し、山方城に入り、文明年間(1469−1487)に御城を佐竹(東)氏に明渡し、竜ヶ谷城に移ったという。
(それ以前に山方(山縣)能登守盛利の隠居城として存在していたらしい。)佐竹氏の家臣団にも山方氏の名が見られ、子孫も譜代の臣として仕え、秋田に同行して、城も廃城となったという。

山方氏の知行地はこの付近であり、この近くに館があったものと思われるが、この城が居城であったとは思われない。
居城であったら曲輪内はもう少し整備されているはずである。
それに何しろ街道筋から外れた不便な場所であり、緊急時に避難する詰めの城であったと思われる。
このため余り管理はしていなかったのかもしれない。
この城には戦国末期の遺構があるが、戦国末期に慌てて整備したような感じである。
この時期は天正末期であろうか。または関が原前夜であろうか。