宇留野城(常陸大宮市宇留野)

1 城の位置、歴史
宇留野城は大宮町中心より南東1.5kmの久慈川を見下ろす台地端部に築かれた中世の連郭式平山城である。
北側1500mには部垂城があり、南側500mには前小屋城が存在する。

部垂城の遺構はほとんど失われているが、少なくとも宇留野城程度あるいはそれ以上の規模は有するものと推定される。
現存する宇留野城、前小屋城とも中世城郭としては比較的規模は大きく、この台地縁部には3つの大きな城郭が同時期に並んで存在していたことになる。

 宇留野城の築城時期は定かではないが、1説には平安時代中期 天慶年間(938〜956)宇留五郎時景が平定盛から所領を与えられ築城したという説がある。
また、「水府資料」には「元亨3年(1323)9月23日の関東下知状」に大宮の地に宇留野大輔が居城しているとの記述がある。
その直後に南北朝の騒乱になり、当地も南数kmの瓜連城等で激戦が展開される。

この戦いに宇留野氏も当然巻き込まれていると思われるが、どのように行動したかについて記録はない。
したがって、この戦いで宇留野城が戦いの舞台になったかどうかは分からない。

「後佐竹氏譜」によれば「佐竹14代義俊の第5子に義公(宇留野刑部)がおり、その子に2子があり、長は義長(宇留野源兵衛)、弟は義久。
弟の義久は、佐竹義篤の弟義元を養子とした。
義長の子には長昌、その子は源太郎とも源兵衛ともいい、代々宇留野氏を守った。」という記述がある。
この義元は部垂城に入り、宇留野義元を名乗り部垂の乱の主役であるが、一方では宇留野城主宇留野義長は常陸太田城の佐竹本家側に立ち部垂城の攻撃に参加している。

この時点で宇留野氏は2つに分かれて、対立関係にあったのかもしれない。
その後の佐竹氏の勢力拡大に伴い、宇留野城の宇留野氏は佐竹氏の重臣としての地位を得ている。
佐竹義重御家門衆の御親類の中に宇留野玄蕃尉の名が見える。

天正19年(1591)太田城へ参列した佐竹家臣の中にも宇留野源太郎(前述の者とは別人、4代あと)の名が見える。
城は慶長7年の佐竹氏秋田移封のとき廃城となった。なお、宇留野氏は代々源太郎、源兵衛を世襲しているため混乱が多い。
宇留野城が機能していたのは西暦1000年ころから1600年ころまでの600年という長期間であり、その間に城域は少しずつ拡長され、現在残された姿になったと思われる。

2 .城の構造と遺構
宇留野城の主郭部分は久慈川側の低地に突き出した比高約25mの半島状の台地端部であり、ここに3つの郭が連郭式に築かれている。
茨城県北部の佐竹系城郭には連郭式が多いがその中でも本城は典型的なものである。
3つの郭の総延長は約300mである。この部分は杉林や雑木林で覆われ保存状態は良い。
中世城郭がそのままの状態で保存されている。

先端部には御城と呼ばれる本郭があるが、25m四方程度の広さで、あくまで最後の防御陣地といった感じであるが、ここには日向神社@があり、(おそらく城が機能していた時期からこの場所にあったと思われる。)宇留野氏の氏神として精神的中心の場でもあったと思われる。
この神社は今でも地元の鎮守として崇拝を集めている。
佐竹氏の秋田移封に同行した宇留野氏はここにいつかの復帰を祈願して軍扇2本を奉納したと伝えられる。

本郭(御城)の北側中城側には高さ1m程度の土塁が巡り、幅5m程度の空堀Bが存在する。
残る3方には土塁らしいものは見当たらないが、急斜面であり登攀は難しい。

斜面途中には切岸を急勾配にするため、斜面を削ることにより形成された帯曲輪Aが巡らされており、幅は数m程度の狭いものであるが、土塁を有している部分もある。
帯曲輪は前小屋城や瓜連城等付近の城郭にも認められる。
南北朝時代の城郭である瓜連城で帯曲輪が見られることから、この構造物は当地方では南北朝時代まで遡るのかもしれない。

曲輪U(中城)は御城の5倍程度の広さがあるが、南北がやや高く真中が低い。
土塁は曲輪V(外城)側に高さ2m程度の立派なものが残されているが、他の部分には存在しない。
戦国時代初期はここに城主の居住の場があったものと思われる。
戦国時代末期になると家臣団の統率、領地の経営等の事務業務も多くなるが、中城は要害の中であり、非常に不便である。
このため、平常時の城主の居住場所は侵食谷を隔てた平坦な西側の曲輪W、X、Y、Zに移ったと思われる。
それでも非常時に備え、食料、武器等はより安全な曲輪U(中城)に備蓄されていたものと思われる。

曲輪U(中城)と曲輪V(外城)の間には明瞭な薬研堀Dが残るが,現在残っているものは軽く乗り越えられる程度に埋まっているが形は良く残っている。
外城の周囲にも土塁はあるが、曲輪U側は現在残っているのは高さ50cm程度しかない。
しかし、北側の堀Eは巨大である。
現在は埋もれているがかつてはかなり深いものであったのだろう。

以上3つの郭が宇留野城の主体部分であるが、侵食谷をはさんだ西側に4つの曲輪があった。
西側の郭は南北に約500m、東西に約100mと広大である。
現在は宅地化で土塁等の遺構G、Hも極わずかしか認められない。

この部分は防御が土塁と堀のみであり、西側は平坦地であるため、平時の居住部分と考えられる。
おそらくは宇留野氏の勢力拡大に伴い、徐々に南側へ拡張されていったと思われる。

宇留野城にはもう一つの大きな遺構が存在する。
それは外城より西に直線状に延びた大堀Fである。
幅は20m、長さは300mに達する。
堀の深さは土砂の堆積により浅くはなっているが、当時は10m程度はあったと思われる。

この堀は侵食谷を形成した沢が台地平坦部を流れていた小谷部の部分を利用し、さらに人工的に深く掘り下げて造ったものと考えられる。

 なぜ、城の北側にこのようなものが存在するのかについては疑問であるが、北側に何らかの脅威を感じて造ったものと推察される。
おそらくそれは部垂城の小貫家に対しての脅威ではなかったかと思う。

 大堀が西300mで切れているのも不思議である。
北側の脅威を大堀で防御できても西側はがら空きである。
西側に回られて攻撃を受けた場合は大堀の存在は半減してしまうであろう。

本来、大堀は西端から直角に南に曲がり南側にも延びる予定であったかもしれないが、西300mで中途半端に切れているのは工事中に突然北の脅威がなくなったためではないだろうか。

すなわち、宇留野義元による部垂城乗っ取りか、あるいは部垂城の宇留野氏との対立により築かれたのかもしれない。
後者の場合なら工事中断のきっかけは天文9年(1540)部垂の乱による佐竹分家の滅亡であろう。
@本郭(御城)に建つ日向神社 A本郭の南にある腰曲輪 B本郭と曲輪U間のL字に湾曲した堀。
C曲輪U(中城)内部 D曲輪U(中城)、曲輪V(外城)間の薬研堀 E曲輪V北側の堀
F謎の遺構、大堀 G曲輪Xの西に残る土塁。道路が堀跡だろう。 H 曲輪Yの南に残る土塁と堀

(現在の舗装道路は当時の土塁西側に沿っている。土塁構築の土は大堀を掘ったものを転用か?)

鳥瞰図作成においては堀の堆積による埋設や土塁の侵食の進行を考慮した。
郭間の連絡は本郭(御城)と曲輪U(中城)間は土橋であると推定したが、曲輪U(中城)と曲輪V(外城)間は一度帯曲輪に下りて上がる方式ではなかったかと思う。
木橋の存在した形跡は土塁形状からは感じられない。
中曲輪U(中城)と曲輪V(外城)間の薬研堀の底は東側の帯曲輪との通路を兼ねていたと思われる。
曲輪V(外城)と西郭間の連絡は木橋であった可能性もあるが、木橋であった場合、かなり大きなものとなる。
このため、一度、堀底に下りて上がる方式の可能性が大きい。         

下岩瀬館(常陸大宮市下岩瀬中屋敷)
常陸大宮市の南東端、久慈川に玉川が合流する地点の低地の微高地上にある。
久慈川の対岸は常陸太田市の金砂郷地区、南の玉川の対岸は那珂市瓜連地区である。
少し北の上岩瀬館同様、平安時代末期の豪族であり、金砂山合戦に登場する岩瀬太郎の居館とも言われ、碑も建てられているがかなり怪しい。
近世の庄屋屋敷にも使われていたとは思われるが、中世までしか遡れないであろう。
平安時代までは遡るのは無理だろう。

民家の北側の水田地帯側と、西側に埋まりかけた幅2mほどの堀と崩れかけた土塁が80mほど存在している。
西側の堀は微高地を斜めにジグザクに分断しており、折れがあるようにも見える。その西側が独立した曲輪かもしれない。
微高地とは言え、洪水でかなり被害を受けたのではないかと思われる。
よくここまで残っていたものである。
なお、この館の東側、久慈川方面に行くと春日神社がある。
ここが高さ2mほどの微高地であり、館ぽい感じがする。神社には「岩瀬城主祈念所」とも書かれている。本当か?

北側の土塁 西側の土塁と堀はジグザグ曲がっている。 春日神社付近の方が館っぽいのだが?

なお、この神社の南東側に鏡ヶ池という小さな池があり「朝日姫と鏡ヶ池」という伝説がある。
内容は以下のとおりである。
『 むかし、大里(いまの金砂郷町)に、たくさんの金銀や土地を持つ長者が住んでいました。
人びとはこの長者を万石長者と呼んでいたのです。 そのころ奥州征伐に行く八幡太郎義家が、長者の屋敷に泊まりました。
長者は大いに喜び、手厚くもてなし、ごちそうをいっぱい出しました。
義家は長者のあまりの富豪ぶりを目のあたりに見て驚きました。

三日三晩にわたってもてなしを受けたのち、お礼を言って旅立ちましたが、途中から引き返してきました。
「このままにしておいては、あとあとためにならない。」 と考え、急に長者の屋敷を襲って、滅ぼしてしまったのです。
この長者にはひとりの美しい娘がいて、名を朝日姫といいました。
万石長者が滅んだ時、乳母によって助けられ、いまの常陸大宮市下岩瀬にある春日神社近くに隠れ住んでいました。
朝日姫は十八歳の春を迎えたとき、父や母の霊をなぐさめるため、万石長者の家を再興しようと強く決意しました。
そして、それが成就するように百か日の間祈願したのです。
その満願の日です。
身を清めて白装束となった姫は、境内の池のほとりの松に、日ごろ大切にしていた八稜の鏡をかけ、お化粧をはじめました。
池の水は清く、すがすがしい朝でした。
ところが、ちょっとしたはずみで、池の中へ鏡を落としてしまったのです。
あわててその鏡を拾おうとした姫は、足をすべらせて深みにはまり、おぼれてしまいました。
その後、女の亡霊が出て、長い間付近の人たちを悩ませました。
村人は朝日姫の怨霊だといって恐れ、池に近寄る者もありません。

「常福寺の坊さまに拝んでもらおうじゃねえか。」 村人たちは、いまの瓜連町にある常福寺(現在の瓜連城跡に建つ)の了誉上人という偉い坊さんにお祈りしてもらいました。
その後、姫の亡霊は出なくなりました。 そしてある日、一匹のカメが池の中から出てきたのです。
不思議なことに、その背中には姫の落とした鏡がのっていました。 村人たちはその鏡を常福寺に納め、供養してもらいました。
下岩瀬の人たちは、池や川でカメを捕らえると、必ずこの池に放し、姫の霊をなぐさめるようになりました。
そして、この池を鏡ヶ池と呼ぶようになったということです。』(常陸大宮市観光協会HP)
この伝説と館が果たして関係あるのかどうか? この朝日姫が春日神社近くに隠れ住んでいた館こそが、下岩瀬館か?
若い娘が池でなくなった事実があったのであろう。

Pの遺跡侵攻記を参考にした。