利員城(常陸太田市(旧金砂郷町)中利員町)

県道下宮河内・下利員線沿いの太田北中学校の地より浅川を挟んで対岸の標高133mの山上及びその尾根に展開する。
 山上に多くの曲輪を巡らした要害部と西側の裾の居館部からなる典型的な根小屋式城郭である。

山上の要害部分は東西300m、南北200m位の城域があり、山上の60m×40m程度の広さの本郭を中心に尾根に沿って多くの曲輪が築かれるが各曲輪はいずれも規模は小さい。

 しかし、墓地付近までは大した藪ではないが、山頂の主郭部はものすごい藪であり、尾根筋にあるという小曲輪群は全く確認できない状態であった。

 居館は西の平坦な台地上にあったと思われ、この平坦地は1辺200m程度の三角形をしている。

さらに20m位の台地下は古宿、堀の内、根小屋という地名であり、山城が築かれる前の段階の居館や小規模な城下町があったのではないかと推察されている。

城主は、通常は山麓の居館に住み、非常時に家臣の家族や住民とともに山上の要害に避難することになっていたのであろう。

 良く分からないのが東側に展開する150m四方もある平坦地である。
ここが篭城時の臨時の館跡であった可能性もある。

または、住民の避難時のキャンプスペースかもしれない。
北端には土塁のようなものもある。この方面から本郭までには堀切が2本のみでいかにも防御が弱い。

天満神社の地も出城と推定される。背後の尾根筋に天満出城があるが堀や土塁は貧弱であり、それほどの防御設備ではない。
溜池は天然の水堀の跡であろう。

 全体的に見てこの城は漠然としてまとまりがない感じであり、どこまでが城域であるか捉えにくい。
           
 城の来歴についても今一つ明確ではないが、美濃出身の河合備前守の居館とか、山入氏系の川井氏の居館であった等の説がある。
いずれにせよ河合(川井)氏の城であったようではある。

最後の城主河合左太夫は文禄4年(1595)この地で200石をあてがわれている。
おそらくこの河合氏は河合館の河合氏と同族かではないかと思われる。

 鳥瞰図は「金砂郷村史」掲載の実測図と現地確認より描いたものである。
西側の低地より見る。
盛り上がった山が主郭
麓にある溜池。水堀と思われる。 西側の尾根にある天満神社。
3段の郭が見られ城郭のような感じ。
登城口の土橋。右側は崖がある。
台地部に展開する郭。
後世の畑跡の可能性がある。
台地部最奥の郭の塁壁。
高さ4m程度。
本郭東側の堀切。 本郭西下の曲輪内。藪がきつい。
最東端の堀切。 左の堀切を過ぎると広い平坦地が
広がる。ここも城域か?
平坦地の北側には土塁のようなものがある。
城郭遺構ではないかもしれない。

天満出城(常陸太田市中利員町)

ここも2012年12月9日、50stormさんの案内で行った城である。

利員(としかず)城の項で「天満神社の地も出城と推定されるが背後の尾根筋には堀や土塁といった防御設備がない。」と書いた。

確かに神社背後の地には段々に畑跡のような小竹が密集した平坦地があるだけで、城郭遺構は確認できなかった。(埋められてしまった可能性もないとは言えない。)

しかし、その尾根筋のさらに先、神社から400mほど北に行った登り勾配となり、山になりつつある部分に城郭遺構遺構が存在してた。

この場所、南の館跡からは比高で70mほどである。
明確な遺構は深さ3m、幅5mほどの堀切であるが、岩盤をくり貫いている。
岩で土留めの補強をしているのかもしれない。

その堀切の南側に土塁があり、40m、20m、10mごとに段差を設けている。
曲輪内は平坦ではなく、自然な山のままと言った感じである。
最後の段には虎口が残る。

この程度の規模のものであったが、粗末なものとは言え、間違いない城郭遺構であった。
@北側の堀切、石垣で補強されている。 A 南側にある虎口なのだが・・分からん。

根小屋(常陸太田市(旧金砂郷村)中利員)
久慈川の支流、浅川沿いの県道62号線を金砂神社方面に進むと、中利員地区となり、ここで県道62号線は東の水府方面から西の大宮方面に向かう市道と交差する。
この中利員交差点から東側の岡を見ると、段々状Eになっているのが確認できる。

この岡の上はほぼ平である。
岡の上が利員城の根小屋があった場所であり、「根小屋」「堀の内」といった城郭地名がそのまま字名として残る。
この岡は天満神社から南に延びた岡の末端部にあたり、岡上はほぼ平坦。
東西100m、南北200mほどの範囲である。

天満神社の背後に続く岡の北側以外は急勾配であり、この岡は水田、谷津の中に突き出た感じとなっている。
低地からの比高は10〜15mほどである。

東側は水府方面から延びる市道が谷津を横切り、その部分が堤防状となっており、谷津の北側は灌漑用の貯水池になっている。

池から流れ出た沢はこの岡の下、東側から南側を回って浅川に合流するが、水堀の役目を果たしていたものと推定される。

また、現在、市道が岡の真ん中と南北に分断しているが、その道は堀跡を利用し拡帳したものとのことである。
岡の上は宅地と畑であり、市道付近からは明確な遺構は確認できない。

しかし、市道の南側に堀切@や腰曲輪A、段々状の部分C、切岸と推定される急勾配の段差が明確に残り、岡の南端部には横堀Bまで存在していた。
この横堀の南下は崖状の急勾配Dである。
これらの遺構は城館の存在を示すものであり、この岡が利員城の根小屋、一種の城砦集落であったことが理解できる。

通常、この付近の地形からして天満神社裏付近に城が存在するように思うが、天満神社の裏から延びる尾根筋に堀切等の遺構は存在するもののそれほどの規模のものではなかった。
肝心の利員城は東の谷津を隔てた北東の山にあるのである。

しかも、山地に続く城の北東側は防御が甘く、山入城方面と尾根上の道を使って連絡、あるいは逃走できるような造りなのである。

なお、南東側の谷津対岸の山の途中に寂光寺がある。
ここが出城であってもおかしくはない場所なのであるが、寺背後はただの山であり、防御設備らしいものは確認できなく、出城ではないようである。
@西側市道南側に残る堀 A@の堀を通ると南西側の帯曲輪に出る。 B岡南端の横堀
C岡東側は段々になっているが城郭遺構だろう。 D岡南下から見た岡、斜面は崖になっている。 E岡西側は切岸がきれいに残る。