上岩瀬館と下岩瀬館(常陸大宮市)

茨城県常陸大宮市の南東端、久慈川に玉川が合流点の北西側の平地にこの両館が並ぶ。

比較的山や台地が多い茨城北部、城館のほとんどは山の上やその麓、あるいは岡の縁部に築かれる。
このうち山に築かれた城は籠城用、避難施設、付け城、物見用、狼煙台用等の一時的、緊急時対応目的のためのものであり、生活するうえで不便なので居住用のものはほとんどない。
山裾や岡の縁部に築かれる城館がだいたい居住用である。
平地に築かれる城館は那珂台地の小規模な城館群を除けば少ない。
だいたい平地の城館は四方を警戒しなくてはならないため、各方面に堀、土塁を造らなくてはならずコストアップにならざるをえない。
さらに、四方を警戒するため、多くの要員を必要とする。

周囲が湿地帯ならそのデメリットは軽減されるが、そのような地は必然的に河川が近く、洪水のリスクがある。
平地しかない地域ならこれも仕方ないが、山や岡が近くにあれば岡などに築くのが合理的だろう。
そのようなデメリット、リスクがあるにも関わらず、平地に城館が築かれるのにはそれ以上のメリットがあるからである。

そのメリットとすれば、河川水運がもたらす経済的利益、穀倉地帯を管理することによる経済目的、交通の要衝を抑えることにより陸運がもたらす経済的利益であろう。
河合城、枝川城、池田古館、頃藤古館、高渡館等はそれらに該当するだろう。

那珂台地の小城館群も溜池の水利権を管理することによる経済目的が狙いである。
この上岩瀬館と下岩瀬館も県北部には少ない平地城館である。
この2つの館は何を目的とした館であろうか?
館がある場所は北西の山地から流れ出る玉川と北から流れてくる久慈川が運んできた土砂が堆積した肥沃な水田地帯であり、館は水田地帯より若干比高がある自然堤防上の集落内にある。
この地は江戸時代から付近でもっとも豊かな穀倉地帯であり、豪農の屋敷がたくさんあったという。
今も大きな敷地を持つ農家が多い。

このため、穀倉地帯を管理することによる経済目的があったことは確かであろう。
さらに、今は久慈川が東を流れているが、地形を確認するとともに、昔の航空写真も調べた。
その結果、どうやら久慈川の本流または分流がすぐ横を流れていた跡が水田として残っていることが分かった。
このため、久慈川の水運に係る河川港、渡しや川に沿った街道の宿場を包括していたのもと想像できる。
性格としては河合城と非常に良く似る。

主郭には誕生寺が建つ。 寺に隣接して幼稚園がある。カメラを持った親父には鬼門!
主郭北側には堀が明瞭に残る。 主郭南側の堀

遺構がほとんど失われているのは、豪農が多く屋敷拡張、造成のために用地が利用された点もあるだろうが、洪水に見舞われたことも見逃せないであろう。
その両館の姿を想像復元図にすることは難しい。
これが山城なら楽なのだが、この付近の山城、だいたいは遺構は完存状態である。
曲輪や土塁がはっきり残っている。
そこに柵を巡らし、小屋を建て、最高箇所に井楼櫓を建てれば、かなり戦国時代の城の姿のイメージが復元できる。

軍事施設ではなく、河川に隣接した河川港を持つ城館であり、付近の穀倉地帯を治めるための経済活動主体の施設として両館の姿を想像してみた。
何しろ真実は500年以上の彼方である。
厚い時間の壁が立ちふさがる。

平安時代末期の豪族であり、金砂山合戦に登場する岩瀬太郎の居館とも言われ、碑も建てられているがかなり怪しい。
伝説の域を出ないだろう。南北朝時代には佐竹氏家臣の白石氏が城主であったという。
しかし、戦国時代は不明確である。この付近の佐竹氏重臣の家臣の館であったと思われる。

なお、この館の東側、久慈川方面に行くと春日神社がある。
春日神社は元々は岩瀬明神というそうである。徳川光圀により改名されたらしい。
下岩瀬館の東にある春日神社の南東側に「朝日姫と鏡ヶ池」という伝説を持つ鏡ヶ池という小さな池があるが、これは久慈川の舟付き場の跡と思われる。

(従来の記事)下岩瀬館(常陸大宮市下岩瀬中屋敷)
常陸大宮市の南東端、久慈川に玉川が合流する地点の低地の微高地上にある。
久慈川の対岸は常陸太田市の金砂郷地区、南の玉川の対岸は那珂市瓜連地区である。
少し北の上岩瀬館同様、平安時代末期の豪族であり、金砂山合戦に登場する岩瀬太郎の居館とも言われ、碑も建てられているがかなり怪しい。
近世の庄屋屋敷にも使われていたとは思われるが、中世までしか遡れないであろう。
平安時代までは遡るのは無理だろう。

民家の北側の水田地帯側と、西側に埋まりかけた幅2mほどの堀と崩れかけた土塁が80mほど存在している。
西側の堀は微高地を斜めにジグザクに分断しており、折れがあるようにも見える。その西側が独立した曲輪かもしれない。
微高地とは言え、洪水でかなり被害を受けたのではないかと思われる。
よくここまで残っていたものである。
なお、この館の東側、久慈川方面に行くと春日神社がある。
ここが高さ2mほどの微高地であり、館ぽい感じがする。神社には「岩瀬城主祈念所」とも書かれている。本当か?

北側の土塁 西側の土塁と堀はジグザグ曲がっている。 春日神社付近の方が館っぽいのだが?

なお、この神社の南東側に鏡ヶ池という小さな池があり「朝日姫と鏡ヶ池」という伝説がある。
内容は以下のとおりである。
『 むかし、大里(いまの金砂郷町)に、たくさんの金銀や土地を持つ長者が住んでいました。
人びとはこの長者を万石長者と呼んでいたのです。 そのころ奥州征伐に行く八幡太郎義家が、長者の屋敷に泊まりました。
長者は大いに喜び、手厚くもてなし、ごちそうをいっぱい出しました。
義家は長者のあまりの富豪ぶりを目のあたりに見て驚きました。

三日三晩にわたってもてなしを受けたのち、お礼を言って旅立ちましたが、途中から引き返してきました。
「このままにしておいては、あとあとためにならない。」 と考え、急に長者の屋敷を襲って、滅ぼしてしまったのです。
この長者にはひとりの美しい娘がいて、名を朝日姫といいました。
万石長者が滅んだ時、乳母によって助けられ、いまの常陸大宮市下岩瀬にある春日神社近くに隠れ住んでいました。
朝日姫は十八歳の春を迎えたとき、父や母の霊をなぐさめるため、万石長者の家を再興しようと強く決意しました。
そして、それが成就するように百か日の間祈願したのです。
その満願の日です。
身を清めて白装束となった姫は、境内の池のほとりの松に、日ごろ大切にしていた八稜の鏡をかけ、お化粧をはじめました。
池の水は清く、すがすがしい朝でした。
ところが、ちょっとしたはずみで、池の中へ鏡を落としてしまったのです。
あわててその鏡を拾おうとした姫は、足をすべらせて深みにはまり、おぼれてしまいました。
その後、女の亡霊が出て、長い間付近の人たちを悩ませました。
村人は朝日姫の怨霊だといって恐れ、池に近寄る者もありません。

「常福寺の坊さまに拝んでもらおうじゃねえか。」 村人たちは、いまの瓜連町にある常福寺(現在の瓜連城跡に建つ)の了誉上人という偉い坊さんにお祈りしてもらいました。
その後、姫の亡霊は出なくなりました。 そしてある日、一匹のカメが池の中から出てきたのです。
不思議なことに、その背中には姫の落とした鏡がのっていました。 村人たちはその鏡を常福寺に納め、供養してもらいました。
下岩瀬の人たちは、池や川でカメを捕らえると、必ずこの池に放し、姫の霊をなぐさめるようになりました。
そして、この池を鏡ヶ池と呼ぶようになったということです。』(常陸大宮市観光協会HP)
この伝説と館が果たして関係あるのかどうか? この朝日姫が春日神社近くに隠れ住んでいた館こそが、下岩瀬館か?
若い娘が池でなくなった事実があったのであろう。
Pの遺跡侵攻記を参考にした。