長倉遊貝城(常陸大宮市長倉)
ここには2013年の夏場に行った。
季節も季節、凄い藪だった。
土塁や虎口があった記憶はある。
あとは笹薮と小竹地獄だった。それだけが強烈に印象に残っている。
大雑把で漠然とした印象しかなかった。
陣城というのでこんなもんか、という感想だった。

ここに2022年の冬場、9年振りに再訪した。
西側の小竹地獄はそのままで写真撮影も不可能な状態だったが、東側の笹薮は刈られており主郭東側はスッキリ見えた。
冬場でもあり、広葉樹も葉がなく、ここが9年前に見た光景と同じ場所か、信じられないくらいだった。


長倉城の南西約1q、国道123号線柏崎交差点の北の山が城址である。
南側には星宮神社、市営団地がある。

山入の乱における長倉合戦の陣城とも長倉城の出城ともいわれるが、主郭のみで東西約200m、南北約50〜70mあり非常に広大である。
その周囲の遺構も含めると東西約300m、南北最大約150mの規模を持つ。
主郭内部は標高95〜98mで、比較的平坦であり、若干西側が高い。
虎口は北東側B、東側A、西側、南側にあるが、南側は切岸に斜めに道が付いているだけであり、後世の耕作に伴いもののように思える。

主郭中央部、やや東側に高さ約1mの土塁がある。
主郭内は本来、いくつかに区画されており、後世耕地としたため遺構が曖昧になったのではないかと思われる。
主郭の周囲は高さ3〜5mの鋭い切岸になっているが、切岸の総延長は約500mあり、膨大な工事量である。

@主郭東側は以前に比べスッキリしている。 A東には虎口が開く。
B北東側に下る虎口を出ると小曲輪になる。 C北東虎口を下ると竪土塁となり、北側に曲輪がある。

主郭周囲の帯曲輪は東側以外を覆い、幅は約20mである。
北東の虎口Bを出ると竪土塁Cが下り、井戸のような土塁に覆われた曲輪がある。

さらに東の谷津状の場所が5段ほどの段々となっている。
これが城遺構か耕作地なのかは判断できない。

東虎口、西虎口とも湾曲を伴う坂虎口である点が共通している。
一見、陣城のような感じであるが、とても陣城の工事量ではない。

陣城等臨時の城として使った後、居住用の城に再利用、転用したのではないかと思われる。
これだけ広大で段郭主体の単純構造の城であり、防御力は弱いように思える。
しかし、北側から東側に主郭部から約20〜30mの深い谷となっており、さらに山に続く西側には二重堀のようになっており、比較的堅固な構造である。


(以前の記事)長倉遊替(要害)(常陸大宮市(旧御前山村)長倉)
国道123号線沿いの長倉の西の柏崎交差点の北に新興住宅地がある。
その裏山が城址である。ここに行く道は失われつつある。

かつては住宅地裏から西側に迂回する道があったようだが、その道は篠竹が道にまで生えてきていて消えつつある。
途中までは行けるがあとは、強行突入といういつもの手段しかない。

北東1qの長倉城を山入の乱で攻めた時の陣城だったという。
山の比高は60mほど。正確な形状は把握できないが、北が凹んだ「凹」形をしており1辺100mほどある。
東側に長さ50mほどにわたり曲輪中央部に低い土塁がある。南に虎口があり、下4mに腰曲輪がある。西側の切岸は7mほどあり、堀切がある。
それだけであり、とりたてて目立つ遺構はない。
北に道が延びているがその道は土塁の上についている感じである。
肝心の曲輪内部は比較的平坦、かつて畑として使っていた可能性もある。

しかし、藪状態で歩くのに難儀する。
これだけ広く、平坦であるとかなりの兵を駐留させることが可能であり、陣城としては十分なものかもしれない。



大倉山砦(常陸大宮市長倉)
長倉城
の南東約1.5q、那珂川に山がすぐ北に迫る場所にある。北には日野自動車のテストコースがある。
この地の那珂川に面する部分は崖状になっており、現在、国道123号線は川沿いを通っているが、かつての街道は北側の標高約65mの台地の狭まった部分を通る。

↑南下の台地から見た砦のある山。撮影場所付近の南をかつての茂木街道が通っていた。

長倉城を攻める場合は軍勢はこの台地を通ることになる。そのため、この台地狭隘部を抑えるようにこの砦がある。

この砦、当初は城郭という認識はなかった。
土塁を持つ堀切@があり、それは城郭遺構という感じなのだが、それ1本だけ。
尾根を横切る切通しにしか見えなかった。

@堀切だが、尾根を横切る切通しにした見えなかった。
A@の堀切は竪堀となり、90度曲がって横堀状になる。

この堀切@を越えると横堀状になるが、道のようにも見える。
尾根上は平坦Bなのだが、傾斜しており、自然地形にしかみえなかった。
しかし、道のように見えた横堀A、突然なくなってしまうのである。
横堀または土塁を持つ腰曲輪というべきである。

さらにその下にも平坦化された腰曲輪のようなものがあり、この横堀状遺構の斜面は切岸加工されていた。

B尾根上は若干傾斜しているが、比較的平坦である。

このことから簡素な構造であるが、ここが城郭であると判断した。
この横堀状遺構は裏側である北側からの攻撃を、堀切は山伝いからの攻撃を考慮したものであろう。
このすぐ東約500mに位置する金井館とも似た構造である。
金井館同様、長倉城の出城であり、那珂川下流方面から長倉城への接近を見張ることを目的とした城郭と判断できよう。

入本郷館(常陸大宮市入本郷)

長倉城の北約3q、長倉から小舟方面に通じる県道164号線(長倉小舟線)沿いの山にある。
この山の南下を西から延び県道164号線に合流する道が那須方面と結ぶ主要街道であったといい、その街道を監視する城である。
城からの視界はこの街道筋が主体であり、長倉城への狼煙中継ができたか分からない。

@山頂の主郭は径約8m、富士権現が建つが3.11で倒壊してしまった。 A主郭の北下約4mに唯一の明確な城郭遺構、堀切がある。

規模は径約8mの富士権現が祀られる平場@と北に派生する尾根に幅約4mの堀切A1本という簡素なものであり、戦闘への考慮は感じられない。
この尾根の先に鞍部があり、さらにその先に平場があるが遺構はない。
南に派生する尾根は東に曲がって高度を下げるが、この尾根筋には堀切はなく、尾根の麓の民家が居館跡ではないかと思われる。


上平館(常陸大宮市野口)

長倉氏家臣に上平(うえだいら?、かみだいら?)氏の名がある。
その館がここではないかと言われる。
場所は御前山小学校と御前山中学校の中間地点、「割増」地区である。

館と言われる場所(36.5660、140.3118)は鉄塔が建つ標高106mの山であるが、鉄塔建設で遺構は分からなくなっている。

↑は西側、板碑の覆屋前から見た館があったと言われる山である。
 鉄塔が建つ場所が最高地点であるが・・・・。


ただし、鉄塔工事が行われた場所@の外側を探しても城郭遺構は確認できない。
館が存在したとしても精々、狼煙台レベルのものであったのではないだろうか?
ただし、この山頂部から西下に下る道A、まるで横堀である。
深さは約3mもある。
堀状の道は多くあるが、このような深い塹壕状の道は城に関わる場合に時々見られる。
これは果たしてただの道か?

居館があったとすれば西下の集落の地だろう。
ここは那珂川を見下ろす標高65mの台地上である。
那珂川からの比高は約40mあり居住性もよさそうである。

@主郭は鉄塔が建つ場所らしいが、遺構は消滅している。 A西に下る道は横堀状の堀底道である。 付近で発見された南北朝時代の板碑

なお、ここで南北朝期の「板碑」が発見され覆屋で保護されている。
この板碑、緑泥片石製で、梵字で蓮華座の上に主尊の阿弥陀如来、下部に勢至菩薩と聖観音を配した阿弥陀三尊となっている。
北朝年号貞和4年(1348)の建立と彫られているので北朝方の武将の供養塔らしい。
石材は埼玉地方のもので、明治39年に開墾中に土中より発見されたと解説板に書かれる。

細内要害(常陸大宮市下伊勢畑)
Pの遺跡、侵攻記で紹介された新規発見の城郭である。
御前山青少年旅行村の地が伊勢畑要害であるが、南東の沢を挟んだ尾根が細内要害である。
と言っても、城にちゃんと名前がついている訳ではない。
(この館の名称であるが、御前山青少年旅行村となっている伊勢畑要害の南側であり、伊勢畑南要害が適切かもしれない。)


地元の集落名が「細内」、その名を採ったに過ぎない。
↓は東側から見た城址のある山である。

地元では「リュウガイ」とか「リュウゲエ」とか呼ばれているだけという。
しかし、これまさに城郭を意味している。

城のある尾根は伊勢畑要害の南東500mに位置し、南南から北東に延びる尾根にある。
この尾根の標高50mから120mにかけてが城域である。
最高箇所は尾根の途中にあるが、その部分は尾根が一度盛り上がり、裏が深さ10mほどの鞍部になっている。
その最高箇所から北東側に延びる尾根沿いに比高70mにわたり段々に曲輪が展開する。
総延長は約300m、幅は80mほどある。

この城に行くのはちょっと面倒。
細内集落に登る道があるが、その登り口から沢沿いに西に入っていく道がある。
細内集落のある岡の北側下を西に沢に沿って向かうと高さ10mほどの切岸が迫る。
この切岸の上が城址の北東端部に当たる。

登り口が岡先端部にあり、これが登城路であったようであり、ここを登ると曲輪がある。
大手曲輪に当たるものだろう。
しかし、ここへは登らず、沢沿いに西に登って行く道を行った。
と言ってもこの道、かなり荒れている。
もう過疎化で山に入る人もいないのであろう。

すると途中から横堀状@になる。
本物の横堀を利用した道なのかもしれない。
この道が城の北側を覆うように付き、主郭背後の鞍部Cにまで通じる。

この道の途中に城域に入る道がある。
そこを入ると幅15mの平坦な曲輪Aが半円状に80mほど続き、高さ2mおきに段々に展開する。

ここの標高は93m。4段ほどの切岸を南西側に上がって行くと、横堀を持つ曲輪があるが、果たして横堀か土塁付の曲輪かは判別できないが、土橋のようなものもある。

しかし、肉眼ではちゃんと見えているのだが、写真を撮ると、藪しか写っていない。
このため、写真掲載は断念。
ここの標高は112m。
この南西側が主郭である。40m四方ほどあり、2段になっている。

南端部Bが土塁状になっており、そこが最高標高の120m。
西側には3m下に帯曲輪が巡り、さらにもう1つの腰曲輪があり、標高112mの鞍部となるが、鞍部の主郭部側には堀と土橋がある。

一方、始めの曲輪Aの北東側に幅25mほどの曲輪が2段展開する。
この曲輪Dには墓石が倒れた場所があり、かつては墓地であったようである。
墓誌を見ると寛政6年とか明治という字が読めた。
すでに忘れられた墓地のようである。
ここで倒れた墓石を4つほど復興。
しかし、大きい石は起こせなかったので手を合わせて去る。

この曲輪の南側は一段高くなって曲輪が展開する。
また、北側には土壇があり、虎口だったようである。
この部分は後世、畑として利用されていた可能性もあるが、かなり昔に自然に戻ってしまったようである。
多少の改変を受けていることも想定される。

北東に下って行くと標高79m、74m地点に30m四方ほどの北東側以外の3方を囲まれた平坦地Eがあるが、ここは植林に伴うものだろうか?それとも遺構なのだろうか?
その北東下は谷になっており、水が湧いていて谷津状となる。
ここが水場であろう。
この北側の尾根先端に先に述べた大手曲輪のような平坦地がある。

@尾根東側の山道は横堀を利用したものか? A主郭部北側の帯曲輪 B主郭南西端の土塁
C主郭部南東下の鞍部から主郭部を見る。
直下には堀切と土橋がある。
D Aの曲輪北下の曲輪には忘れられた墓地
があった。管理人が一部、復興したが・・・
E Dの曲輪のさらに北に2段の平坦地がある。

総じて段々の曲輪で構成される単純構造の古いタイプの城である。
一旦、城内に敵の侵入を許してしまうと2mほどの切岸の連続では防御は弱い。
また、この城のある山からは東方向しか見えなく、奥まっている場所にあることから南北の眺望は悪い。
これは軍事的には不利である。

逆に低地からは見えないことになり、隠れ家的でもある。
しかも、城域は広く、曲輪も広い。
このため、ここは住民の避難城のようなものであったように思える。
南西側の鞍部を南西に続く山地に迎えばさらに奥地への退避も可能である。
ただし、山入の乱で陣城として使われた可能性も否定できない。
戦国時代後期、佐竹氏の支配が確立し安定したころには使用されたとは思えず、山入の乱の時期のものではないであろうか。

桧山城(常陸大宮市(旧御前山村)桧山)
国道123号線御前山の金井交差点から那珂川にかかる御前山橋を渡り県道39号線から291号線に入り、南方向の栃木県境の茂木方面に約5q進んだ桧山地区にある。
もう少し進めば「ツインリンクもてぎ」である。
ここは桧山川沿いの山間の狭い谷、その桧山地区の東の標高174.4m、比高85mの山↓が城址である。

麓の南側の民家が一段高くなり、虎口らしい部分もあり、そこが居館跡らしい。

城へはその民家裏付近から登るが、この山の勾配が急であり、しかも道も真っ直ぐ、直登するため、途中で顎が上がる。
しかも行ったのは、何を血迷ったのか7月。
比高85mは暑さもありダテじゃない。
息が切れ、汗が吹き出たころようやく城址に到着。

登城道は南西端の横堀にかかる土橋@に出る。
そこから東西に横堀が延びる。

しかし、この横堀Aの西側、北にカーブしたとたんに腰曲輪になる。
土橋に見える範囲だけが横堀なのである。
何だか飾りだけのもののような・・・。
城は東西80m、南北40mほどの規模の単郭構造である。

曲輪形状はしゃもじ形に近い。
東側に延びる横堀は曲がりながらの続く。
城内部は南側が2段になっており、全体の地勢が東から西に緩く傾斜している。

最高箇所となる東側は土塁Bが覆い、横堀から延びる犬走りから堀切に通じる。
この部分の堀切は土塁上から深さ4mほどである。
さらに横堀(一部、犬走り状)は北側に回る。

途中に虎口のような部分があるが、後世のものか、オリジナルなものか判断できない。
都合、城の3/4が横堀に囲まれる。

北端に土塁に囲まれた銃座のような陣地があり、その北の尾根に堀切が2本ある。
この尾根方向からの迎撃陣地だろう。
@南に開く虎口の土橋と横堀 A主郭周囲を横堀がまわる。 B最高位置の東端の土塁

ここは佐竹氏領と茂木氏領間をつなぐ茂木街道(国道123号線)の裏街道筋であり、つなぎの城であろう。
城主等は不明。
戸村氏が城主という説もあるが、戸村城の戸村氏の一族か?
でも、なんで離れたここに?
ここなら大山氏か石塚氏の勢力範囲じゃないかと思うが。

伊勢畑要害(常陸大宮市(旧御前山村)下伊勢畑)
桧山城方向に行くのではなく、国道123号線御前山の金井交差点から那珂川にかかる御前山橋を渡った那珂川南岸正面の山が城址である。
その山こは「御前山青少年旅行村」である。
そのコテージがある山頂部が城なのである。

標高は120m、那珂川の水面からは90mの比高がある。
ここに長らく住んでいるが、管理人、「御前山青少年旅行村」には行ったことはなかった。
しかもそこが城跡であることも知らなかった。
これは迂闊であった。

実際、来てみると驚く、ほとんど城の旧形状を変えないで、そのままその場所にコテージ群を建設しているのである。

もともと城なら郭内は削平されているので工事量も少なかった、ということもあるが、ほとんど土木工事をする必要はなかったかもしれない。
これは業者にとっては好都合だっただろう。

城は単郭であり、「く」字形をしており、長さは100mほど幅は40mほど。
周囲は土塁が巡っていたようである。
特に西側が最高箇所であり、土塁@も郭内から3mほどの高さがある。
南東側の土塁間に虎口がある。
ここを出ると麓の居館推定地の吉田神社に出る。
この道が大手道と思われる。

その土塁外周を北側の一部を除き、横堀Aあるいは帯曲輪が巡る。
西側の土塁の外側にコテージがあるが、この部分の堀はコテージ建設のために埋められているようである。
このコテージのある場所を西に下ると鞍部になるが、ここには堀切があったのではないかと思う。

@西側に残る土塁 A周囲を巡る横堀であるが、埋められている。 B曲輪内にはコテージが建つ。

城の来歴は不明であるが、場所は御前山城の西2qに位置し、山続きである。御前山城と何らかの関係があるのかもしれない。
また、那珂川の対岸、北2qが長倉城であり、良く見える。

長倉城攻撃(鎌倉末期文保元年(1317)佐竹氏8代行義の2子義綱が長倉氏を興し、佐竹氏の跡目を上杉氏から迎えることに山入氏等が反発し、永亨7年(1435)に「山入の乱」が勃発。
この時、長倉義景らが長倉城で反旗を翻し、これに対して鎌倉公方足利持氏が大軍を派遣し降伏させた事件。)のための陣城、
あるいはその逆に長倉城の支城として、那珂川の両岸から茂木街道を抑える役目があった可能性もある。

佐伯神社参道(常陸大宮市野口)
常陸大宮市西部、旧御前山の野口は山間を流れた那珂川が平野部に出る場所である。
そこには南岸に御前山城、北岸には野口城が存在する。
この川沿いの谷は古来からの主要街道であり、両城も街道を扼する城である。
しかし、南岸の御前山城は山が川に接しており、川沿いに道があっても閉塞することは簡単である。
一方、北岸は河岸段丘が発達しており、段丘上は平坦である。
多分、街道はこの段丘上を通っていたものと思われる。
野口城の西側にも平坦な岡が広がっており、この岡を通れば、野口城に容易に接近できる。
野口城の弱点と言える。こういう立地条件の場合は、外郭に防衛用の長塁や出城がが存在することが多い。
そこでその岡に。
西端部に西から登る街道を扼する砦があると思ったが、そこには何もなかった。

しかし、台地の中央部に?というものが存在した。佐伯神社の参道である。
両側が土塁になっており、通路部はまるで堀底道である。道の部分は明らかに台地平坦面より低いのである。
それが南側の台地の縁から神社まで南北300m続く。
群馬県渋川市の長井坂城から赤城山麓に延びる道がこんな感じである。

ちなみに佐伯神社の由緒、解説板によると「祭神 天忍日命・道臣命・健日命
御祭神 往古稲背入彦命を祀ると伝えられている。
その後今の天忍日命(武術の神)道臣命(農業の神)健日命(学問の神)となり、佐伯三社大明神の御神号を賜り産業開拓の守護神として遠近の尊信極めて厚い大社である。
大同元年(806)讃岐の僧玄海によると伝えられている。
この地に来て佐伯氏の祖神を祀ったのであろう。
佐伯氏の末裔は世々讃岐に住んでいる。
空海はその族である。

延元年間(1336年頃)常陸大掾氏14代城主平高幹がこの社に朝敵降伏を祈り常陸国朝妻郷の地拾五町壱反歩を寄せられる。
天正年間佐竹氏19代城主義重が城北の鎮守として崇敬し野口、大畑、野口平の地を寄し同11年(1583)三美、門井、那賀、下小瀬、宝性寺、国長、泥部の地2400石を社領に充てられる。
慶長18年(1613)将軍徳川秀忠が85石を御朱印地として社領に寄せられる。
元禄4年(1691)水戸藩主徳川光圀が神鏡一面を奉納される。寛政3年(1791)三月に現在の本殿が造営成就、四月に遷宮をする。
明治5年(1872)郷社に列せられる。
昭和二十七年(1946)九月宗教法人法に基づき宗教法人「佐伯神社」となる。」

この解説だけでは城郭遺構という確証はない。
ただし、かなり古くから存在する古社であることが分かる。
常陸大掾氏14代城主平高幹とは石岡の府中城の城主であり、時代は南北朝時代の当主である。
大掾氏の勢力は当時水戸城まで及んではいたが、ここ野口城付近までは勢力は及んだことはない。
したがい、佐伯神社は当時はこの地にはなく、後世、移転してきたものと推定される。
寺社の移転などはよくあることであり、廃城になった城址に移転する例も多い。

参道北側、両側は土塁になっている。 参道、岡縁部付近。堀のように見えませんか? 岡の中央部にある佐伯神社

天正年間、大掾氏を滅ぼした佐竹義重が石岡付近にあった神社をこの地に移したのではないだろうか。
この場合の城北とは野口城の北ということだろうか?
したがって今の神社の地が出城であった可能性も否定できない。
周囲に土塁と堀が存在していたとすれば方形館である。
そこから羽を広げたように長塁が延び台地を分断していたことも考えられる。
似た立地を取る城館としては、水戸の飯富長塁や神生城がある。
なお、参道が長塁と仮定すれば、神社より北側にも長塁が存在したはずである。
北側に回ってみたが、遺構跡らしいものは確認できなかった。
戦後間もないころの航空写真を確認したが分からなかった。古い時期に湮滅した可能性もないとも言えない。
結局、この参道がただの参道であるのか?それとも、位置的に見て存在した可能性がある野口城の外郭遺構、出城だったのか?

那須陣(常陸大宮市(旧御前山村)長倉)
永亨7年(1435)の「山入の乱」の時の鎌倉公方足利持氏による長倉城攻撃時、那須氏の軍勢が駐屯した陣城という。
字名でずばり「那須陣」という名で残っているので、事実なのであろう。
長倉城の東を流れる大沢川の谷の東対岸、東から尾根状に突き出た山である。

長倉城の本郭とは直線距離で400m程度である。
それほど高い場所ではなく、大沢川からは比高30m程度、標高は60m程度に過ぎない。
長倉城が標高130mほどあるので、ここに陣を敷くと、陣内部は長倉城から丸見えである。
そんな至近距離である。

↓左の山が長倉城、右の岡が那須陣、中央部が@、その右の平坦地がA

でも、それが狙いであり、おそらく、ものすごい大軍が包囲していることを城方に認識させ、戦意を喪失させることが狙いだったのであろう。
取り立てて遺構らしいものはない。
上部が段々状に平坦な尾根が東から西に突き出しており、先端部@が物見台のように一段高くなっているだけである。

@岡先端部 A中段の岡 B山側の平坦地は植林用か?


網川館(常陸大宮市(旧御前山村)野田)
国道123号線と茨城県と栃木県境を流れる八反田川の交差地点から八反田川を500mほど北上した茨城県側(東岸)から突き出した岡にある。
この岡は西下20mが八反田川でありこれが天然の水堀となっており、東側が切通しB(堀切跡?)となっているので、独立した岡という感じである。

その切通しから10mほど高い場所が館主要部@であるが、南側に腰曲輪があり、岡の上は60m×50m程度のやや中央部が盛り上がった砲弾形状をしている。

かつては畑、果樹園に使われていたようであり、土塁等はない。
凄いのは西側、八反田側方向の切岸Aの勾配と高さである。
高さは15mほどある。

↑は南側から見た館跡。(林となっている部分)

極めて小さい規模の館であるが、そこそこのものである。
西方向に対する物見のような役目があったのであろうが、来歴等は分らない。

なお、余談であるが2012年5月6日つくばや益子で竜巻が発生、各地で死傷者や家屋破損の被害が生じた。
そのうち益子で発生した竜巻がこの地まで到達し、この館跡を直撃した。
大木が根本から倒されたり、太い枝が折られていたり、その生々しい凄まじい破壊の痕跡が残っていた。

主郭内部 主郭から東側の堀切跡の道路を見る。 東下の堀切跡である道路から見た主郭

中丸城(常陸大宮市(旧御前山村)野口)
旧御前山村役場がある岡の1段下の岡の地名(字)が「中丸城」(なかまるき)である。
ここが城跡であったのかは分らない。200m四方の上部が平坦で那珂川沿いの水田地帯から比高10〜15mほど高い場所である。
北側の山続き部分を堀で仕切れば、館を置くには良い場所である。
内部は宅地と畑で城郭遺構らしいものは確認できない。真実は如何に?