千田高内館(常陸大宮市千田)
2020年5月、50storm氏が見つけた城である。
2020年5月31日、確認のため、もうすぐ夏が近いこの日、城のある藪の山に常陸大宮市の関係者等と突入した。
かなり埋没が進んでしまっている部分もあるが、間違いなく城だった。

しかし、この時期の山、湿度が高く蒸し暑い。蚊がブンブン飛び交い不快、この上ない。
やっぱり、山城は冬がベストである。

城は茨城県常陸大宮市と栃木県茂木町の県境の茨城側、常陸大宮市、旧緒川村西端の千田地区にある。
場所は茨城県常陸大宮市と栃木県茂木町をつなぐメイン道路、茂木街道、国道123号線が那珂川を渡る新那珂川橋から北に県道171号線を約2q、茂木町山内地区の小盆地の東の山である。
ここ山内で小瀬、小舟方面から県道287号線が合流する。
この交差点の南西約500mに見える山が城址である。

この山の山ろくを八反田川が山麓を北から西に向きを変えて流れる。
川岸は崖状になっており、渓谷状、かなりの防御力を持つ天然の水堀となる。

北東側から見た城址。北側を八反田川が流れる。 @北から西を流れる八反田川が水堀の役目を果たす。 A北西の麓の段々状の場所が居館跡らしい。

その八反田川がカーブを描く東の山に城であるが、麓部、川に面して段差が3段ある。
段差は明らかに加工されたものであり、平坦である。
最下段は畑として使われている。どうやらここが居館跡のようである。
この平坦地の裏を登っていくと城である。

平坦地の南側を登るルートが登城道であったようであり、山の途中に中継の曲輪と思われる平坦地がある。
(なお、山麓の平坦地北から登り、北のピークに至る道もある。途中に石碑のような石がある。)
さらに登ると城址である2つのピーク部の間の標高135mの鞍部Bに到着する。
八反田川の標高が67.6mなので比高は約70mである。
城は南北に2つ並ぶピークとその間の鞍部が領域である。

この構造、町田御城とそっくりである。
この鞍部は2段構造になっており、幅は約25mあり、内部は平坦に加工されている。
西側が谷津部であるが、切岸が急勾配になっている。
一方、鞍部東側は崩落している。
ここが大手曲輪と言えるかもしれない。

B大手曲輪にあたる鞍部。2段の平坦地からなる。 C南のピークの主郭、平坦であるが、藪! D南のピーク中腹を南から西を覆う横堀。埋没が激しい。

この鞍部の北側が北のピーク(36.5860、140.5860)であり、径約12mの平坦地になっており、中央部に径4mほどの小さな盛り上がりがある。
鞍部より約5m高い。これは狼煙台か?それとも社か何かがあったのか?
このピークから西側に水平距離約14mおきに3段の曲輪があるが不明瞭である。

最下段の曲輪は前面に土塁を持ち、北に竪堀が下る。西から南下を登城路が通る。
登城路を登って来る敵を迎撃することが役目だろう。
一方、ピーク東側は崩落しており本来の姿は分からない。

鞍部の南側が山になり、その上のピーク部(36.5853、140.2477)が主郭Cである。
標高は鞍部からは約10m高い147m。
頂上部は東西に長く東西60mほどあるが、東西はだらだら傾斜しており、比較的平坦な中央部は径約15mである。
東端に堀切Eがあるが、かなり埋没している。
その先が尾根が登りになって続くが尾根の両側に竪堀があるが、その先は遺構はない。
ここを行くと野田城や南館に通じる。

E南のピークの東にある堀切、ここが城の東端か? 城のある山の北麓にこんな地形が・・これ城郭遺構じゃ?
まだまだ、遺構が埋もれているかもしれない。

一方、西側はだらだら下っており、弱い部分である。
このため、曲輪や竪堀が構築され防備が厳重にされている。極めて合理的である。
傾斜が緩やかな南下を横堀Dが回り、これがカーブして尾根西側から北側を覆うが、この横堀は埋没しており道にしか見えない。
夏場近いため、遺構はまだ確認しきれていない部分もあるかもしれない。

総じて合理的な造りではあるが、埋没、風化が激しい部分が多く、崩落している部分もある。
遺構には古さを感じる。
この地は佐竹領と茂木領の境であるが、どちら側に属した城かは分からない。
構造上、少なくとも東方向はそれほど意識した感じはない。
山間を経由して野田城や南館と連絡を取ることができるような構造に見える。
この両城に関係が深いように思える。

しかし、居館と思われる場所が西の山ろくというのは矛盾があるが、居住性を考えればそこが適している。
八反田川が渓谷状になりかなりの防御力を期待できそうではあるが・・・。
戦国後期には茂木氏は佐竹氏に従属してしまうので、役目は北西の那須氏を意識していたものになっていたことも考えられるが、その頃にはこの地は安定していたので廃城になっていたのかもしれない。
おそらく山入の乱の終息の頃、役目を終えたのではないだろうか?

南館(常陸大宮市秋田)
「小屋峰」という字名から確認された館である。
場所は常陸大宮市の西、旧御前山村にある山王山(256)の真北700mにある山、国土地理院の地図ではその山に三角点があり、178mの標高が記載されている。

はっきり言って、ここはド田舎、準秘境である。
過疎化も進んでいる。よくこんな山間の谷間に住むものである。

ここは長倉城の裏手にあたる。
国道123号線長倉交差点から県道164号線に入り、長倉城の東の裾を通り、小舟方面に約1.5q、滝沢地区から西の秋田地区に約2q行くと、諏訪神社がある。

この神社の東にある民家の脇の小道をまっすぐ登れば館跡に行ける。
(しかし、途中で柚子畑に転用された平地に登るとんでもない急勾配を登ることになる。そもそもその畑は曲輪を転用したものではないかと思われる。
急勾配の斜面は切岸ではないのかと思う。)

後はこの畑のある尾根筋をまっすぐ北に登れば標高178m地点にある館跡にたどり着く。
途中、曲輪と思われる場所が数か所ある。

なお、神社裏を迂回しても到達は可能であるが、両ルートとも道は既に消えかかりつつあり迷う。
まあ、この過疎化が進んだ地ではどこもこんなものである。

で、肝心のその遺構、堀や土塁はなく、小規模なものであるが、完全なる中世城館と判断して差し支えないものである。
基本的には単郭であり、歪んだ長方形をし、約40m×18〜25mの広さ、東側が若干高く、東側に小さな腰曲輪を持つ。

曲輪内は結構平坦になっており、切岸は明確で人の手が入ったものであると判断される。
南下には犬走りのような曲輪がある。
この曲輪は南西側の神社方面に続く尾根に合流するが、その鞍部は広く平であり、ここも曲輪と見て良いと思われる。
この館については、地元でも知る人はいないようであるので一時的な臨時の城館であろう。

規模も物見台程度と小さく、堀、土塁もない曲輪にみの簡潔かつ古風な造りであること、
さらに館が存在する位置が長倉城の西の背後ということからして国長八幡館などと同じく、山入の乱の長倉城攻防戦に係る包囲網の陣城の1つではないかと思われる。
この攻防戦は、応永15年(1407)、永享7年(1435)、明応元年(1492)の3回あり、そのいずれかまたは複数回、使われた可能性がある。
@主郭内部、冬は葉が落ちてきれい。
きちんと整地されている。
A主郭南の切岸と犬走状の帯曲輪 B尾根南端の畑は曲輪を転用したものではないかと思う。

国長八幡館(常陸大宮市(旧緒川村)大字国長)
国道123号線沿いの御前山中学校西の国長(くにおさ)、入口交差点を県道39号線に入り北上すると国長地区に阿弥陀堂がある。
阿弥陀堂の北に見える標高167mの山が城址である。
麓からの比高は100mほどある。


↑ 南下阿弥陀堂北から見た城址。山頂まで道などない!

ここは山間の過疎の地、年寄りしか歩いていない。
山は現地では「八幡館(はちまんだて)」と呼ばれているが、城とは認識されているが、それほど地元が強い愛着を抱いている感じはない。
ということは領主の城ではなく、陣城等、一時的なものということである。

事実、遺構も陣城レベルの臨時的な感じであった。
また、麓に「堀の内」「寄居」「館」とかの城に係る地名も存在しない。
当然というか、予想通りというか、城までの道はない。
地図を見れば山の西に山道が描かれている。
しかし、その道、ほとんど消えている。もう誰も歩かないのだろう。
こうなると、ひたすら藪を強行突破するのみである。
息が上がるころようやく主郭に到着。

@ここが山頂の主郭であるが・・・藪!! A東下の帯曲輪、鉄砲銃座のような場所がある。
B南側の帯曲輪、横堀かな? C北西の尾根に残る堀切

確かに平場になっているが、そこは一面の小竹の密集である。
中央部は若干高く、十分に削平されていない。主郭は長辺70m、底辺30mほどの二等辺三角形のような形である。
この城、主郭部はいい加減であるが、見どころは西以外を回る帯曲輪である。
主郭部が曖昧で周辺部がしっかりしている点では、旧緒川村の高館城や日立市の入四間館と共通である。

帯曲輪から主郭までの高さは7、8mほど。
一部は犬走りとなっているが、横堀または土塁付の曲輪である。
東側が突き出た感じになっており、銃撃陣地のような場所がある。

その5m下に堀切があり、緩やかに北東の尾根に続くが、小さな堀切が2つあるのみであり、ほとんど自然地形である。
一方、北側は5m下に土塁を持つ腰曲輪があり、その先はアップダウンした尾根が続くが自然地形である。
西北に派生する尾根に主郭から15m下に小曲輪と堀切があり、その先の尾根に続く。

以上のような簡素な作りであり、まともなのは帯曲輪部のみと言える。
←南の麓の民家付近の段々。館の切岸に見えるが・・関係ないらしい。

ここが使われたのは、陣城とすれば南西2.5qに位置する長倉城合戦の頃であろう。
なお、長倉城を巡る戦いは応永15年(1407)、永享7年(1435)、明応元年(1492)の3回あり、そのいずれかまたは複数回、ここが使われた可能性がある。
誰の軍がここに入ったのかは記録にない。
山頂部に木が多く、長倉城が見えることを確認してはいないが、大宮方面などが一望の下である。
この山より東から南東にかけてこの山より高い山はない。
ここで狼煙を上げればかなり広範囲に合図が伝わることとなる。そんな指令所の役目も想定されよう。

諸沢要害(常陸大宮市諸沢)
50stormさんが見つけてきた城である。
場所は常陸大宮市の旧山方町の北東、金砂山の東2kmの「諸沢」(もろざわ)地区である。
山方支所からは久慈川にかかる岩井橋を渡り、県道29号線を常陸太田方面に走行、西野内で県道294号線に入り3kmほど北上すると諸富野郵便局がある。
さらに北に「三太の湯」がある。


↑ 南から見た城址

この三太の湯の南西の山が城址であり、三太の湯が整備した遊歩道が延びるのでその道を行けばよい。
または諸富野郵便局の裏から山に向かう道があり、この道を車で行く方法もある。

この三太の湯の南西の山が城址であり、三太の湯が整備した遊歩道が延びるのでその道を行けばよい。
または諸富野郵便局の裏から山に向かう道があり、この道を車で行く方法もある。
この道、舗装されており、普通車でも問題なく走行できるし、所々に広い場所があり、駐車も可能である。
途中に墓地があり、山に入っていく道があるのでその道を進むと、遊歩道に合流する。
この遊歩道は西に行くと標高190m地点で鞍部となり、巨岩があり、二またに分かれる。
巨岩側の北に向かう道を行くと山頂まで導いてくれるのであるが、残念ながら整備された階段等はすでに朽ちており、道跡を行くことになる。

@遊歩道を行くと南東に延びる尾根に出る。
尾根上は平坦であり、巨岩がある。
A 山頂部の曲輪。吹きさらしで冬は寒い。 B北東に延びる尾根にある山頂直下の堀切

城のある山は標高が280m、郵便局付近からの比高は170mである。
城は山頂から北東及び南東にV字を描くように延びる尾根に遺構を展開する。
遊歩道はその南東に延びる尾根に出る。この場所は標高230m、尾根上に上がった場所は堀切跡かもしれない。
尾根上は平坦@であり、幅3mほど。すぐ東に巨岩がある。
門に使ったのかもしれない。
その東に曲輪が展開し、巨岩の東30mに7m×3mほどの曲輪がある。
驚くべきことに周囲は石で土留めしているのである。
さらに東に3段ほどの小曲輪Dがあり、食い違い虎口と思われる遺構がある。

一方、巨岩から西の山頂に向かうと山頂までは比高50m、その間に2mほどの幅しかない小曲輪が段々に積み重なる。
数えてみたら13〜15ほどあった。
山頂の曲輪Aは15m×10m、吹きさらしで風がきつい。
ここから西に下る尾根が見えるがこの方面は崖状であり、巨岩が崖となっている。
一方、北東に延びる尾根に200mにわたり遺構が展開する。
本郭付近は帯曲輪状に曲輪が存在し、西側が土塁となっている。
おそらく風避けのためのものだろう。堀切B、Cは3本確認できる。
尾根筋には巨岩がたくさんある。
北東端のピークの平場の標高は230m、山頂から50m低い。
この先を下って行けば三太の湯に出る。

C 北東の尾根、2つ目の堀切 D南西の尾根の曲輪から見上げた尾根部の曲輪。
この曲輪の周囲は石で土留されている。
E 南に突き出た小山上の平坦地。物見か?

一方、標高190m地点の鞍部で遊歩道が、二またに分かれるた場所の南側が南に突き出た小山状になっている。
ここにも遺構があるはずと思い向かう。
頂上部は鞍部より10mほど高い。
頂上部Eは30m×10mほどでピーナッツのような形をしている。
内部は平坦ではあるが、整備された感じではない。
南東側に数段の帯曲輪のようなものがあるが、切岸が新しく、これは植林に伴うものであろう。
この小山には物見などがあった可能性が想定される。

遺構は風が強く吹きさらしの山というということもあるが、かなり風化した感じである。
また、段郭主体で新規性は少ない。(山の周囲が急傾斜であり、地形に頼っているからかもしれないが。)場所からして金砂山城へのルート、諸沢道を抑える城であろう。
戦国時代末期には金砂山城自体登場しないので、城が機能していた可能性はない。
したがって、金砂山城が登場する場面で始めて機能したのであろう。
と言っても平安末期の頼朝による佐竹攻め、金砂合戦では存在していたのかは怪しいが、金砂山城は諸沢口から攻め込まれて落城しているので、この城が落とされ、または調略されて落城に至った可能性もある。
次は南北朝時代の瓜連合戦で佐竹氏が使った可能性がある。
そして最後は山入の乱であろうか。

油河内館(常陸大宮市油河内)
この城も50stormさんが見つけてきた城である。
常陸大宮市の旧緒川村西部栃木県茂木町に近い場所にある。
ところで「油河内」とても読めないであろう。「ゆごうと」と読むのである。
なんで「河内」が「ごうと」と読むのか分からないが、常陸太田、日立市にも「東河内」「西河内」という地名があり、「ごうと」と呼んでいる。


↑ 北側から見た城址。左下の岡に上がる道を行き、沢に入って行く。

場所は常陸大宮市小舟と常陸大宮市御前山を結ぶ県道39号沿いにある旧八里小学校前から県道164号に入ったところにある八里郵便局から見て南西の山である。
山には小舟川を渡る人が通るコンクリートの橋があり、南側の対岸にある果樹園奥の沢沿いの道を入っていく。
沢を入ってすぐに西側に虎口のように開いた場所があるので、沢を飛び越えて渡る。

沢を渡った場所は、2段平場のようになっており、ここも城の一部であったと思われる。
(しかし、この平場、北向きの場所で日当たりは最低、おまけにジメジメしているので居館ではないと思うが。)
この平坦地から北に突き出た部分があり、ここは櫓台のような感じである。
城のある山の標高は220m、郵便局付近からの比高は65mほどである。

この平場から北東の尾根を登って行くと、主郭部になるが、これが非常に変わった形をしている。
北西側の小舟川の低地に面した斜面、高さ15〜20mにかけて4段の犬走り状の帯曲輪が造られている。
幅は2m程度しかなく、柵列以外置くものはなく、小屋も置けそうにない。

@北東下の平坦地。ここも城域だろう。 A最下段の犬走り。幅は2mほどしかない。 B Aの南西端の土塁
C山頂直下の曲輪 D 山頂の曲輪 E 南端はこの堀切1本で山側と遮断している。

犬走りはこの北西側以外にはない。山頂の主郭は23m×10m程度の南側が柄の部分となるような「しゃもじ」形をしている。
そしてその南、山に続く尾根に深さ3m、幅5mほどの堀切がある。
しかし、背後は堀切これ1本のみである。

小舟川の低地部から見える部分のみに4段の犬走りが構築されるので、この方面に見せるためのものであり、威嚇・牽制用だろう。
背後が堀切1本のみというのも防御はそれほど考慮しているとは思えない。
この街道筋は長倉城方面に通じる。
長倉城と小舟城の間をつなぐ街道筋のつなぎの城、監視の城であろう。