国長八幡館(常陸大宮市(旧緒川村)大字国長)
国道123号線沿いの御前山中学校西の国長(くにおさ)、入口交差点を県道39号線に入り北上すると国長地区に阿弥陀堂がある。
阿弥陀堂の北に見える標高167mの山が城址である。
麓からの比高は100mほどある。


↑ 南下阿弥陀堂北から見た城址。山頂まで道などない!

ここは山間の過疎の地、年寄りしか歩いていない。
山は現地では「八幡館(はちまんだて)」と呼ばれているが、城とは認識されているが、それほど地元が強い愛着を抱いている感じはない。
ということは領主の城ではなく、陣城等、一時的なものということである。

事実、遺構も陣城レベルの臨時的な感じであった。
また、麓に「堀の内」「寄居」「館」とかの城に係る地名も存在しない。
当然というか、予想通りというか、城までの道はない。
地図を見れば山の西に山道が描かれている。
しかし、その道、ほとんど消えている。もう誰も歩かないのだろう。
こうなると、ひたすら藪を強行突破するのみである。
息が上がるころようやく主郭に到着。

@ここが山頂の主郭であるが・・・藪!! A東下の帯曲輪、鉄砲銃座のような場所がある。
B南側の帯曲輪、横堀かな? C北西の尾根に残る堀切

確かに平場になっているが、そこは一面の小竹の密集である。
中央部は若干高く、十分に削平されていない。主郭は長辺70m、底辺30mほどの二等辺三角形のような形である。
この城、主郭部はいい加減であるが、見どころは西以外を回る帯曲輪である。
主郭部が曖昧で周辺部がしっかりしている点では、旧緒川村の高館城や日立市の入四間館と共通である。

帯曲輪から主郭までの高さは7、8mほど。
一部は犬走りとなっているが、横堀または土塁付の曲輪である。
東側が突き出た感じになっており、銃撃陣地のような場所がある。

その5m下に堀切があり、緩やかに北東の尾根に続くが、小さな堀切が2つあるのみであり、ほとんど自然地形である。
一方、北側は5m下に土塁を持つ腰曲輪があり、その先はアップダウンした尾根が続くが自然地形である。
西北に派生する尾根に主郭から15m下に小曲輪と堀切があり、その先の尾根に続く。

以上のような簡素な作りであり、まともなのは帯曲輪部のみと言える。
←南の麓の民家付近の段々。館の切岸に見えるが・・関係ないらしい。

ここが使われたのは、陣城とすれば南西2.5qに位置する長倉城合戦の頃であろう。
なお、長倉城を巡る戦いは応永15年(1407)、永享7年(1435)、明応元年(1492)の3回あり、そのいずれかまたは複数回、ここが使われた可能性がある。
誰の軍がここに入ったのかは記録にない。
山頂部に木が多く、長倉城が見えることを確認してはいないが、大宮方面などが一望の下である。
この山より東から南東にかけてこの山より高い山はない。
ここで狼煙を上げればかなり広範囲に合図が伝わることとなる。そんな指令所の役目も想定されよう。

諸沢要害(常陸大宮市諸沢)
50stormさんが見つけてきた城である。
場所は常陸大宮市の旧山方町の北東、金砂山の東2kmの「諸沢」(もろざわ)地区である。
山方支所からは久慈川にかかる岩井橋を渡り、県道29号線を常陸太田方面に走行、西野内で県道294号線に入り3kmほど北上すると諸富野郵便局がある。
さらに北に「三太の湯」がある。


↑ 南から見た城址

この三太の湯の南西の山が城址であり、三太の湯が整備した遊歩道が延びるのでその道を行けばよい。
または諸富野郵便局の裏から山に向かう道があり、この道を車で行く方法もある。

この三太の湯の南西の山が城址であり、三太の湯が整備した遊歩道が延びるのでその道を行けばよい。
または諸富野郵便局の裏から山に向かう道があり、この道を車で行く方法もある。
この道、舗装されており、普通車でも問題なく走行できるし、所々に広い場所があり、駐車も可能である。
途中に墓地があり、山に入っていく道があるのでその道を進むと、遊歩道に合流する。
この遊歩道は西に行くと標高190m地点で鞍部となり、巨岩があり、二またに分かれる。
巨岩側の北に向かう道を行くと山頂まで導いてくれるのであるが、残念ながら整備された階段等はすでに朽ちており、道跡を行くことになる。

@遊歩道を行くと南東に延びる尾根に出る。
尾根上は平坦であり、巨岩がある。
A 山頂部の曲輪。吹きさらしで冬は寒い。 B北東に延びる尾根にある山頂直下の堀切

城のある山は標高が280m、郵便局付近からの比高は170mである。
城は山頂から北東及び南東にV字を描くように延びる尾根に遺構を展開する。
遊歩道はその南東に延びる尾根に出る。この場所は標高230m、尾根上に上がった場所は堀切跡かもしれない。
尾根上は平坦@であり、幅3mほど。すぐ東に巨岩がある。
門に使ったのかもしれない。
その東に曲輪が展開し、巨岩の東30mに7m×3mほどの曲輪がある。
驚くべきことに周囲は石で土留めしているのである。
さらに東に3段ほどの小曲輪Dがあり、食い違い虎口と思われる遺構がある。

一方、巨岩から西の山頂に向かうと山頂までは比高50m、その間に2mほどの幅しかない小曲輪が段々に積み重なる。
数えてみたら13〜15ほどあった。
山頂の曲輪Aは15m×10m、吹きさらしで風がきつい。
ここから西に下る尾根が見えるがこの方面は崖状であり、巨岩が崖となっている。
一方、北東に延びる尾根に200mにわたり遺構が展開する。
本郭付近は帯曲輪状に曲輪が存在し、西側が土塁となっている。
おそらく風避けのためのものだろう。堀切B、Cは3本確認できる。
尾根筋には巨岩がたくさんある。
北東端のピークの平場の標高は230m、山頂から50m低い。
この先を下って行けば三太の湯に出る。

C 北東の尾根、2つ目の堀切 D南西の尾根の曲輪から見上げた尾根部の曲輪。
この曲輪の周囲は石で土留されている。
E 南に突き出た小山上の平坦地。物見か?

一方、標高190m地点の鞍部で遊歩道が、二またに分かれるた場所の南側が南に突き出た小山状になっている。
ここにも遺構があるはずと思い向かう。
頂上部は鞍部より10mほど高い。
頂上部Eは30m×10mほどでピーナッツのような形をしている。
内部は平坦ではあるが、整備された感じではない。
南東側に数段の帯曲輪のようなものがあるが、切岸が新しく、これは植林に伴うものであろう。
この小山には物見などがあった可能性が想定される。

遺構は風が強く吹きさらしの山というということもあるが、かなり風化した感じである。
また、段郭主体で新規性は少ない。(山の周囲が急傾斜であり、地形に頼っているからかもしれないが。)場所からして金砂山城へのルート、諸沢道を抑える城であろう。
戦国時代末期には金砂山城自体登場しないので、城が機能していた可能性はない。
したがって、金砂山城が登場する場面で始めて機能したのであろう。
と言っても平安末期の頼朝による佐竹攻め、金砂合戦では存在していたのかは怪しいが、金砂山城は諸沢口から攻め込まれて落城しているので、この城が落とされ、または調略されて落城に至った可能性もある。
次は南北朝時代の瓜連合戦で佐竹氏が使った可能性がある。
そして最後は山入の乱であろうか。

油河内館(常陸大宮市油河内)
この城も50stormさんが見つけてきた城である。
常陸大宮市の旧緒川村西部栃木県茂木町に近い場所にある。
ところで「油河内」とても読めないであろう。「ゆごうと」と読むのである。
なんで「河内」が「ごうと」と読むのか分からないが、常陸太田、日立市にも「東河内」「西河内」という地名があり、「ごうと」と呼んでいる。


↑ 北側から見た城址。左下の岡に上がる道を行き、沢に入って行く。

場所は常陸大宮市小舟と常陸大宮市御前山を結ぶ県道39号沿いにある旧八里小学校前から県道164号に入ったところにある八里郵便局から見て南西の山である。
山には小舟川を渡る人が通るコンクリートの橋があり、南側の対岸にある果樹園奥の沢沿いの道を入っていく。
沢を入ってすぐに西側に虎口のように開いた場所があるので、沢を飛び越えて渡る。

沢を渡った場所は、2段平場のようになっており、ここも城の一部であったと思われる。
(しかし、この平場、北向きの場所で日当たりは最低、おまけにジメジメしているので居館ではないと思うが。)
この平坦地から北に突き出た部分があり、ここは櫓台のような感じである。
城のある山の標高は220m、郵便局付近からの比高は65mほどである。

この平場から北東の尾根を登って行くと、主郭部になるが、これが非常に変わった形をしている。
北西側の小舟川の低地に面した斜面、高さ15〜20mにかけて4段の犬走り状の帯曲輪が造られている。
幅は2m程度しかなく、柵列以外置くものはなく、小屋も置けそうにない。

@北東下の平坦地。ここも城域だろう。 A最下段の犬走り。幅は2mほどしかない。 B Aの南西端の土塁
C山頂直下の曲輪 D 山頂の曲輪 E 南端はこの堀切1本で山側と遮断している。

犬走りはこの北西側以外にはない。山頂の主郭は23m×10m程度の南側が柄の部分となるような「しゃもじ」形をしている。
そしてその南、山に続く尾根に深さ3m、幅5mほどの堀切がある。
しかし、背後は堀切これ1本のみである。

小舟川の低地部から見える部分のみに4段の犬走りが構築されるので、この方面に見せるためのものであり、威嚇・牽制用だろう。
背後が堀切1本のみというのも防御はそれほど考慮しているとは思えない。
この街道筋は長倉城方面に通じる。
長倉城と小舟城の間をつなぐ街道筋のつなぎの城、監視の城であろう。