小幡城(茨城町小幡)

1 位置と歴史
 茨城町小幡にある。
ここは涸沼水系の寛政川南岸沿いの緩やかな丘陵が広がった場所であり、寛政川の緩やかな谷をはさんで対岸の香取神社がある。
やや西に茨城東高校が望まれる。城は比高10m程度の丘の先端部に位置し、北、東、南の三方は水田に囲まれ、西のみが丘陵につながる。
 おそらく城が機能していた時代には三方が自然の水堀に相当する湿地帯の中に突き出た半島の先端部に築かれた城という感じであったと思われる。 

城が築かれた時期としては2説あり、1説は室町時代1420年頃、大掾詮幹の三男義幹という説と鎌倉時代に小田知重の三男光重という説があり、両説間では100年近い時間差がある。

 
この城は府中の大掾氏と水戸の江戸氏の勢力範囲が接する境目の城であり、長期にわたる争奪戦の対象になっている。
 当初は大掾氏に従属する土着領主の小幡氏が城主であったが、江戸氏の勢力拡大にともない小幡氏は文明年間(1481)には江戸氏に服従するようになった。

その後、小幡城は小幡氏とともに大掾氏に復帰したが、天文元年(1532)南進を狙う江戸忠通に城主の小幡義清が謀殺され、再度、江戸氏の支配下に入った。

しかし、天正13年(1585)には城主小幡対馬守は大掾方に寝返り、江戸氏、大掾氏の争いにより小幡城の帰属は二転三転した。
 天下の動きはこのような小大名同士の局地的な争いから北条対佐竹の関東全体規模にさらに北条対豊臣の対決である小田原の役という日本全体の規模で動く時代に突入しており、天下の趨勢を読みきれなかった江戸氏、大掾氏そして小幡氏も、結局、佐竹氏に漁夫の利を占められるように滅ぼされた。

その中で小幡城も落城したが、おそらくは戦闘で落城したののではなく、佐竹氏の攻撃の勢いの中で自落したような形で落城というよりか放棄されてしまったものと思われる。

結局、小幡城はこの時に既に戦略的価値を失い廃城にされたか、佐竹氏のものになったが、その10年ほどのちの佐竹氏の秋田移封にともない廃城となったと思われる。

 最後の城主は小幡孫次郎と伝えられるが、彼は佐竹氏の大掾氏攻撃により美野里方面で戦死したといわれる。
 佐竹氏が小幡城に直接攻撃を加えたことはなかったようである。

 小幡城は以下に示すように常陸の国内では最も戦闘的な特異な城郭である。
 これは江戸氏と大掾氏の境目に位置し、緊張感の強い土地であったためか、その後、支配した佐竹氏が水戸城防御のために完成させたかのいずれかによる。
 しかし、謀略、策略で江戸氏と大掾氏の間で支配権が何度も変わったことはあったが、この城で戦闘が行われたことはほとんどなかったようである。


 右の写真は、東側の低地側から見た城址である。
 ちょうど5月の田植え前の時期に撮影したため、田には水が張ってある。
おそらく当時も3方を湿地に囲まれた写真のような情景であったと思われる。

 2 城の構造

 小幡城は中世の城郭としては珍しい位に深い森の中で完全に当時の姿を留めている奇跡的な城である。
 7つある郭のうち、耕地化してしまった七郭以外はほぼ完全な姿である。
しかも県内に多く見られる四角形の郭を並べる連郭式ではなく、全く類例のないような作りである。

城域は約12ha程度であり、今残されている遺構は天正末期1590年ころの姿といわれる。(その後かもしれない。)
 城は平城に近い丘城であり、直径250m、高さ10m程度の円形の丘に塹壕のような迷路状の深い堀をつくり、その土で土塁を盛り上げている。

一般に堀は防御用のものであるが、この城は堀に城内通路としての機能も与えている。
そればかりでなく敵を引き込んで殲滅する役目も与えている。城域に入るとまるで巨大な土の迷路であり、どこに行きつくか検討がつかなくなる。
おまけに堀底は土塁上から横矢が掛けれるように右に左に蛇行しており、方向感覚を狂わせられる。
堀は曲がりくねっているため、四方に見えるのは土塁の壁のみである。
土塁の高さは堀を掘った土を積み上げているため、7m程度はあり、勾配も急であるため重武装の兵士ではとても這い上がれるものではない。

土塁上からは見下ろす堀底に死角はなく、土塁上のどこからも攻撃が可能である。


通常の城は土塁と堀際で敵を防御するように構築されているが、この城はわざと敵を城内に引き込んで殲滅するという蟻地獄のような設計でできている。

 築城場所である直径250m、高さ10m程度の円形の丘に連郭式の城を築いた場合、それほど堅固な城は築けないであろう。
 緊張感を孕んだ場所だったからこそ、いかに少ない兵力で敵を防護するかあるいは堅固さを感じさせることで敵を威圧して攻撃をさせないかという知恵がこのような特異な形の城を生んだのではないだろうか。
@城への入り口。六郭の北東側にあたる。 A六郭南の堀底。 B五郭と六郭をつなぐ土橋。

この城の主郭には6つの郭があるが、本丸に相当する郭がどこかについては本郭という説と二郭という説の2つがあるとのことであるが、やはり多くの郭に囲まれている本郭が本丸に相当する郭と考えるのが妥当に思える。

 当初は3つ程度の郭を持つ城であったと思われるが、紛争の激化により元亀から天正末期にかけて拡張されていったのではないかと言われている。
しかし,主にこの城を支配した江戸氏にこのような技巧的な縄張りの城が築く能力があったのか疑問視する見方もある。
 とすれば江戸氏を滅ぼした後に佐竹氏が水戸城の南方防御の拠点に拡張整備したものかもしれない。
 佐竹氏ならこのような城を築く能力は十分にある。何となく戸村城の郭配置に似ている気がするが?

C五郭南の堀。 D五郭(手前)と四郭を結ぶ土橋。 E本郭(左)と五郭間の堀底。

南側の四郭は比較的貧弱であり、簡単に突破されるように感じるが、もしかしたら南側に湿地帯は他方面よりも深く、広くより要害性が高かったのかもしれない。
 各郭は周囲は全て敵を引き込む堀であり、周囲に土塁を有し、その上から敵を攻撃することが可能である。
しかも攻撃が激しい地点に郭内を通って素早く兵を移動させることができるように工夫されている。
 特異なものは変形武者走りを持つ土塁である。
この土塁上には溝というか塹壕があり、攻撃を防ぎながら塹壕で兵を移動させることが可能な構造を持つ。
郭間を結ぶ土橋も見事に残っている。

F櫓台跡。 G四郭内部。 H本郭内部。周囲は高さ3mの土塁に囲まれる。

 三郭は小さく、はたして郭と呼べるほどの規模ではない。
 馬出し程度のものではないかと思う。

小幡城単独の動員兵力はせいぜい数百程度であろうが、城はこの兵力で守備できる規模よりはるかに大きい。
 最前線の城であるため戦闘時には多くの軍勢がこの城に集合し、ここを拠点に出撃したものであろう。

 また、当時の城は住民の避難場所でもあり、領主は住民保護の義務を負っていたはずである。
 したがって、この城の場合も非常時は近隣の百姓の避難場所でもあり、戦闘時には百姓も武装し戦闘能力の一翼を担ったと思われる。

I四郭東端。 J大手門跡

 郭間の連絡は一部には土橋が残っておりそれで行われていたと推定されるが、郭間の土塁間に木橋がかかっていたのではないかと考える。
 城の周囲三方向は現在では水田であるが、当時は沼地あるいは湿地帯であった。

 西方向のみが平坦地であり西方向の防御を特に考慮している。
 この点を考慮すれば一番奥に位置する二郭が本郭であるという説も説得力を持つ。
 七郭は完全な平坦地であり、城主は普段はこの場に居住し、領内支配のための政庁もこの地にあったと思われる。