部垂城(常陸大宮市大宮)
 常陸大宮市町の中心部、大宮小学校の地が本城の本郭に当たる。
 戦国時代常陸国の代表的な騒乱で名高い「部垂の乱」の中心舞台であるが、城域は完全に市街化し、遺構はほとんど確認できない。

 常陸太田城同様、幻の城であるとずっと思っていた。
ところが遺構は若干ではあるが、寺院敷地内や台地縁部にちゃんと残存していた。
 城の形式は平山城であり、久慈川の低地を北に望む大宮台地の辺縁部に築かれている。

 城の東側は富岡橋に至る緩斜面であるが、南側、西側は台地平坦部に続く。北側のみが崖面である。
 城の構造は必ずしも明確ではないが、大宮小学校の入口にある説明板の図のみが城の構造を知る唯一の手がかりである。
この図はなんとなく近世的な城郭に描かれている気もするが、この図によると台地辺部に本郭を置き、その全面の平坦地を郭で囲む梯郭式の城郭であったと思われる。
 この地方の平山城はほとんどが連郭式であるが、梯郭式に近い形式の城郭としては小場城、額田城がある。

 連郭式城郭は城郭の2方向あるいは3方向が崖面である場合に見られるが、1方向が崖面の場合は梯郭式が防御上妥当である。
 この点から本城が梯郭式であることはリーゾナブルである。 
 
 

本城の築城は鎌倉時代、承久の乱(1221)後、水戸城主大掾資幹の子孫河野頼幹によると言われ、その後、部垂氏を称し五代200年間居城した。
 応永33年(1426)江戸氏による水戸大掾氏討伐で部垂氏も滅亡し、佐竹氏の家臣大塚豊前守が、そして小貫頼定が城主となった。

 本城が騒乱に巻き込まれるのは、佐竹氏16代義舜の第2子義元が、南隣の宇留野城の宇留野氏の養子となり、亨禄2年(1529)小貫氏より部垂城を奪った後である。
 義元は部垂城に入り、城を整備するが、部垂城の拡張に脅威を抱いた佐竹本家義篤の攻撃を受けて義元は滅ぼされた。
 これを「部垂の乱」というがその経緯は複雑であり、実情は良く分からないところが多い。

 しかし、義元の部下は罰せられず小場氏配下の部垂衆として佐竹の軍事力に組み入れられた。
 部垂城は落城時点で廃城になったという説もあるが、戦国末期に特徴的な馬出郭が見られることから城は存続し、城代が置かれていたものと思われる。
 義元は部下の部垂衆には慕われていたと言われ、秋田大館に移った部垂衆はその地に義元を祭った部垂神社を建立している。
 (義元の祟りを治めるためという説もある。)
 このことから、義元の武将としての能力は高かく、人望もあったらしく、これを本家側は脅威に感じ、妬んだのが乱の真相ではなかったかとも言われる。

松吟寺境内に残る土塁と堀跡。 西方寺境内に残る土塁。 大宮小学校裏手の腰曲輪の土塁。 西方寺裏の虎口跡。墓地は腰曲輪跡。

 部垂城の性格であるが、要害性を考えれば甲神社から富岡橋にかけての地区の方が適している。
 あえてそれより西側に築城したのは、この方面の地勢が低くなっており、久慈川の水運、砂金採取等の経済面の理由により宿場的な城下を形成する目的によると思われる。
 水運管理は北700mの低地にある高渡館が部垂城付属の専用港となっていたらしい。

 この地は地理的に久慈川の渓谷が途切れ平地になる場所に位置し、山方、御前山、太田、緒川、水戸方面に街道が延びる交通の要衝でもある。
 流通経済上、この地に街ができるのは自然であり、現在でも大宮は山方、緒川、御前山経済圏の中心として商業が発達している。

 甲神社の存在も城下町形成に1役かっていたものと思われる。
 復元想像図では、馬出が南側に見られるように描いている。
 ただし、馬出は小田城、前小屋城でも見られるが戦国末期に流行するため、後付けで築かれた部分と思われる。

  城郭の大きさは推定で東西400m、南北300m程度とそれほど大きいものではなく、城下町は城外に形成されていたと思われる。

小場城(常陸大宮市小場)
常陸大宮市の南西端の那珂川に面する台地上にあり、南北を侵食谷に囲まれ、三方が崖という絶好の要衝の地に築かれている平山城。
ここからは那珂川を隔てて西方に石塚城、大山城が見える。

 城が築かれたのは鎌倉時代、佐竹四代秀義の子南酒出義茂の子義久の館がこの地に築かれたといわれる。
その後、南北朝時代 貞和4年(1348)佐竹十代義篤が庶子義躬に初代小場氏を名乗らせてこの地に築城したとの記録される。
おそらく本拠地常陸太田城西の守りの要として及び西方への進出拠点として館を拡張して築城したと考えられる。

小場氏はその後、山入の乱で佐竹宗家を支持して活躍し、2代義忠の時には孫根城の佐竹義舜を攻撃する山入氏の別働部隊に包囲され小場城からの援軍を阻止されることがあった。
4代義実の時、部垂の乱に偶発的に巻き込まれるなどしたが、その後も佐竹氏の重臣としての地位には変わりなく慶長5年(1600)小場氏は佐竹氏の知行替えにより小田城へ、代わりの大山氏が入るが佐竹氏の秋田転封により廃城となる。

 大山氏と争い勢力を衰退させたため小田城に移されたという話も伝わっているがこれは事実に反すると言われている。
 ただし、同じく佐竹氏を盟主に仰いでいる重臣とはいえ小場氏、大山氏とも独立性が強く、領土、那珂川の漁業権、水運を巡っての対立はあったと考えられる。

 水田部からの比高20m程度の西に延びる半島状の台地に築かれ、北、西、南は急斜面であり、東方面のみが平坦である。
 郭は5つ程度は存在していたと思われる。
佐竹系の平山城に多くみられる連郭式ではなく、本郭にあたる「本城」がが中央よりにある梯郭式である。

 これは台地が西に向かって緩斜面となっているため、連郭式を採用しようとすれば本郭が最西端に位置し、二郭である「城内」から見下ろされる低い位置になるからである。

 このため、台地の中央やや西に本郭を築き、平坦な東側に何重かの堀切りを設けた構造としている。
 東側には城と関係のある城内、根古屋、北小屋、宿などの地名がいくつか見られ、城域はかなり東側まで及んでいる。

現在は宅地化が進んでおり、本城(本郭)の北と西の土塁と堀のみが良く残っているにすぎないが、櫓台と考えられる高まりも見られる。

 堀は半分埋められてしまったとのことであるが、現在でも深さ10m以上、幅20mはある見事なものである。
ここ以外の土塁等はほとんど失われているが切通や平坦部の地形等から郭の存在が十分伺える。
 なお、北、西、南の急斜面にも前小屋城や宇留野城と似た構造の帯曲輪が取り巻いていたようである。


西城は民家があり、段差だけであるが、土塁などが存在したような感じはない。
もともと、今と変わらない感じだったような気がする。

今の形から推定すると、小場氏の居館が本城にあり、その周囲に家臣の屋敷を配置した小場氏家臣団団地のようなものだったように思える。
これも総構の一種だろう。
@ 本城北側の深い堀 A 本城西側の堀と土橋 B 本城東の堀跡
C 本城南の堀 D 本城北東部はただの宅地と畑、遺構はない。 E 城内東の堀跡