額田城(那珂市額田)

1 位置と歴史
 額田城は久慈川南岸の那珂台地が侵食され、谷地が入り込んだ状態に形成された額田台地の南側縁辺部に築城された連郭式平山城である。
南側には有ヶ池が自然の水堀として存在していた。

この地に築城したのは佐竹義重の子義直で、建長年間(1249〜55)とのことである。

 ただし、当初の本郭の有った地は現在の場所ではなく阿弥陀寺の場所といわれている。または麟勝院がある小堤館の地ともいう。

 その後、義直は額田氏を名乗り、佐竹本家を助け南北朝の騒乱を乗り切った。
 しかし、山入の乱で当主額田義亮は山入一揆に加わり、応永30年(1423)佐竹義憲の攻撃を受け、額田城は落城、佐竹系額田氏は滅亡した。

 その後、佐竹義憲の命で石神小野崎氏と同族の小野崎通重が額田城主となったが、通重に子がなく、江戸通房の子通栄を養子に迎えた。
 額田小野崎氏は独立性が強く、山入の乱に乗じて佐竹領を押領したりした。
 山入の乱終息後は佐竹氏に従属するが、独立志向が強く、石神小野崎氏や江戸氏と対立する。
 天正16年(1589)には江戸氏の内乱である神生の乱で江戸氏とそれを後援する佐竹氏と戦闘状態になったが、額田城の堅固性をバックに額田小野崎氏は屈せず、和議に持ち込んでいる。
 そのころ奥州の伊達氏にも通じていたという。

 佐竹氏にとってはこのような独立性が強く、反抗的な土着大領主が本拠地常陸太田のすぐ南、堅固な額田城を居城に存在することはのどに刺さった棘のようなものであった。
 しかし、当時は北条氏や伊達氏との抗争に忙殺され成敗する余裕はなかった。

 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに額田城主小野崎照通も佐竹義宣とともに参陣しているが、その後、認められた佐竹氏の常陸国の支配権確立の中で、しばしば反抗した額田小野崎氏に遂に攻撃が向けられた。
 これは既に北条氏は滅び、奥州伊達氏の影響力も考慮する必要がなくなったことも要因の一つである。
 小野崎照通は門部で佐竹氏に野戦を挑んだが敗退し、退却中に佐竹勢が城内防御を突破したため落城した。
 小野崎照通は伊達氏を頼って落ち延びここに額田小野崎氏は滅亡した。
 城はその後、再興されたと思われるが、10年ほど後、佐竹氏の秋田移封にともない廃城となった。

2 .城の構造

茨城県内に残る中世の巨大城郭である。
常陸太田城や下妻城もかなりの規模はあったと思われるが、現在、その規模が明瞭に判るのは額田城や真壁城程度である。

 茨城県北部においては本城が唯一である。
本郭、二郭、三郭(多くの文献では丸という語を用いているが、「丸」は中世城郭では用いない。)の主郭部分は600×500mと大きい。
さらに、町全体を2重、3重の土塁と堀が取り囲んでいる総構え構造である。

残念ながら本郭と二郭以外の部分は宅地化が進み、かなりの部分が破壊されてしまっているが、それでも所々に土塁と堀が残存しており、額田城の巨大さが伺える。

 城域は南北に825m、東西に1170mという広大さである。
(出城と考えられる鱗勝院の土塁まで含めると東西は1350mという規模になる。)
これほどの規模の城であるが貴重な文化財としての保護策はほとんど講じられていない。
 空堀は粗大ゴミ捨て場となり、駐車場もなく、本丸に行く道でさえ満足にないという有様であり、遠くから来た者が本丸まで行き着くには大変苦労する。

 とはいえ農耕車でさえ入れない場所であったから本丸が完全に保存されていたとも言える。
 このような状態であるから城の規模、価値はそれほど世には名は知られていない。

 何しろ小田城、真壁城、小幡城、木原城はほとんどの地図に城跡記号が付いているのに「額田城」を示す記号が付いている地図は果たして有るかという有様である。
主郭部分は有ヶ池を南に、谷津を西にして南北に3つの郭が並ぶ形となっており、防備上の弱点といえる北側に厚い郭配置を取る。

 東側も平坦であり、防御上の弱点をカバーするため二郭の東に堀と土塁を持つ2つの郭を設け、低地を挟んでその東の丘に搦手門を置いている。
 本郭はほぼ150m四方の大きさがあり、5角形に近い形をしている。
 周囲全体に深く幅のある堀ABEGが設けられており、二郭間の堀幅は20m、深さ9m程度はある。
 これほどの規模の堀は近隣の城では見られない見事なものである。
 また本郭から見下ろす堀の勾配は急であり、とてもよじ登れるものではない。

 二郭側の堀は蛇行して続き、本郭から横矢がかけられる構造となっている。
 堀底からは水が湧いており、一部の場所は水が溜まり水堀状態になっている。
土塁は二郭側に高さ2m程度のものが存在し、一段と高くなった櫓台と考えられる個所が3ヶ所ほど存在する。
 特に北東端のものは天守台と言われる。

当時の当地方の城には天守閣はなかったはずであるが、柱を組んだ高い物見櫓のような建造物が建っていたものと思われる。
二郭側以外の堀の外には本郭を抱き込むような形で非常に大規模な外郭土塁@Aが存在する。
 この構造は石神城と本城のみに見られる特徴のあるものである。
(常陸太田城にも存在していた可能性がある。)


本郭内はほぼ平坦であるが若干南側が低く、このため本郭中央部に段差状の土塁が見られる。
 二郭Hは本郭の北側から東側にかけて東西300m、南北最大150m程度の規模で存在する。
 土塁は東側と北の三郭側に存在する。

 最北東端には櫓台跡がある。郭内は3段に分かれていて若干、西側が高い。
本郭を取り巻く外郭土塁は本来は全てつながっていたと思われ、外郭土塁の防御は二郭と一体で行われていたと考えられる。
本郭の東側と二郭の南側は緩斜面、テラス状となっている。
 この下に船付場があり、この場所は物資の城内への搬入口であったと思われる。
 ここを防御するため、二郭から張出すように腰曲輪が付けられ、敵侵入時には外郭土塁と腰曲輪から挟みうちができるようになっている。


本郭と二郭間に木橋がかかっていた痕跡はなく、連絡は堀底から上がる道によって行っていたらしい。
(現在、本郭に行く道か?)
 三郭との連絡は北側の斜めにかけられた土橋Iによる。
また、東側との連絡は土橋が腰曲輪の東側に存在する。
 三郭は宅地化が進み破壊が目立っているが、東西350m、南北最大250m程度の平坦地であり、全周に堀Jを巡らし、二郭のある南側を除いた三方向は土塁を有している。


ここまでが額田城の主郭部であるが、全体の城域はこの主郭部の5倍程度の面積を有する。
 主郭の西側には谷津を挟んで阿弥陀寺のある郭があり、ここにも大規模な堀と土塁L、Mが存在する。
谷津側には腰曲輪Nがある。
 この地は当初の額田城本郭であると言われており、以後の額田城の防御にもこの場所を利用し、郭を設けている。
 その外(西側)にもさらに郭がある。
 三郭の北側にも堀と土塁を有する郭があり、最北端は額田小学校の北側となる。
@本郭と阿弥陀寺曲輪間の谷津から見た大土塁と本郭。 A本郭西下の堀と大土塁 B本郭北西の堀底。
C本郭天守台下の堀底。水が湧いている。 D本郭北側の土塁と堀。深さ10m程度あり、水堀状。 E本郭南側の堀。
F本郭南にある月見台曲輪 G本郭東の堀には水が湧いている。 H二郭内は花畑となっている。隅に土塁台がある。
I二郭と三郭をつなぐ土端 J三郭北の堀 K三郭法制端の櫓台と堀
L阿弥陀寺曲輪中央部の土塁と堀

M阿弥陀寺曲輪北西の土塁と堀

N阿弥陀寺曲輪東の谷津に面した腰曲輪
O引接寺に残る土塁と堀 P外郭最北西端(上の町)に残る土塁と堀 Q柄目に残る土塁

二郭の東側にも3つの郭が存在し、搦手門は二郭の東端より500mの位置である。
 ここの地名は柄目といい、ごくわずかであるが土塁Qと堀が残るが、湮滅直前状態である。

 主郭以外の土塁、堀で囲まれた郭の数は合計で10存在し、現在でも一部に土塁、堀が歴然と残る。
西端の引接寺西側Oと北西端Pにも土塁と堀が残存する。

 主郭以外の郭には家臣や職人等の住居が存在していたと思われ、街全体がこの中にすっぽり入る城郭都市であった。

 また、戦国領主は非常時には領民を保護することが年貢と引き換えの義務として負っており、これらの郭は非常時には領民を城内に避難させる場でもあった。
これだけの外郭面積があるということは逆に額田小野崎氏が保護すべき領民が多いということを意味する。
 
石神城、戸村城も総構えを持つがこれぼどの広さはない。
この広さが佐竹に反抗的態度と取りつづけていた背景にある額田小野崎氏の勢力を物語っているとも考えられる。

額田城再訪
2013年4月13日、余湖さんと50stromさんと南酒出城に行ったついでに立ち寄った。多分、8年振りかな?
以前は藪だらけで整備がそれほど進んでいなかったが、2010年ころから整備事業が始まり、本郭部周辺を中心として藪が切り払われ、余分な木が伐採され、藪の中から雄大な遺構が姿を現した。
伐採した木はチップにされ、それを敷いた遊歩道が整備され、誰でも城内を快適に歩けるようになっている。

藪状態の時と比べて藪がなくなった遺構は別もののようであり、本郭周囲の堀がこんなに凄いものだったのか改めて認識した。
この城の大きな問題は駐車場がなかったことであるが、西側の阿弥陀寺の駐車場から遊歩道が整備され、阿弥陀寺曲輪と本郭間の谷津部を横断して本郭に行けるようになっている。
この谷津部はかつてはとても入ることはできないような場所であったが、菖蒲園が造られている。
それとともに本郭西下の大土塁の藪がなくなり、堀と土塁が姿を現した。藪の時とはまったく違った風景である。
堀の底からは湧水があり、水堀状態になっていた。

かつてはここはマムシが生息しており、とても入れるような場所ではなかった。
また、本郭の南側の月見台と言われる曲輪にも本郭から降りる道ができていた。
(一部の遺構は破壊されていたが、まあ、許容できるレベルであろう。)
二郭はかつてサツマイモ畑であったが、花壇などが整備されていた。

また、三郭の北にも駐車場が整備され、そこからも三郭北の堀を越えて城内に入れるようになり、藪状態であった土塁と堀がきれいに整備されていた。
この広大な城の全域整備はとても無理であろうが、これだけでもこの城の凄さが十分に認識できる。
さらに阿弥陀寺曲輪の土塁なども木が刈られてきれいになっていた。

ただし、かつて、堀をゴミ捨て場に使っていたこともあり、芋などの野菜廃棄物は自然に帰ったようであるが、洗濯機などの家電製品の残骸がまだ残っている状態である。
しかしながら、遺構の破壊は多少は進んでいる部分もあり、外郭部の堀、土塁で消失してしまった部分も見受けられた。

以前の写真 2003年撮影(上のO、Pも2003年撮影、下の写真における○付番号は上の写真と同じ位置を撮影したことを示す。)

C本郭北東端にある天守台。櫓があったと思われる。 E本郭南の堀 本郭南側。土塁はない。
G本郭天守台下の堀底。水が湧いている。 B本郭北側の堀。深さ10m程度あり、水堀状。 B本郭北側の堀。横矢掛けのため屈折している。
二郭南の腰曲輪 本郭北側の土塁 H二郭東。畑となっている。
二郭南東端の土塁 搦手方面の土塁 L阿弥陀寺北に残る土塁と堀