仲の房東館(那珂市菅谷仲の坊東)
地天館の西側200mの至近距離にある。(いや、2016年1月時点では「あった。」)
100m×130m程度の2重の堀に囲まれた方形の館。
南西側の一角は失われているが、残りの部分は竹林と杉林に覆われ、周囲が急激に宅地化した割には奇跡的に遺構は良く残っている。
しかし、南東側の竹林の倒竹の凄まじさはない。
堀も結構、立派であり、幅は5mほどはある。
かなり埋没しているようであるが、当時はかなり立派なものであったと推定される。
佐竹氏の家臣である軍司氏が館を構えたと伝えられる。
ただし、この地区はすぐ南東に寄居城があるなど、江戸氏の勢力範囲であり、北に額田小野崎氏もいるなど、軍司氏が佐竹氏直属であったのかは疑問が持たれている。
おそらく、江戸氏家臣であり、江戸氏滅亡後、佐竹氏に従ったのではないかと思われる。
佐竹氏が秋田に去った後、軍司氏はこの地で帰農し、現在、館の西側に軍司氏の氏神、稲荷神社があり、子孫が今でも大切にしている。
@の位置の堀 | Aの位置の堀 | Bの位置の堀 | C稲荷神社 |
以上の記事の写真は2007年2月25日の撮影
茨城県那珂市は市の大部分が那珂台地にかかっている。 この台地の北と南には久慈川と那珂川が流れ、その周囲の低地は大穀倉地帯である。 そしてその低地に面した部分には縄文時代からの古代遺跡が立地し、額田城、南酒出城、瓜連城などの大型城郭が久慈川沿いに、戸村城などが那珂川沿いに立地する。 しかし、台地内部になると古代遺跡も少なくなる。 大型の城郭は寄居城程度。 平城しか築城できないので、岡の縁に立地する平山城に比べると防衛上不利であり、コストパフォーマンスが悪いことにもよるのであろう。 その代わり、中小の方形館が多くみられる。 これらは灌漑用のため池を管理して台地内部の開拓を行った武家の居館であり、菅谷地区は水戸の江戸氏家臣の館が多いという。 しかし、これらの館の多くは宅地化や耕作の大波の前に湮滅してしまったものが多い。 その仲の房東館、2007年時点では周囲に住宅地が迫り、この館に部分だけが鬱蒼とした竹藪状態であった。 いずれ、この竹藪は消滅し、住宅地になるものと思われた。 そして、ついにその時が近づいてきたようである。 竹の伐採が行われ、これから抜根が行われるのではないかと思われる。 伐採により、藪の中にあった館の土塁や堀が姿を現した。 完全な姿を大衆に見せるのは、最初にして最後であろう。 この機会に掲載して、追悼の意を。 |
2013年5月7日撮影。
D二重目西側の堀、かなり湮滅している。 | E 一重目西側の堀、Bの写真と同じ場所 | F一重目東側の堀 |
G一重目北側の土塁上 | H東に延びる堀。Aと同じ場所 | I 東側の堀、@と同じ場所 |
2013年夏、発掘調査が始まった。
↓の写真はFの部分を北側から写したものである。
この調査が終了後、この館は破壊された。
その後、住宅地となり、永遠にその姿を消すことになるのであろう。
右の写真はgoogle mapの航空写真に写る発掘前の藪を切り払った状態。堀、土塁の位置がよく分かる。
中宿東館(菅谷中宿東)
(この館はすでに湮滅し、存在しません。館跡は宅地になっています。)
館主の名を採り「高野氏館」ともいう。
館の東と南は現在は住宅が建ち並んでいるが、かつては東側と南側は、水田が広がっており、その低地に面する西から延びる微高地上にあった。
西200mのところには太田街道(旧国道349号)が通り、場所は市総合保健福祉センター「ひだまり」の東、市立図書館の100mほど南である。
館は東西63m、南北71mの長方形の単郭であり、堀と土塁に囲まれ、山林の中にひっそり逼塞している感じであった。
周囲は宅地化が進み、住宅地の中にポツンと林となった館祉が存在する。
戦国末期に廃館となったが、畑にもならず。山林状態のまま遺構がフリーズされ、現在に至った幸運な館であった。
館の遺構はかなりの残存率で残っているが、林の内部は藪であり、入ることは非常に困難。
下の写真は、発掘調査前の写真であるが、館内部で撮影した写真は、どれも藪しか写っていなく、とても掲載できるものではなかった。
それほどの「ド藪」であった。(2000年1月5日撮影)
それでも、方形の館だけあり、土塁と堀は一直線に延びていることは確認できた。。
堀は1.5m位に埋まっており、土塁も1〜1.5mほどの高さに過ぎなかった。
土塁は館の入口である南側の一角を除いて、全周している。
この南の一部分だけ堀と土塁が途切れているので入り口は、ここ1箇所だけであった。
発掘調査前、館南側の土塁。 | 発掘調査前、東側の道路から館内を見る。 土塁が奥に見える。 |
館主は高野丹後守と言われている。
高野氏は八田氏の出であり、鎌倉時代、菅谷に土着した一族と伝えられ、江戸に属していた。
高野氏もこの周辺の館主同様、付近の水田開発に係わった武装開拓者であったのであろう。
この付近には溜池が見られないが、かつては存在していたのかもしれない。
江戸氏が没落すると、高野氏は帰農し、現在も子孫が菅谷に居住し、高野姓も多い。
この館の地主も高野氏であり、先祖伝来のこの館を守っていた。
しかし、時代の波に逆らえず、周囲の宅地化でこの館も破壊され、宅地として分譲されることになった。
このため、那珂市が発掘調査を行い、記録保存されることになった。
そして、2006年11月26日に那珂市により現地説明会が行われた。
発掘では館を取り巻く掘割と土塁が完全な形で見つかった。
土塁も堀底から2m程度の高さであり、たいしたものではないという印象であったが、発掘された堀を見るとかなり埋没しており、土塁もかなり崩れていたことが分かった。
土塁上から堀底までは4m以上の深さがあり、勾配も急であったようである。
この勾配であれば堀に落ちたらとても登れるものではない。
発掘後、堀には水が湧き、400年振りに当時と同じ水堀が復活していた。
この程度の深さで水が湧くのであるから、地下水位はかなり高いようである。
もしかしたらこの堀自体が溜池ではなかったか。
館北端から見た発掘後の館全景。 | 東側の堀跡。右側の館内の土塁は 発掘でほとんど削られている。 |
土橋ではない。発掘前の堀底である。 いかに埋没していたか良く分かる。 |
左の写真の続き、土塁側である。 土塁は本来はもっと高かったはず。 |
館内からは多くの建物の柱跡が 発見された。 |
南側の櫓門跡。 堀には橋がかかっていたらしい。 |
井戸跡。ちゃんと水が湧いている。 | 発掘された堀には水が湧き、 水堀が復活していた。 それにしても勾配がきつい。 |
土塁も長年の風雨でかなり崩れてしまっていたようである。
木を切り、視界を良くした館内部は、藪状態のころに比べると、予想以上に広く感じられた。
多くの建物跡が検出されていた。
なんと井戸が5箇所もあったが、水質が悪いためではないかとのことである。(堀に溜まった湧き水を見た限りでは透明度が高く、それほど水質は悪いとは思えなかった。)
南側の土塁が途切れた虎口と考えられる部分には、堀をまたぐ橋とやぐら門の跡が見つかった。
屋敷内部の中央に母屋跡(幅約14m、奥行き約11m)、北東部に倉庫跡が確認された。
中国・明代や古瀬戸の陶器片約百点に交じり、何故か古墳時代の「子持ち勾まが玉」も見つかった。
これは館主がどこからか採取し、お守りかなにかに持っていたのではないかとのことである。
ほとんどの遺物は、15−16世紀のものであるとのこと。
なお、館跡、北東側小原神社の西側付近に微妙な凹凸があり、土塁、堀の跡ではないかと思われた。
2014年に発見された川崎春二氏の未発表資料によると、この部分には堀が存在し、南側の愛宕稲荷神社付近も館域であり、南に突起部を持つ二重方形館であることが明らかになった。
復元鳥瞰図はこの発見も加味してリバイスしたものである。
吽野館(那珂市鴻巣)
「吽野」、この字も読めないだろう。「うんの」と読むのである。
常磐道那珂ICの西を県道65号が通る。
ICを下りて県道65号線を北東に500m常磐道に並行して走ると県道31号との交差点があり、県道31号線を左折し瓜連方面、北西に700mほど走る。 そこが吽野館跡であるが、一見、遺構は見られない。 |
北側の堀跡の道路に面した土塁の痕跡 | 東側の堀跡であるが・・・藪で分からん! |
北西角部に残る土塁 | 内郭部民家の庭前に残る土塁 |
館主は名前通り、吽野氏である。
吽野氏は那珂IC西の玄蕃山館(吽野館の南西700mに位置する。)の館主(現在、館跡には吽野運輸があり、吽野氏が地主である。)でもある。
水府志料には信州海野氏または大井氏の流れで信州よりこの地に来て館を構え吽野玄蓄と称し、佐竹義重に仕え、その子孫は天正18年、鴻巣に移り、佐竹氏の秋田移封後は帰農したと言う。
この吽野氏、元は海野氏と称したのであろう。
あの真田一族と同族である。
この鴻巣に移った館がここではないかと思われる。
なお、 吽野姓は珍しいが、この地方にはかなり多く、子孫である。海野を名乗っている者も多い。
航空写真は国土地理院が昭和55年撮影のもの。
高畠館(那珂市鴻巣)
吽野館から県道31号線を挟んで反対側、北側200mに位置するのが高畠館である。
北側の道路に沿って低くなった土塁が存在し、この土塁が北側から東に延びていたと思われるが、宅地となりかなり湮滅してしまっている。
道路が堀跡である可能性もあり、2重堀であった可能性もある。
大きさとしては100m×80mほどではなかったかと推定される。
一部は県道31号の用地になっているようである。館主は高畠氏であり、現在も子孫が居住している。
高畠氏はこの付近には多く、子孫であり、江戸時代、庄屋も務めている。
なお、高畑姓を名乗る家もあるが、両者は同族という。写真は北西側に残る土塁である。
航空写真は国土地理院が昭和55年撮影のもの。
門部館(門部北坪)
門部台地の先端部から若干西側の久慈川を北に臨む台地縁部にあり、台地北側縁部に土塁と横堀遺構を残す。
構造的にはこの付近の額田城、瓜連城、前小屋城などと同じ形式である。
場所は県道104号沿いにある門部郵便局の県道を挟んだ反対側であるが、この県道104号が台地に登る坂も堀を利用していた可能性があり、坂の東側にも切岸が見られる。
館主要部は民家であり、南側の道路が堀跡であったようである。
少なくとも台地縁部に沿って東西に3つの曲環が並んでいたようであり、各曲輪が民家の敷地で敷地境界に堀の痕跡が南北に走る。 各曲輪の大きさは50m四方程度かと思われる。 土塁の一部が南側の道路から見えるがここが西端の曲輪であったようである。 西に門部古墳があるが、この古墳は物見台に利用されていたのではないかと思うが、この古墳がは城外のような感じではあるが、ここが西端であるかもしれない。 北側の横堀の確認に突入したのであるが、そこはすさまじい藪。 写真を撮ってもさっぱり分からない。 土塁からは5mほどの深さがあり、幅は5mほど、かなり埋没している。 途中、2か所、排水を兼ねた縦堀が北に下るが、地下水も湧いており、ぐちゃぐちゃ状態である。 少なくとも3つの曲輪は確認できるが、古墳も城域とし、県道登り口の東側、木崎小学校方面まで城域が広がっていた可能性もある。 |
@南側の道路付近まで延びる土塁 | A西の曲輪北西角の櫓台跡 | B北側の横堀底であるが、藪が酷い。 |
また、南側の馬場という字名の場所も曲輪であった可能性もあり、想像以上に広大な城館であったのかもしれない。
館主は片岡美作守という説があるがどのような人物であるかは不明。
佐竹の上級家臣の城と言えるだろう。