成沢要害(水戸市成沢町)36.4328、140.3848

水戸市の北西部、城里町との境付近に「水戸市森林公園」がある。
その公園に北側に隣接して東漸院がある。

ここは入野城(龍崖城)からは東南東約2km、飯富長塁の西約2.5km、両者の中間地点である。
東漸院の北西にある標高114.3m、比高約65mの山が城址である。
ここが西城である。西城があるので東城がある。
つまり、この成沢要害、2つの城から成っている訳である。

北から見た西城(中央部の奥)、左のピークが東城。
撮影場所は入野城の東下から東に延びる台地上の「仲郷」地区。
この台地と山の間には前沢川の谷がある。

西城のある山の頂上部は東西約35m、南北約45mの若干北側が高い平坦地になっており、金砂神社の石祠@が祀られる。
ここが主郭であるが、周囲には小さな曲輪は見られるが、二郭に相当するような比較的広い曲輪はない。
基本的に単郭の城と言えよう。


南下に神社参道が延びるが、途中に小曲輪と思われる場所もあるが、参道になっているためは改変されているようである。
また、参道のある尾根の斜面部に竪堀が確認できる。どうやら、参道を造るため堀切を埋めたようである。
ここまでを見れば、城という感じは少なく、山上の平坦地に神社を置き、尾根に参道が付いているだけのように見える。

城郭の決め手となる堀切は山の東、北側と南西側にある。そして北西に下る尾根にも存在する。
主郭の東下標高104m地点に堀切Aがあり、そこから約60m先の尾根に曲輪Dが数段確認できる。しかし、堀切Aから曲輪Dまでの間約90mは遺構はない。ただの自然地形である。
この曲輪D群の末端が東漸院Mである。

一方、南西下の鞍部標高82m地点にも堀切Bが見られる。
さらにその西側の標高93mの山から西に延びる尾根筋にも堀切Cが確認できる。

@西城の主郭は平坦で広く、金砂社の石祠が祀られる。 A西城の主郭東下10mに堀切がある。 B西城主郭の南西下の鞍部にも堀切がある。
C西城からさらに西に延びる尾根筋にも堀切がある。 DAの堀切のある尾根の東に小曲輪が展開する。 E西城から北に延びる尾根にある堀切。

一方、主郭の東に桝形があり、その東下が堀切Aであるが、そこには下りれない。
桝形からは北に道が下る。
さらに堀切を介し、北に広い尾根が延びる。

この尾根には平坦地F等があるが、土塁や堀は伴わず、曲輪かどうか判断できない。
尾根上には大きな穴Gがある。
倒木の穴よりはかなり大きく、金鉱石を採掘した穴の可能性もある。
北に延びる尾根は西に曲がり続くが、その途中に堀切がある。

西城は基本的に単郭の城であり、山頂から派生する 4 本の尾根に堀切を設けしっかり と造られている。
大手筋が南側なのか、北側なのかは分からない。

一方、西城のある山の東側、直線距離で約 250m、東漸院の北東側の山に東城がある。
山頂部Iは L 形をしており広く平坦であるが、土塁はない。ただの平坦地である。

平坦地から3 方に尾根が延び、それぞれ の尾根に堀切 がある。
南に続く方面は段々状となり、尾根も広く堀切 JK等3本 を 配置する。
この方面が大手筋であろう。
簡素で単純な構造であり一見、主城である西城の出城っぽいが、西城との間には明確 な連絡道がなく連携が取れていない。

鞍部には堀切Hがある。谷部にある。ここを西に行けば西城であるが、険しい道である。
連携を取るなら、西城から北や西に延びる尾根上の道くらい整備された広い道であるべきである。

したがって東城は独立した城と言えるであろう。むしろ、西城、東城は対抗するような感じである。
この 2 つの城が戦国期のどの時期のものか分からない。

東漸院Mの住職の話によると、
「この山には城の伝承は聞いていないとのこと。
金砂社は戦国時代、木葉下(あぼっけ)金山の堀師が太田から持って来たと伝わる。
東漸院は江戸時代初期、光圀から水戸市内からここに移されたという。
金砂山東漸院となっているが、金砂山は山上の金砂社から来ている。
金砂神社の管理もしていた。
当初、寺は成沢鉱泉の北西の山中復にあり、火災に遭って現在の場所に再建された。」
とのことである。

F北に延びる尾根の平坦地。周囲に堀等はない。 G尾根上にある穴。倒木跡ではない。採掘穴ではないか? H東城西下の堀切
I東城内部、平坦で広い。しかし、藪! J東城の南側尾根にある堀。 KJのさらに南側にある堀。上部は埋められている。

なお、成沢鉱泉の北西の山中復に行ってみたが、約3mの段差で平場Lが4段ほどあった。
この段々の平場、かなりの工事量であり、寺が置かれる前から存在しており、寺は跡地利用ではないかと思われる。
これらを総合すると、ここも城域であり、戦国末期に廃城になった跡地に神社や寺を置いたのではないかと思われる。

L成沢鉱泉北西側にある東漸院旧地という平坦地。 M現在の東漸院。背後の山が城址である。

戦国時代、成沢は江戸氏の領土であり、家臣の外岡丹波守が領主でその家臣には加倉 井備前、加倉井武蔵、園部玄蕃、奥野主膳がいたという。
彼らうちの誰かの居館の可能 性もある。東漸院の旧地がその跡地であろうか。

この地は、入野城(龍崖城、白雲山城)からは東南東約 2km である。
この入野城が成 沢要害と大きな関係があると思われる。

入野城は佐竹氏方と江戸氏方の境目の城であり、両者の間で帰属が変遷したと言われ る。
室町前期、入野城付近は南北朝の騒乱で那珂氏を駆逐した佐竹氏の勢力範囲であり、 佐竹一族の藤井氏が入野の領主だったという。
しかし、山入の乱で佐竹氏の勢力が減退 すると、江戸氏が入野を抑えていたようである。
天文年間後期(1550 頃)、部垂の乱を 終息させ、勢力が回復した佐竹氏と江戸氏が現在の水戸市と城里町境一帯で合戦をした という。
その結果、入野城の帰属がどうなったか不明である。

入野城が江戸氏の城とすれば、成沢要害は長者山城等江戸氏側の拠点との繋ぎの城の 役目もあろう。
逆に入野城が佐竹氏方であったら、江戸氏が入野城牽制用に築いた可能 性がある。
西城の主郭からは入野城は見ることができ、入野城との間には北から西に前 沢川の谷があり、これが天然の防壁となり、牽制する位置としては適している。
しかし、西城と東城を見ると一概に両城が江戸氏の城とも断言できない。

両城は連携 が取れておらず、むしろ敵対関係にあるように思える。
西城は北、西、南につながるが 江戸氏本領の東にはつながっていない。
一方、東城は東につながる。 西城が佐竹氏の城(元は江戸氏の城であり、それを佐竹氏が奪取し、佐竹方の入野城 と連絡ができるように改変した可能性もある。)であり、それに対抗した江戸氏の城が 東城ではなかったのか?
つまり、ここが天文年間後期における佐竹氏と江戸氏の抗争の場ではなかったのか、 という想定も成り立つ。

廃城の時期は分からないが、天正 18 年(1590)の江戸氏滅亡後には廃城になってお り、佐竹氏による木葉下鉱山開発に係り、鉱山技術者が西城主郭跡地に金砂神社を置い たのであろう。

参考:『常北町史』、 泉田邦彦「戦国期常陸江戸氏の領域支配とその構造」(『常総中世史研究』第 7 号、2019 茨城大学中世史研究会) 茨城県史編さん中世史部会 1974『茨城県史料 中世編U』

安川城(水戸市上国井町)
「あがわ」と読む。阿川城、国井城とも言う。その場所が分かりにくい。
水戸市の最北部、那珂川北岸、那珂市との境、南側を常磐自動車道が通る那珂川の河岸段丘上の縁部である。
北西約1qに戸村城が位置する。
位置は36.4460、140.4366、標高は35.5mである。
軍民坂と呼ばれる坂の北、約150mの場所である。

戦争中、この台地上には水戸北飛行場が建設され、台地上の農家は移転させられ、畑は潰され滑走路や飛行場施設が造られた。
軍民坂は資材運搬用の道路として軍と住民が協力して開設した坂という。
安川城もそれ以前は土塁等の一部が残存していたようだが、湮滅してしまったという。
現在は城址に解説板があるだけである。

主郭部を北側の堀跡の位置から見る。 西側の台地下に下る道(堀跡)から西側の横堀跡
推定地を見る。

解説板の立つ場所から丘下に下る道があるが、登城路と堀出口を兼ねていたようである。
解説板の南側に台地西縁部を南側に延びていく堀跡らしいラインがあるが、これが遺構なのか、何とも言えない。

城は2つの曲輪が南北に並び、曲輪間の堀が坂に続いていたようである。
一方、昭和22年と36年の航空写真を見てみると、長方形の土の変色帯が確認できる。おそらくこれは堀を埋めた痕跡と思われる。

昭和36年の航空写真を見ると堀跡が黒い筋となって見える。
(画像処理で黒い筋を強調している。)
左の写真から堀跡を推定。

その変色帯の範囲を測ってみると、東西約140m、南北約200mの大きさになる。
この範囲の西縁が先に記した堀跡らしいラインに一致する。
また、坂に接続する変色帯も確認できる。これが2つの曲輪間の堀跡のようである。
どうやら北側の曲輪が大きく、南側の曲輪は小さかったようである。

左の図は城の姿を復元してみたものである。
約100m四方の曲輪内の広さを持つ本郭とその南側に主郭の半分の大きさの馬出状の二郭があったと思われる。 この大きさは居館としては大きなものとなるが、台地続きの部分(図右側)が堀(おそらく土塁も存在していたであろう。)1本しかなく、防御上、脆弱なものに思える。
しかし、航空写真を確認しても長方形の変色帯の外側、東側に堀の痕跡らしいものは確認できない。

なお、「茨城の古城」には南北187m、東西150mという記述があり、変色帯から推定した大きさとよく一致する。また、台地縁部に長さ100mほどの堀、腰曲輪があったという記述もあり、縁部にはそれらしい部分が残存する。

国田歴史学習会作成の解説板によると、
『平安時代、950年、清和天皇4代後の源頼信の5男義政が築城し国井五郎源義政と名乗るようになったのが城の始まりである。
義政は常陸源氏の祖であり、子孫は国井氏を名乗るようになった。

 国井氏はその後勢力を延ばし、国井保の立保に関与した。4代政景の時、建仁2年(1202)には、鎌倉幕府将軍源頼家によって鹿島神領橘郷(現行方市羽生)の地頭職に任ぜられている。

しかし、この地頭職は次の将軍実朝の時代には解任され、鹿島社との訴訟が継続したが、結局は敗訴する。(鹿島神宮文書)地頭の就任を通じて、行方郡にまで勢力を伸長させていったと考えられる。
 南北朝時代、国井氏は南朝方に組し、建武3年(1336)瓜連合戦で敗れ、12代国井隆能は奥州白川に落ち延び、その地で豪族となった。 

国井氏の没落後の国井保は佐竹氏の支配下となり、佐竹5代重義の弟重茂が南酒出に分家し、さらにその孫泰義が安川城に入って国井氏を名乗るようになった。
これが佐竹系の国井氏の起こりであり、末裔は東京に在住する。』と書かれる。

参考 関谷亀寿 「茨城の古城」1990 筑波書林
航空写真は国土地理院のHPに掲載しているものを切り抜いて使用した。

国井堀(水戸市上国井町)
 国井堀は、七ツ洞公園の北で道路が北から東に直角に曲がる場所を東西に分断している。
位置は36.4402、140.4424である。
安川城も別名は国井城というので関連がありそうに思えるが、安川城からは南東約1qとかなり離れている。
このため、安川城とは直接の関係はないようである。
堀の規模は幅が約6m、深さは約3mである。土塁が存在していないようである。
西側の台地縁部から東側の七ツ洞公園の池に北から流れ込む沢の谷津までの約300mの長さがある。
この堀によって七ツ洞公園の地は独立した区画となる。
堀の北側が外側なのか、逆に南側が外側になるのか何とも言えない。

堀は林の中に横たわる。北側から風景。
堀は深さが3mほどあるが、埋没が進んでいる。

前者なら七ツ洞公園の地に守るべき何かがあることになる。
しかし、七ツ洞公園にはそれらしいものは見られない。

後者なら安川城の外郭堀ということになるが、後者の場合、安川城の東と北が台地続きなので中途半端な感じである。
単なる境界堀の可能性もある。
あるいは北側から七つ洞公園の中の池(おそらく当時は谷津か?)に流れ込む河川の水を西側に長し、台地西下の水田に水を供給するための用水路なのかもしれない。
その台地西下には溜池がある。ここにつながっていると思われる。
どことなく石塚大堀にも性格は似るが、どのような目的の堀かは謎である。
地図は国土地理院のHPに掲載しているものを切り抜いて使用した。

田谷城(水戸市田谷町) 
水戸北スマートICから那珂川にかかる園田大橋を渡り県道63号線を東に約1.5q行くと春日神社(36.4226、140.4439)がある。
この付近が城址というが、城の遺構と思われるものは見られない。

神社社殿の裏が土塁のようになっているが、これは城郭遺構ではなく神社に伴うような感じである。
周囲は集落になり、多少の凸凹はあるが集落内にも城郭遺構らしいものは確認できない。

田谷地区にある春日神社、この付近が主郭らしいが。 神社裏側には土塁があるが、神社に伴うものでは?

解説板によると、
築城は鎌倉時代中期と推定される。
南北朝の騒乱後、この地は佐竹義篤の直轄地となり、佐竹一族南酒出義遠(佐竹義茂の玄孫)が城主となり、田谷五郎義遠と名乗った。
一方、水戸の江戸氏が佐竹氏の宿老となり佐竹氏領から田谷、下国井が江戸氏領に編入され、家臣の富永志摩守が城代になる。
その後、山入の乱後、田谷は再度佐竹領に戻り、天文年間(1532-55)には南酒出系の田谷五郎業義が城主となった。
天正6年(1578)額田城主小野崎照道に攻められ落城し、城主田谷山城守長男佐兵衛、次男興茂五郎が戦死、三男仁兵衛は難を逃れ九州に下り、安部対馬守の家臣となり、大分臼杵に末裔が住むという。

この地は那珂川北岸の河岸段丘上であり、標高は9.2mに過ぎない。
防衛上は非常に不利な地である。
しかし、背後に肥沃な水田地帯が控え水田開発と経営、それから南に「船渡」という場所があり、対岸の長者山城との間を結ぶ渡しがあったとともに那珂川の河川港があったというので
それらに係っていたのであろう。
どちらかというと経済的側面が強かった城館というべきであろう。
佐竹氏、江戸氏間等で奪い合いが行われているが、この城館を抑えることで上がる河川交通に係る利益の奪い合いという側面があったのではないかと思われる。

田谷白石城(水戸市田谷町) 
田谷城の北東約800m、那珂川北岸の標高33.9m 河岸段丘上、那珂市に隣接する県中央水道事務所の地(36.4282、140.4576)が城址であるが、すでに湮滅している。
県中央水道事務所建設に伴う発掘が平成2年、3年にかけて行われ、中世の方形館が確認された。
発掘前は東と南側にL型に土塁が残存していたという。
←城は県中央水道事務所になって湮滅。

最終的な館は一辺165mという大きなものであったというが、4期に渡り拡張されたことが分かり、内部にはより小規模な方形館が存在していたことが確認されている。
平安末期から鎌倉中期にはこの地は大掾系馬場氏の領土あるいは国井氏の領地であったと思われるが、鎌倉後期には執権北条氏の領土になっていたと思われる。
この頃、初期の城(屋敷)が築かれたと推定される。
第T期の城は平安時代なので堀土塁はなく、柵、塀で囲んだ程度のものだったらしい。

第U期の城の範囲 第V期の城の範囲 第W期の城の範囲

南北朝の騒乱後も大掾系馬場氏の領土であったと思われる。
しかし、一方ではこの地は佐竹領となり、佐竹4代秀義の三男義茂が南酒出氏を興し孫の泰義が国井を領し国井氏を称し、弟祐義が白石に居館を構え、白石氏を興したともいう。
山入の乱で佐竹氏の勢力が衰退するとこの地は江戸氏が押領するが、山入の乱終息後佐竹氏に返還するが、天正6年(1578)額田城主小野崎照道に攻められ落城する。
さらに、額田小野崎氏、江戸氏も佐竹氏に滅ぼされ再度佐竹領となるが、佐竹氏が秋田に移封され廃城になったと思われる。

参考 水戸浄水場予定地内埋蔵文化財調査報告書「白石遺跡」、1993 茨城県教育財団
城の範囲図は上記報告書掲載図を使用して加工したもの。

瀧田氏館(水戸市上国井町)36.4414、140.4302
「新編常陸国誌」に水戸市上国井町辻の内にあったという「瀧田氏館」が記載される。
しかし、この館をHP等で扱ったものはなさそうである。

館のあった場所付近は那珂川東岸の標高10.5mの低地の水田地帯に隣接する集落である。
川面からの比高は約10mである。
戸村城が北約1q、東約700mが安川城である。

瀧田氏について「新編常陸国誌」では「瀧田氏久衛門の館で先祖は那須興一資隆、六男六郎道隆が野州瀧田村に住み、瀧田姓を名乗る。
子、伊賀守道興の時、佐竹氏に属し、この地で二十五貫を宛がわれる。
佐竹氏が秋田に移った時、道興の子又三郎が幼かったためこの地に帰農、伊賀守から11代相続、那珂西宝憧院所蔵の玉幡二流並びに如意柄香炉は伊賀守道興夫婦が天正十六年八月吉日に寄進したもの」という記載がある。
佐竹氏家臣とされるが、直属の旗本クラスとなのだろうか?
地理的には戸村氏、あるいは国井氏の家臣の可能性もあるかもしれない。那珂川対岸の西岸は飯富台地である。那珂川の渡しや河川港に関わっていたのか?。
瀧田さん、水戸にも何軒かあるので子孫か?

そこを探しに。この付近で一番知名度のあるのは「薬師寺」であるが、寺というよりお堂に過ぎない。
付近は水田地帯である。那珂川に流れ込む河川で若干の凹凸はあるが、館らしきものはない。
もし、あったとしても洪水などで埋まってしまった可能性もある。人に聞いても「分からない。」。
で、それらしい雰囲気のある場所を探してみると、周囲が河川が流れる低地になっているここ。
低地から約2m高く楕円形の島状になっている一角、内部は宅地と林である。
他に良さそうな場所はない。ここじゃないのかなあ?

参考 「新編常陸国誌」

藤井城(水戸市藤井町)

新規に確認された城である。・・というより行方が分からなくなっていた城が確認されたということである。
この城については、川崎春二氏が記録しており存在することは分かっていた。
しかし、昭和30年ころの記録であるため、場所が明確に記載されていなかった。
世代交代もあり、地元の伝承も途絶えてしまったと思われる。
そのため、所在が不明になってしまったようである。

藤井城ということなので、水戸市の藤井町のどこかに存在することは間違いないのだが、藪化した場所も多くそれらしい場所がなかなか分からない。
藤井町は水戸市の最北端、城里町側に突き出した地区である。

城が存在していたとすれば、その一番の候補地は国道123号線と国道356号線が交わる那珂西の交差点に西側から那珂川の低地部に突き出た丘の先端部が怪しい。
城があってもおかしくはない地形である。
しかし、そこはただの山だった。意外と城がありそうな場所にズバリ城がある場合とその逆の場合があるが、その後者の典型である。

↑は西側、西田川岸付近から見た城址。比高は13mほど。

肝心の城はそこから北西800mの西田川が東流から南流に変わる場所に南西から突き出た丘先端部(北緯36°27′17.43″、東経140°24′3.38″)にあった。
これを50storm氏が見つけたのである。
西田川の低地の標高が10m、城のある場所の標高は23mである。
北西が藤が原団地である。

この丘、那珂西城の本郭がある宝憧院からは直線で南西に500mという近い距離にあり、西田川の低地を挟み対峙する位置にある。
遺構は比較的単純であり、2つの曲輪からなり東西約100m、南北最大100mの歪んだ四角形をしている。
北東側に主郭を置き、その西側、南側をL型に二郭が覆う形を採るが、主郭部は土塁の規模が小さく、区画しただけのように思われる。
南側と北東端に虎口がある。曲輪内部はあまり整地はされていない。

二郭の周囲は高さ4、5ほどの土塁@、Aが覆い、ところどころに高い部分Bがある。
その外側に堀がある。
南側には虎口と思われる場所があり、堀には土橋があった感じである。
東側斜面には横堀が存在する。

@西端の土塁、堀底からは5mほどの高さがある。 A南側の土塁上。右側が堀、左側が曲輪内。
B南側の土塁東端の櫓台?。左側が堀。 城址東側にある井戸と推定される水が湧いている窪地。


城南東部に井戸と思われる大きな穴Cがあり、今も水がある。
北側が切れており、低地の灌漑用に水が使われているようである。
(この丘の斜面からは水が湧いている場所がある。地下水の水脈が丘の下で切れて湧き出るのであろう。)

これが当時の遺構か判断はできないが、否定もできない。
一応、この部分は城郭遺構であることは間違いないと思われる。
しかし、その外側、南側、西側にも平地が広がり、南側の方が地勢が高い。
この方面にも堀などが存在する可能性はないのか調べたが、土塁のような感じのもの、古墳らしきものはあったが、荒れており確認はできなかった。

城についての歴史はよく分からない。
城の性格として@那珂西城の西側を守る出城 A那珂西城攻撃の陣城、付城、 B住民の避難城が想定される。
内部が不整地状態であることから居館であった可能性はないであろう。
そうでなければ臨時の城である。
距離的には那珂西城との連絡がとりやすい@の可能性が一番高いようではあるが、敵が襲来すると想定される南側の方が地勢が高いので防衛上不利であり、果たしてこの場所が防衛上適切な場所であったのか疑問である。

Aも想定されるが、そもそも那珂西城が攻撃を受ける状況が存在したか?
山入の乱で弱体化した佐竹氏の領土を横領しようとする江戸氏が那珂西城に圧力をかけるため築いた可能性はあるかもしれない。
それなら500mという至近距離、嫌らしさが半端ない。
Bも何ともいえないが、この城のある場所、ちょっと分かりにくい場所であり可能性がないとはいえない。
井戸の存在は根拠になりえるかもしれない。

さらには那珂西城は遠征軍の集合地として使われたというので、@の可能性に含まれるが宿営地の1つであった可能性もある。
時代と状況により、ある時は出城、ある時は陣城と用途が変わったこともあるかもしれない。
真実は今となっては、不明である。
知っているのは遺構のみである。
こんな妄想を現地の藪の中で楽しむのが至福の時である。
(2018.3.21訪問)

大串原館(水戸市東前町)
旧常澄村の中心部の東前地区にある。
東に向かうと大串貝塚があり、東水戸道路水戸大洗ICが北東600mに位置する。
館は那珂川の低地を北に望む岡の上にあり、隣接した北側の岡にすでに工場の敷地となって湮滅した椿山館があった。

館は東前病院から東に150m、東に向かう道路が谷津部を越え、岡に上がった場所の北側の杉林の中にある。
極めて小さなものであり、曲輪内は30m四方に過ぎない。

周囲に堀が1周し、西側は堀になっていたようでもある。
虎口は南側にある。しかし、全体に埋没が激しく、堀底から土塁上までは50〜100cmしかなく、写真を撮っても識別しにくい。
ただし、完存状態ではある。

館主としては大掾氏の一族石川氏が想定される。
石川氏はこの付近に領地があり、江戸氏に従っていたらしいのでその可能性は大きいと思われる。
しかし、30m四方程度では館と言えるか疑問が残る。
精々家1軒分程度のスペースに過ぎないものである。
堀、土塁も埋没している状況から元々規模は小さいものであったと思われる。
隠居屋敷あるいは、土塁上に柵を構築しただけの単なる馬囲いの施設であったのかもしれない。
西側の土塁と堀 北側の土塁と堀