藤井城(水戸市藤井町)

新規に確認された城である。・・というより行方が分からなくなっていた城が確認されたということである。
この城については、川崎春二氏が記録しており存在することは分かっていた。
しかし、昭和30年ころの記録であるため、場所が明確に記載されていなかった。
世代交代もあり、地元の伝承も途絶えてしまったと思われる。
そのため、所在が不明になってしまったようである。

藤井城ということなので、水戸市の藤井町のどこかに存在することは間違いないのだが、藪化した場所も多くそれらしい場所がなかなか分からない。
藤井町は水戸市の最北端、城里町側に突き出した地区である。

城が存在していたとすれば、その一番の候補地は国道123号線と国道356号線が交わる那珂西の交差点に西側から那珂川の低地部に突き出た丘の先端部が怪しい。
城があってもおかしくはない地形である。
しかし、そこはただの山だった。意外と城がありそうな場所にズバリ城がある場合とその逆の場合があるが、その後者の典型である。

↑は西側、西田川岸付近から見た城址。比高は13mほど。

肝心の城はそこから北西800mの西田川が東流から南流に変わる場所に南西から突き出た丘先端部(北緯36°27′17.43″、東経140°24′3.38″)にあった。
これを50storm氏が見つけたのである。
西田川の低地の標高が10m、城のある場所の標高は23mである。
北西が藤が原団地である。

この丘、那珂西城の本郭がある宝憧院からは直線で南西に500mという近い距離にあり、西田川の低地を挟み対峙する位置にある。
遺構は比較的単純であり、2つの曲輪からなり東西約100m、南北最大100mの歪んだ四角形をしている。
北東側に主郭を置き、その西側、南側をL型に二郭が覆う形を採るが、主郭部は土塁の規模が小さく、区画しただけのように思われる。
南側と北東端に虎口がある。曲輪内部はあまり整地はされていない。

二郭の周囲は高さ4、5ほどの土塁@、Aが覆い、ところどころに高い部分Bがある。
その外側に堀がある。
南側には虎口と思われる場所があり、堀には土橋があった感じである。
東側斜面には横堀が存在する。

@西端の土塁、堀底からは5mほどの高さがある。 A南側の土塁上。右側が堀、左側が曲輪内。
B南側の土塁東端の櫓台?。左側が堀。 城址東側にある井戸と推定される水が湧いている窪地。


城南東部に井戸と思われる大きな穴Cがあり、今も水がある。
北側が切れており、低地の灌漑用に水が使われているようである。
(この丘の斜面からは水が湧いている場所がある。地下水の水脈が丘の下で切れて湧き出るのであろう。)

これが当時の遺構か判断はできないが、否定もできない。
一応、この部分は城郭遺構であることは間違いないと思われる。
しかし、その外側、南側、西側にも平地が広がり、南側の方が地勢が高い。
この方面にも堀などが存在する可能性はないのか調べたが、土塁のような感じのもの、古墳らしきものはあったが、荒れており確認はできなかった。

城についての歴史はよく分からない。
城の性格として@那珂西城の西側を守る出城 A那珂西城攻撃の陣城、付城、 B住民の避難城が想定される。
内部が不整地状態であることから居館であった可能性はないであろう。
そうでなければ臨時の城である。
距離的には那珂西城との連絡がとりやすい@の可能性が一番高いようではあるが、敵が襲来すると想定される南側の方が地勢が高いので防衛上不利であり、果たしてこの場所が防衛上適切な場所であったのか疑問である。

Aも想定されるが、そもそも那珂西城が攻撃を受ける状況が存在したか?
山入の乱で弱体化した佐竹氏の領土を横領しようとする江戸氏が那珂西城に圧力をかけるため築いた可能性はあるかもしれない。
それなら500mという至近距離、嫌らしさが半端ない。
Bも何ともいえないが、この城のある場所、ちょっと分かりにくい場所であり可能性がないとはいえない。
井戸の存在は根拠になりえるかもしれない。

さらには那珂西城は遠征軍の集合地として使われたというので、@の可能性に含まれるが宿営地の1つであった可能性もある。
時代と状況により、ある時は出城、ある時は陣城と用途が変わったこともあるかもしれない。
真実は今となっては、不明である。
知っているのは遺構のみである。
こんな妄想を現地の藪の中で楽しむのが至福の時である。
(2018.3.21訪問)

大串原館(水戸市東前町)
旧常澄村の中心部の東前地区にある。
東に向かうと大串貝塚があり、東水戸道路水戸大洗ICが北東600mに位置する。
館は那珂川の低地を北に望む岡の上にあり、隣接した北側の岡にすでに工場の敷地となって湮滅した椿山館があった。

館は東前病院から東に150m、東に向かう道路が谷津部を越え、岡に上がった場所の北側の杉林の中にある。
極めて小さなものであり、曲輪内は30m四方に過ぎない。

周囲に堀が1周し、西側は堀になっていたようでもある。
虎口は南側にある。しかし、全体に埋没が激しく、堀底から土塁上までは50〜100cmしかなく、写真を撮っても識別しにくい。
ただし、完存状態ではある。

館主としては大掾氏の一族石川氏が想定される。
石川氏はこの付近に領地があり、江戸氏に従っていたらしいのでその可能性は大きいと思われる。
しかし、30m四方程度では館と言えるか疑問が残る。
精々家1軒分程度のスペースに過ぎないものである。
堀、土塁も埋没している状況から元々規模は小さいものであったと思われる。
隠居屋敷あるいは、土塁上に柵を構築しただけの単なる馬囲いの施設であったのかもしれない。
西側の土塁と堀 北側の土塁と堀