南酒出城(那珂市南酒出字御城)
南酒出城は、地元でも知名度がほとんどない城である。
蒼竜寺が城址といわれているが、寺の周囲には土塁が残るものの、それ以外に城址を思わせる遺構はなく、周囲は畑地が広がるのみである。
このため、遺構は隠滅しているように見える。

しかし、主郭部は寺の南側の杉林の中に一部は隠滅しているものの、余り姿を変えずに立派に残っていた。
ただし、杉林の中は余り手入れはされず、藪が多い状態である。
藪を刈り、石神城や前小屋城のように手入れをすれば立派な城址公園になると思うが、惜しいことに額田城同様、那珂市にはその意思はないようである。

本城は額田城の西約2kmの久慈川右岸の沖積地に面した那珂台地の端部にある。
 台地端部という立地条件は上流側にある前小屋城、宇留野城、下流にある石神城等の久慈川流域の佐竹系城郭と同じであり、構造的に共通点も多い。
低地からの比高は約20mであり、北、東、南を低地や侵食谷に囲まれた台地にある連郭(梯郭併用)式の平山城である。

 城は佐竹四代目義茂の築城と言われる。
 義茂は承久の乱の時に宇治川の合戦で活躍し、功により与えられた当地に南酒出城を築き、南酒出氏を称した。
その後、佐竹惣家に与えられた美濃国山田郷の地頭として移住した。
 この城が岐阜市にある「鷺山城」である。
南酒出氏の子孫はその後、美濃より帰国し、常陸太田の馬場城に居城し、馬場氏を称した。
最後の当主、関が原後、当主、馬場政直は、佐竹氏の秋田移封に同行せず、車丹波らとともに水戸城奪還を企て、破れて殺されたという。
 この城は、南酒出氏が美濃に行った後は、しばらく廃城状態であったらしいが、佐竹十五代義治の子東義政の子義賢が居住し、城を再興して「酒出氏」を称し、子孫の義忠の時に秋田に移り城は廃城となった。
酒出義忠の活躍は、弟の東義久の影に隠れて明確ではない。

 本郭は杉林の中にほぼ完全な状態で遺構が残っている。
 本郭は東西90m、南北60m程の長方形であり、東側の低地に面した側を除いて土塁が見られる。
特に西側、北側の土塁は3m近い高さがあり、櫓跡と思われる高まりが北側にある。
東側同様、低地に面した南側の土塁はこれに比べ1.5m程度と低い。
東側にも土塁があったと思われるが崩落して失われたものと思われる。(本郭東下の帯曲輪を確認した結果、帯曲輪は本郭側の土砂崩落でかなり埋まっており、本郭の塁壁には崩落した跡が残されていた。
したがって、本郭の東側には土塁が存在していたと考えて良いだろう。)

北側と西側には幅15m、深さ6m程度の堀で二郭と西二郭が隔てられ、低地に面する東側と南側には堀より通じる帯曲輪がある。

この構造は瓜連城、前小屋城、宇留野城に見られるものと同じである。
帯曲輪に土塁が存在したかどうかは、藪がひどいため確認できない。
本郭との連絡は西側の西二郭と土橋によって行われていたと思われる。
西二郭は東西80m、南北100m程度の長方形をしており、北側と西側には幅5m、深さ3m程度の堀で二郭と西一郭と隔てられ、南側は堀より通じる帯曲輪を挟んで低地に面する。
堀と土塁のうち、二郭側に面した一部は失われている。
西二郭の西にも馬出曲輪という感じの郭があったが、民家の敷地となりほとんどが失われている。
二郭は本郭と西二郭に面した堀と土塁以外は失われており、残りの部分は畑地となっている。

三郭は蒼竜寺の境内となっており、ほとんど姿を留めない。寺の入口部に高さ3mの土塁の一部と思われるものがある。しかし、これは工事に伴うものではないか?

二郭間の堀は埋められてその部分のみがやや窪んだ道となっている。
本郭と二郭間の堀は壮大であり、深さ7m、幅は23m(実測)の規模があり、まるで谷である。本郭を覆うように二郭側から竪土塁が延びている。
本城は西側が台地の平坦部に続いており、西側が防御上手薄であるため西側に郭が存在していたものと思われる。
そうでないと本郭の西側の畑から三郭を見下ろすことになる。

本城は元々は本郭のみの単郭の館であり、西二郭、二郭を増築し、次いで三郭と拡大させていったものと思われるが、平坦部に面する部分が多く、しかも三郭の位置が低い。
このため、堅固性は若干劣る城郭と感じる。
郭配置等は前小屋城と良く似る。 

@ 西二郭(左)と二郭間の堀。かなり浅くなっており、
土塁も低くなっている。
A 本郭(左)と西二郭間の堀。土橋より北側を見る。
幅8m、深さ6m程度はある。
B 本郭(手前)と西二郭間の土橋
C 本郭内の土塁 D二郭と三郭間の堀は埋められて窪地で果樹園となっている。 E 北側、三郭跡、蒼竜寺の駐車場より見た主郭部(林)。
手前の畑は二郭の北側部分。

現在、残存しているのは本郭と西二郭のかなりの部分と本郭と西二郭に面した二郭の部分のみであり、後は宅地化、耕地化に伴い隠滅している。

南酒出城再訪
2013年4月13日、余湖さんと50stromさんと説明会があるというので南酒出城に行った。
城址の入口に解説板を設置し、本郭内の藪を切り払ったので見学会を兼ねた説明会であった。
その説明会が蒼龍寺で開催された。高橋裕文氏の解説によると、南酒出城は恒常的な城郭ではなく、佐竹氏が額田城を攻めた時の陣城というのが見解であった。

その理由としてで南酒出氏自体が戦国時代、すでに実態がない存在であり、この地にはいなかったようである、江戸氏や佐竹氏の額田城攻めの合戦場がこの付近であり、付近から人骨、刀剣の出土もあった、家臣団の居館があったと推定される内宿地区より城が低い場所にあるのは不自然等というのが根拠である。
しかし、この根拠と説は十分には納得できなかった。

少なくとも本郭周辺の堀の巨大さは陣城レベルのものではない。
陣城として使用した可能性もあるが、その場合、既に廃城になっていたものを再利用したと考えた方が妥当ではないだろうか?

内宿地区よりも地勢が低いというのは事実であるが、深い谷津を背後にしておりこの場所は要害の地でもある。
一概に低い地勢であるので恒常的な城ではなかったとは必ずしも言えないであろう。
かの小諸城、与良城等は城下町より地勢が低い場所にある「穴城」として知られているくらいである。防衛を重視すれば、この立地は有り得る。

また、今回、城址を歩いたが中世須恵器の破片を採取した。
野戦に携帯するような簡素なものではなく、取っ手部がついたものであった。
このようなものは陣城では考えられず、定住した場合に使用するような物であった。
また、畑等には土師器、須恵器の破片が比較的多く見られた。

なお、縄文時代の石斧も採取した。土師器片も見られるので、複数の時代の遺跡が複合しているようである。

このため、管理人はこの城は廃城後、陣城として再利用したとしても、本来は恒常的な城として築城されたものと考える。

今回、この機会を利用して今まで入らなかった部分にも行って見た。
まずは「御城」と言われる部分である。
この部分は2軒の民家があり西二郭側に土塁と堀があり、西二郭よりも明らかに上位の曲輪である。
西側にも堀と土塁があったが埋められている。「御城」という名前からして、城主の居館があった場所と推定される。

B本郭入口の土橋 A本郭西側の堀 C本郭内部
堀dは埋められてしまっている。 西側から見た御城の地。ハウス付近に土塁があった。 城址採取の中世土器と縄文時代の石斧

この御城の地に住む豊島さん、佐竹氏の家臣には見当たらない。
しかし、この地には多い姓である。
佐竹氏家臣譜は秋田で編集されたものであるので、豊島氏は秋田に同行しなかったので掲載されなかったのかもしれない。
豊島氏が城代であった可能性もある。

その西側の高村さんのお宅は南酒出城の門番だったという言い伝えがあるので、西側に大手があったものと思われる。
なお、高村氏は佐竹氏家臣譜に名があり、佐竹一族、東政義、義久、義賢に代々仕え、義賢の時に秋田に随行したという。鉄砲隊300を率いていたという。
南酒出城は、佐竹十五代義治の子東義政の子義賢が居住し、城を再興して「酒出氏」を称し、子孫の義忠の時に秋田に移り城は廃城となったとも言うので、ここの高村氏は常陸に残った一族なのだろう。
この高村氏の存在はここが戦国末期、東氏の城であったことを示しているのではないだろうか。
豊島氏が城代で、その家老的立場であった可能性もある。

不思議なのはこの「御城」の場所である。かなり地勢が低く、台地中央部からは隠れたように見えるのである。
これが今一つ謎であるが、この立地は見えなくするための考慮もあるのかもしれない。
一方、本郭は「入り御城」と言うそうである。すなわち、最終避難場所のことである。
西側と北側が深い堀が掘られ、東側、南側が崖状となっているので要害性が非常に高い曲輪であり、「入り御城」と言う名に相応しい。
このような字が存在すること自体、恒常的な城であることを示しているのではないだろうか。

「御城」の北側部分はかなりの藪状態であるが、複雑な構造をしている。部分的には堀が4重になっているのである。
一番内側(東側)の堀aは完存状態で残っているが、最外郭西側の堀dは昭和初期に埋められてしまったそうである。
その内側に堀cが1本あるが、さらに内側に掘りかけのような、途中で終わっている状態の堀bが1本ある。
この堀bは後世埋めたような形跡はなく、オリジナルの姿のようである。
未完成のようでもあり、もしかしたら造成中に工事を止めた可能性もある。
または、比較的浅いので鉄砲塹壕のような感じでもある。
堀が合流したり分岐したり複雑な配置となっている。
この部分は台地続きの一番地勢の高い部分であるので、一番攻撃を受けやすい部分でもある。このため防御を厳重にしているのであろうか。

西二郭の北側が二郭であるが、ここは耕作のため、改変を受けているようであり、良く分らない。
途中に堀が1本存在した可能性もある。
蒼龍寺と間には堀が存在したようだが、今となってははっきりしない。
蒼龍寺も曲輪の1つであるが、この場所こそ「穴城」状態で曲輪には相応しくない場所である。
しかし、その場所に行って見ると、北方向、久慈川方向、常陸太田方面の眺望が抜群なのである。
ここは地勢は低いものの、北方向を監視するための物見として、曲輪に相応しいのである。

南酒出駒形神社

南酒出城の北西500mにある神社である。
「駒形神社」という神社は結構多い。

この駒形神社も参道入り口の鳥居から社殿までの参道が200mもあり、杉の大木が参道に沿って並木になっている立派な神社である。

南酒出城と関係が深い神社でもある。
初代城主、佐竹一族の南酒出義茂が承久の乱に出陣し、宇治川の合戦で活躍するが、愛馬を失い、その愛馬を祀ったのがこの神社であるという。
このため駒形神社と言うのだそうである。(もう1説あり、後三年の役で奥州に向かう源義家が、ここで戦勝祈願をし、帰路、戦勝の礼に社殿を建てたという伝説もある。
この伝説だと平安時代の中期以前から神社があったことになる。)

南酒出氏は、承久の乱の功により佐竹惣家に与えられた美濃国山田郷の地頭として移住しこの地を去るが、この神社は、その後も武家の馬や農耕馬の成長、健康を守る神ひいては豊作の神として信仰を集めたという。

南酒出城自体は知る人も少ない忘れられた存在になっているが、この神社の崇拝は地元に受け継がれ、立派な社殿を有し、この地方でも有力な神社の1つとなっている。

なお、この神社近くには、北酒出城があったという。
この城は佐竹氏4代秀義の子助義が北酒出氏を称し、鎌倉時代初期に築いたと言われ、同様に美濃に移り、城は未完成のまま廃城となったと伝えられる。
(南北酒出氏は佐竹秀義の3,4男兄弟がそれぞれ興した家と言われる。)
北酒出城の場所は、この神社の北東の久慈川低地に張り出した半島状の台地にあったようであるが、場所は特定されていない。
その付近には古墳が何基かあり、古墳を櫓台に利用した城(館?)であったのかもしれない。