前小屋城(常陸大宮市泉)

1 位置と歴史

 前小屋城は字名を採って泉城ともいう。
「館」と書いてある文献もあるが、館の規模をはるかに越え立派な「城」である。
 常陸大宮市字泉にあり、東に久慈川を望む比高25mの台地端部に築かれている連郭式平山城である。

 城は常陸大宮市中心より南東2km位置し、すぐ北側500mには宇留野城が存在する。
 規模は南北300m、東西最大200m程度はあり、宇留野城よりは若干小さいが、中世城郭としては比較的規模は大きい方に分類される。
 部垂城を含めるとこの台地偏部には3つの大きな城郭が同時期に並んで存在していたことになるが、前小屋城はその南端に位置する。

 築城時期は、秀郷流藤原系那珂氏平沢丹後守通行という。
 後に佐竹一族の小木五代義忠の弟義広が前小屋に築城し分家し前小屋氏を称し、小場家の家老的存在であった。
 義広の没年が明応9年(1500)というから文明から長亨年間(1469〜1488)の頃であろう。

 小屋義広は山入の乱では佐竹本家側に立ち山入側と交戦し、戦死したとも伝えられるが、前小屋氏はその後も続き、部垂の乱では本家の小場家とともに部垂城の宇留野義元側に立ち破れ、前小屋城も落城したといわれるが、前小屋氏、小場氏とも佐竹氏に許され、その重臣として活躍している。
 佐竹義重御家門衆の御親類の中に前小屋上総介の名が見える。

 この頃になると小場家の家老ではなく佐竹氏の直属の家臣的存在に変わってきている。
 しかし、宇留野家同様、佐竹氏の秋田移封により、前小屋氏も秋田に移動し、城は廃城となった。
 前小屋城が機能していたのは西暦1470,80年頃から1600年頃までの120〜130年という比較的短い期間である。
 したがって本城には、堀を挟んで両側に土塁を置く形式や堀底から連絡する帯曲輪等、この時期の当地方の平山城のエッセンスが全て含まれているものと考えられる。


2 城の構造と遺構

 前小屋城は久慈川側の低地に突き出した比高約25mの半島状の台地端部に沿って4つの郭が並び、その総延長は約250mほどである。

本郭の北側は侵食谷となり、北側の台地に宇留野城が存在する。
 本郭の西側には仲屋敷という字名の曲輪X(西郭)があり、さらにその西側に五器井戸曲輪?がある。
 本郭より西側の長さは約200mほどである。
 城の形状は北側から見るとちょうどL型をしている。

 二郭、三郭、四郭は宅地化が著しく、土塁、堀がかなり失われているが、本郭の大部分と西郭は杉林や雑木林で覆われ保存状態は良い。
 特に西郭は中世城郭が完全な姿で保存されている。

 本郭は城域の東北端に位置する。
100m四方程度の広さを持ち周囲に土塁Dを巡らしている。
 特に西側の土塁は高さ最高3m程度はあり、堀@、Dも深さ7m、幅10mほどの立派な薬研堀である。
東側、北側の斜面の勾配はそれほどきつくなく堅固性は感じられない。

 このため、東側と北側の斜面に前面に土塁を有する帯曲輪または横堀Cを巡らし防護の強化を図っている。

本郭内には種主院があり泉清観音(前小屋観音)が祭られている。
本寺院が始めからこの地にあったかどうかは不明であるが、江戸初期に火災があり、水戸光圀がこの地に寺院を再興したと伝えられる。
 本郭の南側には3つの郭が確認されるが、前述したように宅地化が著しく土塁、堀はかなり失われている。
 それでも残存する土塁Gは3m程度の高さがあり、堀も深い。
曲輪Wについては東側に土塁は無かった模様である。

 本城は西側と南側が平坦地であり、防護上の弱点である。
 南側については3つの郭による多重防護となっており問題はない。
 このため、本郭の西側の堀を深くし、さらに曲輪X(西郭)が築かれている。

 西郭は70×50m程度の長方形であり、本郭とはクランク上の木橋あるいはクランク上に一度堀底に降り、掘底を数m歩いて土塁に登るような形で連絡されている。
 西郭は周囲を土塁に囲まれているが、その高さは北側、西側は1〜2m程度と本郭よりは低い。
北側には帯曲輪が見られる。

 南側の土塁は3m近くあり、堀も深く、南東方面への防御を考慮した構造となっている。
 曲輪X(西郭)の西は五器井戸Eのある曲輪?があるが、西郭との間は高さ2m程度の土塁と深さ3m、幅5mほどの堀で隔てられている。B
 土塁は五器井戸側にも見られる。
西郭とは土橋で結ばれている。

 五器井戸は北側に傾斜する緩斜面であり、曲輪かどうかは良く分からないが低い土塁が見られ、何らかの施設があったものと思われる。
 なお、五器井戸は今も水が湧いている。
当時は城の飲料水に用いていたものであろう。

 五器井戸の南側は宅地及び農地であるが、ここにも郭が存在していた可能性がある。
 北側の宇留野城の主郭に比べると前小屋城の堀は深く壮大である。
 これは宇留野城の主郭は半島状の台地に築かれているため、3方が崖であり、狭い1方のみの防御に重点を置けば問題ないのに対し、前小屋城は広く平坦な西側と南側に対しての防御を必要とするからであろう。

築城当時の前小屋城はおそらく本郭のみの単郭であったと思われるが、徐々に防御の弱い南方向、西方向に郭を増築し、堀も深くして行ったものと思われる。
@本郭(右)と曲輪X(西郭)間の堀底、北側 A同、南側 B曲輪X(西郭)西側にある虎口
C 本郭北側の横堀。 D 本郭西側に残る土塁、高さ3m。 E 曲輪X(西郭)西にある五器井戸部
F曲輪U南側の堀 G曲輪V南東側に残る土塁 H曲輪W南端の堀