車川向城(華川町車)
この城は2022年7月に確認された。それまでは全く知られていなかった。
いや、知られていなかったのではなく、忘れられていたのかもしれない。

高萩生まれの地図学者「長久保赤水」(1717-1801)の「改正日本興地路保全図」の常陸版に出堂山「車関斎隠居城」というのが載っている。
どうやら、この城が以下に紹介する麓部にある平場のことのようである。
しかし、西側にある山城については載っていない。
なお「長久保赤水」の「改正日本興地路保全図」にあの「竹島」が日本領として載っているのである。
松江藩が大陸との密貿易の中継所に使っていたらしい。その頃、あの国は何していたのか知らんが。

さて、話は戻して。
車川向城は車城の西側の低地を挟んだ対岸の山にある。
城のある山の南下を花園川が流れる。
城は2つの部分からなり、麓近くの平坦地に平場があり、そこから西約300mの山に山城がある。
この城の名前、麓の字名から取ったのであるが、車新城あるいは車向館と言ったほうが適切かもしれない。

南側花園川の堤防から見た山頂部、右側に麓部遺構がある。撮影位置の右手に車城がある。

平場からは車城の主郭は南東約500mの位置にある。
麓近くの平場の標高は40m弱、比高は約20m、位置は36.8177、140.7206である。
この平場は約80m四方の広さがある。最上部の約50mの平場には塚がある。古墳か?
この平場の東側に2段、北側に1段の腰曲輪状の平場@がある。

山に続く部分以外の3方向の切岸は急である。
山に続く西側は堀切のようになっているが、これは自然地形であろう。
平場は畑になっていたようであり、平場の南西端部に桝形状である。
しかし、ここは遺構ではなく、堀切状の場所を登るように付いていた道を上がって来たと思われる軽トラの入口ではないかと思う。


山頂部遺構鳥瞰図
麓部遺構縄張図
山頂部遺構縄張図

この平場から北西方向に花園川の低地を南に見る稜線を登って行くと山城部となる。
この稜線に沿った部分は緩斜面であるが、遺構はない。遺構らしい段差があり、その先に堀切Aがある。
この堀切からは竪堀が下る。
北側は竪土塁を持つ。

@麓近くにある平場、広く、ここは陣城の主体部ではないか? A山城部東端近くにある堀切、ここからが本格的な城域である。 BAを北東下に行くとU字形の土塁と堀がある。写真はその土塁上。

この付近から本格的な城域となる。
稜線は幅広となり、さらに上がって行くと最高箇所Dである。
ここは三角形をし、土塁が覆う。
一見、この感じは山の神等、社が祀られている神域のような感じがするが、社はない。
城の指揮所であろう。

山頂部は結構複雑な構造である。
この山は花園川が流れる南側は比高40〜50mあり、斜面は急であり、遺構はない。
花園川を望む稜線状に主郭部があり、北側の斜面に複雑に曲輪が展開する。
また、谷状になっている場所にも曲輪が構築される。

C Bに西側から延びる尾根は削り残しの高土塁になっている。 D最高箇所に位置する三角形の曲輪は土塁が覆う。城の指揮所だろう。 E Dの北側の緩斜面は土塁が囲み、北端に坂虎口が開く。

堀切Aと主郭Dの間から東に尾根が延びるが、この尾根は削られ削り残しの土塁Cとなっている。
その北西側の谷部には段々に曲輪が造成されている。
土塁Cの先端部は物見台のようになり、その東下にはU字形の土塁と堀Bがある。
その先は緩斜面である。
一方、主郭Dの北側は緩斜面になっているが、ここは曲輪である。
3方を高さ1mほどの土塁が覆い、北端に虎口Eがある。

西側に竪虎口があり西下の曲輪に下れる。比高差は6mほどあり、切岸は急勾配に加工されている。
西側には2段の曲輪があり、西端は堀と土塁で区画される。
一方、虎口Eの先に2段の曲輪があり、巨大な横堀と土塁Fがあり、中央部に土橋がある。
ここが大手であろう。Fを北に下ると道がある。後世の道であり、軽トラは走れたようである。
この道は横堀を転用したものであり、南東側に下ると堀跡Hの痕跡が明瞭である。

この南東側にはHの他、緩く下る横堀Gが構築され、さらにその南側には自然の谷を利用した横堀がある。
都合、3本の横堀が構築されていることになるが、この方面が緩斜面であり防御の上で弱点だからであろう。

F 主郭北下を巨大な横堀と土塁がU字形に覆う。 G F南東側の緩斜面には横堀が多重に構築される。 H 緩斜面最外側の横堀は通路に転用されている。

さて、この城はどんな目的で築かれたのであろうか?
車城を攻めるための陣城?あるいは車城の出城?

伝承も、地名も残っていないのでおそらくどちか、あるいはその両方であろう。
いずれにせよこの城はこの地の拠点城郭、車城と強く関係する。

その車城、嘉元年間(1303〜6)臼庭加賀守が築き、二階堂一族砥上氏が車氏を称し3代居城したが、文明17年(1485)岩城常隆が攻略、山入の乱で衰弱した佐竹氏を狙い、常陸侵攻の拠点とする。
この時、常隆は弟の好間三郎隆景を城主にし、車氏を名乗る。
天正2年(1574)勢力を回復した佐竹氏に攻められ、さらに天正11年(1589)義秀の代にも攻められている。
その後、車氏は佐竹の家臣となる。
最後の城主が猛将、車丹波守猛虎である。

したがって、車城は2あるいは3回攻撃を受けていることになる。
そのいずれか、あるいは全てにおいて、ここが陣城として使われた可能性がある。
陣城とすれば、麓の平坦地が相応しいように思える。
陣城として造ったものを隠居城に転用したものか、その逆なのかは分からない。
ここは車城から良く見え、威嚇効果が抜群である。
西側の山には背後からの奇襲に備えて物見があったであろう。

今残る遺構をみれば、山側の遺構は背後からの奇襲に備えた城郭といったレベルではない。
尾根や谷部も含め山全体を要塞化した精緻な構造を持った山城である。

何となく、賤ケ岳付近の織豊系の陣城にも似る。
ただし、曲輪内は十分に精緻されていない部分もあり、居住を目的にはしていないと思われる。
これだけの構造と工事量を持つ城、これが陣城の規模ではない。
車城の向城、出城と考えた方が合理的である。

向城とすれば、花園川上流方面の監視と東下を通る街道を両側から抑える目的だったのではないだろうか?
果たしてこの城を整備したのは岩城氏か、佐竹氏か?かなり高度な造りであるので、後の時代である佐竹氏時代か?
戦国末期、岩城氏は佐竹氏に支配されるが、その直前くらいの話だろうか?
この城、広葉落葉樹が多いので冬場は非常にきれいに遺構が見えると思います。
行くなら是非、冬場に。
果たして、この城から何を感じとるか。

車城(北茨城市華川町)
JR常磐線磯原駅の北西3.5km、常盤自動車道 北茨城インターチェンジから2kmほど福島県方向に走行して、左手に見えてくる岡が車城址である。
「群馬城」、「牛渕城」、「臼庭城」という別名もある。

阿武隈山系の南麓の半島状丘陵地に位置し、岡の比高は約40m。南北に約400mの城域を持つ。
城のある岡の東西は急斜面であり、低地に花園川の支流が流れ、周囲は水田地帯となっている。
城は典型的な直線連郭式であり、南側が大手口になる。

その大手口付近が水田地帯より一段高い平場@になっている。
この平場は居館の地ではなかっただろうか。
大手口を上がると、まず、岩盤を削った切通しAを通る。
多分、ここは当時のままであり、木戸があり、天然の大手門であったのだろう。

その先、四、五、六郭の切岸が東西に3つ並び、そこを過ぎると堀切Bがあり、その北側が二郭である。
二郭は120m×30mの細長い曲輪である。
この付近の曲輪、内部の藪が凄い。

切岸の勾配は急である。
この大手道Cは本郭に建つ八幡神社の参道でもあり、腰曲輪を通っている。
犬走りでもあるのだろう。
西側の斜面を見ると下にも腰曲輪があるのが分かる。

二郭の北側は切通しの堀切Dとなり、赤い鳥居が建ち、井戸跡がある。
堀底道を進むと二郭を経由して本郭Eに到達する。
本郭の入口には大きな岩があり、ここに木戸が置かれていたものと思われる。

本郭には八幡神社が建つ。本郭の周囲には土塁は見られない。100m×30mほどの広さがある。
本郭の北側は堀切Fとなっているが、2段構造であり、深さは10m以上あり、本郭側の切岸Gの勾配は鋭い。
自然地形に手を加えたものであろうが、ここまで掘るのは大工事量である。

本郭の西下に犬走りが通り、堀切を越え、北側の曲輪Hに通じるが、この曲輪内も藪状態。
結局、満足に歩けるのは神社境内となった本郭とそこまでも参道くらいである。

鳥瞰図は北茨城市史及び「茨城の城郭」掲載の縄張図と現地調査を基に描いたものである。
規模は大きいがそれほど堅固とも思えない。
南側の居館の緊急時避難所であり、米倉、武器庫、金蔵などの重要物資を保管するために広い曲輪を持っていたのか、遠征する軍勢の宿営地として整備された城なのであろう。
特に、この付近ではこの城以上に広い曲輪を多く持つ城はなく、宿城としての条件は群を抜いているように思える。

「新編常陸国誌」によれば、築城は鎌倉末期嘉元年間(1303−06)臼庭加賀守によると言い、後に岩城二階堂氏の一族、砥上氏が車氏を称して居城したという。
文明17年(1485)岩城常隆の侵攻を受けて佐竹領侵攻の拠点とされ、常隆は弟の隆景を置き、車氏を復興させたが、その子孫は佐竹氏に従うようになった。

その最後の当主が猛将、車丹波守猛虎である。
彼は関が原の戦いの直前、佐竹義宣より上杉氏に秘密裡に派遣され、伊達氏との戦いで活躍する。
当時を扱った小説にも度々、登場する人物である。

関が原の戦後はこの地に戻り、佐竹氏の秋田移封に同行せず、この地に留まっていた。
その後、徳川氏に渡った水戸城奪還を企て処刑されたというが、実際は不穏分子の車猛虎を水戸徳川氏が適当な理由で抹殺したともいうのが真実らしい。

@城址岡先端部の段差上は館跡か? Aここの切通しは木戸があったのでは。 B二郭と四郭間の堀切
C八幡神社の参道は犬走りか D本郭と二郭間の堀切 E本郭に建つ八幡神社
F本郭背後の大堀切 G Fの堀底から見上げた本郭 H本郭北側の曲輪は藪だらけ。

なお、TV「水戸黄門」に出てくる風車弥七は猛虎の弟、善七がモデルとともいう。
さらにエピソードは続く、「フーテンの寅さん」こと「車寅次郎」のネーミングは車猛虎がヒントともいう。

さらには城下に「桜」という字名まであり、どこまで真実か定かでないが、話題に事欠かない城である。
しかし、その話題性の高さに比べて寂びれた城址であり、整備はされていない。
廃城は関が原の戦い後であろう。