大戸館(茨城町大戸)
茨城町に「大戸館」が存在していたことが明治時代に編集された常陸国の地誌「新編常陸国誌」に記載される。
しかし、今までその場所がどこか、分からない状態であった。
2021年、それらしい館と思われる遺構が見つかったという情報はもたらされた。

そこで茨城大学のT教授や学生さんらとともに地元のU氏の案内で調査を行った結果、断言はできないが、ここが大戸館の可能性が極めて高いという結論を出すに至った。


新編常陸国誌では大戸館について
「茨城郡大戸村大城坪という所にあり、北に門という所あり、また、陣所跡あり、四方15間(約30m弱)ほど、高土手を構え、堀あり、今は百姓の分付山となる。是大掾の故墟、大掾系図に大戸清幹石川家幹これを吉田二頭とも言うとも見えたり」と記載される。

ここ、茨城町大戸はすぐ北が水戸市である。
と言うより茨城町の一部が水戸市に食い込んだような場所である。
南側を北関東自動車道が通り、直ぐ南で東関東自動車道が合流する茨城町JCTがある。

地区の南側は涸沼に流れ込む涸沼前川が流れる標高10mの低地があり、そこを北から見下ろす標高30mほどの台地がある。

大戸館(一応、断定的に書く。)は涸沼前川とその支流 小橋川に挟まれた下郷地区の西端、小橋川の低地を見下ろす台地の縁に位置する。
館跡の西北西約800mには水戸医療センターが位置する。

この遺構が知られていなかったのは台地縁部の藪の中に存在していたからである。
規模も小さいのでわずかの地元の人は知っていたであろうが、明確に城館であるという認識は持たなかったと思われる。

驚いたことに館はほぼ完存状態であった。

大きさは新編常陸国誌の記述と一致し、土塁が全周する点も同様である。
曲輪内からは台地続きの東側部分では土塁の高さが約2mあり、それ以外の部分は1m低度である。
帯曲輪からは約3mあり切岸も鋭い。
また、東側以外は谷津が入り堀のようになっている。

「大城坪」という字は分からない。
明治時代のこの付近の字を調べても「大城坪」は確認できない。

北にある門という場所も分からない。
館の虎口は南側にあり、立派な枡形構造になっている。
ただし、そこを出ても谷津に下るだけであり、谷津側から登るのが大手道というのもおかしい。
おそらく、北東端の堀のような場所から入り、帯曲輪を3/4周させて南の虎口から入れていたのであろう。
(現在、北東側から土塁上に登って曲輪内に入るようになっているが、本来の入り口までの距離が長くなるので、それを短縮するための後世、土塁の一部を崩したものであろう。)
この登城ルートが本来のものなら「北にある門」とは北東の堀のような場所を指しているのではないかと思う。

「陣所」が登場するが、北西に「西屋敷」という場所があり、そのことかもしれない。
その西屋敷があった場所は削平され水田になっているが、中世の土器が見つかっており、居館だったと思われる。
以上のようにこの遺構はかなり新編常陸国誌の記述を満たしているのである。果たしてここか?

なお、この遺構、方形の単郭ではあるが、東側に突き出した形となっている。
そこの先端の土塁が高いのでここに物見の櫓があったかもしれない。
おそらく突起部の外側には堀があったと思われるが、堀は畑となって湮滅しているものと思われる。

なお、U氏によると、ここから約1km北に二重堀切という場所があり、地名通りに二重堀切が存在していたという。
この二重堀切は下のように戦後間もないころの米軍が昭和22年に撮影した航空写真に写っている。

現在、湮滅しているがその場所を照合すると、桜の郷北交差点から北東の水戸市小吹町方面の延びる道路がその跡地である。
この二重堀切は谷津に東西を侵食され南北延びる半島状台地を分断するのが役割であったと推定される。

そうなるとこの下郷地区には北以外の3方向を谷津に囲まれ、台地続きの北側を二重堀切で区画されていたことになる。
すなわち、ここには城砦集落が存在していた可能性がある。
台地の東には「馬場」という地名があり、館があったという情報もある。
それが東屋敷か?

大戸館は大掾氏系の石川氏の館とされるが、遺構の姿は戦国時代最盛期の砦といった造りである。
大掾氏が支配していた時期である1400年代より、後の時代である江戸氏が支配していた頃のものと思われる。

海老沢館と内出館(茨城町海老沢)
海老沢地区と本郷地区の間には南に延びる谷津がある。
県道16号線から600mほど南に入った部分の本郷側の岡が内出館、その南の対岸が海老沢館である。


←は館付近の航空写真である。
上の赤く塗った部分が内出館。下が海老沢館。その間に谷津がある。
谷津の上の方向が涸沼である。

↑は海老沢館前から見た内出館。
←は内出館内部。
林に沿って高さ2mほどの土塁が覆う。
撮影位置付近に堀が存在したと思われる。

比高は20m程度である。
館のある場所は現在は複雑に入り組んだ岡の先端部であり非常に行きにくい不便な場所である。
この谷津、現在は水田になっているが、かつては涸沼の入り江であったようであり、館下まで舟が入ったらしい。
陸からは不便な場所であるが、舟では便利な場所であったようである。
なお、この谷津の南が勘十郎堀である。

この谷津を利用して江戸時代、水戸藩が北浦に続く巴川に通じる運河を開設しようとして失敗している。
その両館であるが、内出館は本郷中心部から東500mほどの岡縁部にある。
北側の墓地と牛小屋あり、その南側に位置する。
岡の縁部に堀が回るが藪が酷い。
岡に続く西側には堀と土塁が存在したと思われるが湮滅している。

80m×60mほどの方形館であったと思われる。

一方の海老沢館は完存状態にあるが、凄い藪である。
76m×60mの方形館であるが、土塁の高さが凄い。 4,5mはある。堀は東側以外を回る。
南側の堀@は半分埋まった状態であるが、土塁は完全である。
西側の堀Aもかなり埋まっている。
北側の谷津に面して堀Bが存在する。

館内部は西側に段がある2段構造であるが、これは地形を補正するものらしい。
西側の土塁は武者走りのような段がある。


↑ 北側涸沼方向から見た海老沢館。右手にちらりと見えるのが内出館。
 本気で江戸時代、この谷津に水戸藩は運河を通そうとしたのだろうか?


東側の土塁Cは特に高く、高さ5mほどある。
虎口は四方にあるが、明確に虎口と言えるのは南側Dと東側だろう。

@館南側の堀はすぐ南まで畑になっており埋まっている。 A館西側の堀と土塁 B館北側の横堀と土塁。
江戸氏家臣の海老沢氏の館というが、戦国末期には海老沢氏は北の天古崎城に移り、江戸氏滅亡後、その地、南島田地区で帰農し子孫が続いている。

海老沢氏の名前の元となったこの海老沢地区には子孫はいないのだという。

したがい、この海老沢館は戦国末期まで機能していたとすれば海老沢氏以外の者が館主であったものと思われる。今の状況からすれば土塁はそれほど風化していない。
おそらく戦国末期まで機能していたものと思われる。

航空写真は国土地理院が昭和49年撮影のもの。
C館東側の土塁は高さが5mほどある。 D館内から見た南側の虎口

鳥羽田城(茨城町鳥羽田)
「とりはた」または「とっぱた」と読むそうである。
茨城町南東部にオールドオーチャードGCがある。東関東自動車道茨城空港北ICの北1.5q地点である。
城はCGの南西端部の北に突き出た尾根状の比高20mほどの岡にある。


→の写真の畑部分が曲輪U、Vであるが、遺構はほとんど湮滅している。

岡の西側に南から北にかけて寛政川に合流する川が流れる幅200〜300mほどの帯状の水田地帯となっている。
岡の東はその川に合流する小川の谷津となっており、現在はCGの調整池があり、岡はGCのクラブハウスのすぐ西側に突き出た部分にあたる。
CGの用地となり湮滅したようなことが書かれているが、城域はCG用地からは外れている。
むしろ耕地化で遺構のほとんどが湮滅しているのである。

城域は全長300mほどあり、3郭が並ぶ直線連郭式で、中央部の曲輪Uが主郭であったらしいが、耕地となり堀、土塁は湮滅している。
辛うじて先端部の曲輪Tの土塁と堀は確認することができる。

↑西から見た城址。左端が曲輪Tにあたる。

しかし、この先端の曲輪T、城が攻撃された場合の最終的な抵抗の場であるにも係らず、堀、土塁以外の曲輪内は完全な自然地形である。
地勢も当然ながら先端部の方が低く、それほど価値がある場所ではないが、放置しておくのも城の防衛上好ましくないので整備したという感じである。
この曲輪に隣接する南側の主郭である曲輪Uの北半分も自然地形である。
結局、耕地となった部分だけが、平坦に加工された居住エリアだったようである。
逆に言えば、平坦に加工されていたため、容易に畑に転用できたのであろう。

北側の部分は自然地形がほとんどであったため、耕地にすることができず、結果として遺構が残ったのであろう。
城へは西側すそから登る道がある。一度、北先端に登り、V字ターンして南に向かうように道がついているが倒木等で道は消えつつある。
尾根上を南に向かうが、尾根上は比較的平坦で北に向けて緩やかに傾斜しているが、ほとんど自然地形であり「場所を間違えたのではないか?」との疑念が脳裏に浮かぶくらいである。
100mほど進むと、土塁があり、土橋と堀@、Aがある。それでようやく疑念が晴れる。

東側はクランク状Bに折れている。尾根を分断する堀は深さ2m程度、幅は8mほど。全長は60mくらいであろうか。
南側部分に土塁はなく、北側が上位の曲輪であることが分る。
しかし、風化と埋没が著しい。その南側も畑となっている部分までは、まったく自然地形である。

@曲輪T、U間の堀、藪に埋もれている。 A中央部の土橋であるが、風化が激しい。 B東側は堀と土塁がクランクしている。

城主の鳥羽田氏は鹿島一族の出と言われる。
応永19年(1412)に「鳥膚孫次郎」の名が、天文5年(1526)奥谷の住人の名に「鳥膚大隅守貞増」の名が、天正の頃の記録に鳥羽田越中守・同与七郎の名が見える。
いくつかの一族に分かれていたようであるが、戦国時代は江戸氏の家臣となっていたようである。
江戸氏滅亡で帰農し、今もこの付近に子孫が住む。
航空写真は国土地理院が昭和49年撮影のもの。

網掛館(茨城町網掛)
茨城町東端の網掛地区、涸沼を北に望む標高20mほどの岡にある。
場所は涸沼南岸「いこいの村 涸沼」の西にある県道16号線の網掛三叉路を南の園芸リサイクルセンター方面に向かう町道を行き、500mほど走行し、岡平坦部に出た場所の西側の山林である。
この山林と町道の間には民家があるので、少し南側のビニールハウスがある畑脇から西に入る農道に迂回して山林にアクセスする。

館は方形館であるが、内部は酷い藪である。
南側などは堀と土塁、虎口、土橋が明確であるが堀はかなり埋没しており土塁上からは2m程度の深さしかない。


↑ 南から見た館跡の林。
 右手の農道を歩き、林に突入すると、下の写真の堀と土塁にお目にかかれる。


藪のため大きさが把握しにくいが、航空写真から推定し120m四方以上あった可能性がある。

このような巨大な館であるが、茨城町史にも記載はない。
館主等は分らないが、西側は宮ヶ崎城がある。
涸沼の水運を管理する者が館主であり、館の規模からしてかなりの上位の家臣ではないかと思うが、これほどの規模の館で何の記録もないことも不思議である。
当時の勢力から推定し、江戸氏の家臣の館の可能性もあるが、西にある宮ヶ崎古館と規模は同じ程度であるが、埋没が激しい。
このため、戦国時代以前に機能を停止していた可能性も考えられる。航空写真は国土地理院が昭和49年撮影のもの。

網掛中落館(茨城町網掛)
多くの城館を見たがこの館は変わっている。
ごく小さい規模のものにすぎないが、異形の城館である。
人によってはアイヌの「チャシ」に似ているともいう。
航空写真からも楕円形をした館跡が明確に確認できる。

場所は涸沼南岸にある網掛公園の南方向に1km、南西から涸沼に流れ込む小川が開析した谷津に望む西側の岡の末端部である。
周囲は畑であり、ここに行くには県道16号線の神明来神社付近に車を置き、農道を歩いた方がよいだろう。



この農道、走れるのは軽トラ程度、乗用車では無理である。雨上がりナドグチャグチャ、乾燥したら砂嵐である。
農道を歩いていくと、前方に何やら変わったものが見えてくる。館の土塁であるが、湾曲していて沖縄の城の石垣のようにも見える。
児童公園の「たこの遊具」のようにも見える。

近づくと高さ3mのテーブル状の岡があり、西側を土塁が覆い、後世のものと思われる入口がある。
内部は畑であり、東西40m、南北30mほどの楕円形である。
サツマイモ畑に使われている。

西側の土塁は土盛りをして造成されたようであり、盛り土には縄文土器がたくさん混じっていた。
北側は幅15mほどの腰曲輪となっている。

おそらく谷津に面し、谷津の支流となる小さな谷津に囲まれた部分を土木工事で造成したのがこの館なのであろう。

この館の西500mには宮ヶ崎古館があるが、この館と関係があるのか、ないのか分からない。

↑ 北側から見た館跡。右手が土塁部。切岸の加工度は高く鋭い。手前の畑は腰曲輪。
→ 館内部は畑である。


形状にもまったく共通点はない。同時代のものとも思えない。
目立たない場所にあるため、住民の非常時の隠れ家のような場所ではなかったかと思う。

この館も茨城町史にも記載はない。航空写真は国土地理院が昭和49年撮影のもの。

奥谷館(茨城町奥谷)と小堤館(茨城町小堤)
茨城町役場の南の岡にこの2つの館があった。両館の間を旧国道6号(県道16号)が通る。
奥谷(おくのや)館はその西側、御霊神社の南西側にあったという。
その跡地には遺構も見当たらず、畑と宅地だけである。

現在の新国道6号線工事で昭和61年に発掘が行われ、堀跡などが発見され、陶器が出土したという。
堀は長さが113m、深さは1.5mであったという。
遺物からは室町時代以前にすでに機能はなくしていたらしい。
この地は北に涸沼川が流れ、かつては涸沼の西端にあたり、港があったらしい。
そこを見下ろす南側の岡の端にある。


↑発掘された堀がバッチリ写っている。
奥谷館跡は湮滅している。 小堤館跡・・・らしいが?

「茨城町史」はこの館を古代から続く荘園「小鶴南庄」の政庁であったとしている。
もし、戦闘、防衛を考慮した館なら南東にある御霊神社がある高台の方が場所としてはふさわしい場所である。
神社の地から館内が全て見えてしまうのである。
武家の館ではありえないことである。

一方の旧6号の東側の岡にあったという小堤館の場所も涸沼川を望む南側の岡の先端である。
ここも遺構らしいものは見当たらない。

奥谷館同様、「小鶴南庄」に関わる館であったと思われる。
荘園を管理する政庁であったとともに涸沼の水運に関わる港を管理していたのであろう。
航空写真は国土地理院が昭和61年撮影のもの。
ここには奥谷館の発掘で検出された堀がくっきり写っていた。

神宿館(茨城町神宿)
県道16号線沿いにある神宿地区の真照寺の西側が館跡という。
この場所は小幡城方面から北東に向けて涸沼方面に流れる寛政川の低地が西に位置し、北に涸沼が望める比高25mほどの岡の先端部である。
この岡、南から緩く北に向けて傾斜している。岡の下には港があったと思われ
涸沼の水運に関わる城であろう。
館の遺構は耕地化され見当たらない。
100m四方の方形館であったと思われる。


館跡はただの畑、湮滅している。

「茨城町史」はここの神宿という地名は鹿島一族、成幹の二男保幹が神谷戸次郎と名乗り、これが神宿につながるという。
しかし、神谷戸保幹は鎌倉初期に没落し、南北朝から室町期には烟田重幹の二男胤幹が神谷戸(神谷田)氏を再興しているので彼の館ということが間違いないだろうとしている。
寛政川の対岸、西側が天古崎城である。
天古崎城の城主は海老沢館から移った海老沢氏であるが、これは戦国末期のことであり、その当時も神谷戸はここで続いていたのだろうか。
航空写真は国土地理院が昭和49年撮影のもの。