頃藤天道山砦(大子町頃藤)36.7231、140.3897
2020年に新たに確認された城館である。
ただし、物見台程度の規模で、遺構も小さく風化・埋没が進んでおり、かなり多くの城郭遺構を見た実績のある者でないと城郭との識別は難しいと思われる。
場所は大子町の頃藤、大子町立南中学校の東にある山である。
標高は170m、中学校からの比高は約57mである。
山頂には天道社の小さな祠が祀られ、天道山と呼ばれる。
斜面部は藪が多いが、尾根部は参道にもなっているためか、比較的歩きやすい。
砦のある山は東の長福山から派生する尾根の末端部の盛り上がった部分であり、南側と北側に谷が入っているため、ほぼ独立した形となっている。
遺構は天道社の祠がある直径約7mの山頂部@から南と北に下る尾根に段々状の曲輪が構築され、このうち南側に下る尾根には曲輪が重なるだけであり、堀切は存在しない。
一方、北側は2段の曲輪の下に小規模な堀切が存在し、さらに曲輪1つを経て、北に巨大な竪堀Aが下る。
この竪堀は自然の谷を利用し、その最上部を掘り下げた感じである。
幅は最上部で約15mある。
竪堀の両側は縦土塁状になっている。
@山頂に建つ天道社の祠 | A山頂の北下から竪堀が下る | 西側から見た天道山、下の赤い建物は南中体育館 |
その竪堀西側の尾根が大手道(登城路)と思われ、さらに下ると中継地と思われる径約6mの平坦地がある。
南中学校付近に管理者の居館があったのではないかと思われる。
この尾根沿いが最も登りやすいため、防備も厳重にしていると推定される。
一方、竪堀最上部から東に急坂を下ると、山頂から比高約25m下に東西約50m、南北約20mの比較的平坦な場所がある。
しかし、周囲には城郭遺構は確認できない。
山からは径約1.5qの頃藤の小盆地全体が眺望でき、ここを通る南郷街道の監視、下津原要害から頃藤城に情報を伝達するための狼煙台、東下に平場があるため緊急時の住民の一時避難施設、さらに東の長福山方面に住民を避難させるための退避援護施設としての役目が想定されよう。
規模、位置からして頃藤城の管理下にある支城であろう。
なお、天道社(または天道塚)は天道念仏に係り、天道とはおてんとうさま・太陽のこと、太陽の恵みに感謝して念仏を唱え、五穀豊穣などを祈る素朴な信仰。五穀豊穣を願う農民の素朴な太陽信仰と念仏が合わさったものという。
太陽を崇め感謝する表れから天祭りともいう。
ルーツは縄文時代まで遡るという。この祀りが行われた斎場の跡地が天道塚が建つ場所という。
一般的に天道念仏が行なわれた場所は、「天道塚」とか「天道山」と呼称される陽当たりの良い丘の上や山の上、海を一望できる高台の所が選ばれる。
頃藤城(大子町頃藤)
小川城とも言う。
水郡線上小川駅の南に久慈川が流れるが、その対岸の台地が城址。
久慈川はこの付近で大きく蛇行し、この台地の北から東を回って西方向に流れる。
このため、台地は久慈川に突き出た半島状の地形となっている。
この台地は上から見ると「しゃもじ」型をしており長さは東西約500m。
久慈川に臨む北側と南側は比高40〜50mの崖であるが、突端部はやや低くなり、久慈川の河原に降りることができる。
現在は住宅地や畑地となっており、遺構はわずかに確認されるのみである。 台地先端部に水郡線と国道118号線が通る。また、付け根部には関戸神社がある。 3つの郭からなり、本郭(御城)は半島状台地の中心部、水郡線の西側の高台にあり、70m四方程度の広さを持つ。 曲輪内@はかつては畑だったが、現在は桜が植えられている。 |
北東端部に城址碑Aが建つ。水郡線と国道118号線が通る部分が下城であり、本郭より10m程低い。
水郡線が堀底のような場所を通るが、これは遺構を利用したものではないそうである。
大子町史では、御城、下城のみを城域とし、下城がさらに2つに分かれているとしている。
本郭西側に台地を掘り切るように幅15mの堀Bがあり、その西側の民家敷地内にも土塁がある。
ここが中城であるが、台地付根部までも城域と思われる。
関戸神社から台地を横断する部分が若干低い感じであり、ここに堀が存在していた可能性もある。
さらに付け根部西の民家敷地は切岸状になっており、これも城郭遺構と思われる。
@御城内部 | A御城の北東端にある城址碑 | B御城と中城間の堀 |
その西側の台地上の字を「館」と言い、ここにも何らかの遺構は存在していたと思われる。
なお、かつての南郷街道は関戸神社付近を通っていたと言う。
このことから、山方城同様、街道が城の中を横断していたことになる。
街道を扼する役目と城の下に「館の渡し」という舟渡しの跡があるように、水運も管理監視していた役目があったと思われる。
しかし、この城の本来の姿は鉱山管理事務所であったようである。
この台地自体が金鉱山であり、台地内部は坑道が縦横無人に通っており、工事をすると穴が出てきたり、陥没が起きたりしたという。
← 平成23年3月11日の東日本大震災では茶畑の中央部が陥没し、その穴がそのまま残っていた。 地形上は久慈川が天然の水堀となり、西側も山であるため要害堅固である。 久慈川に沿って南下しようとすればこの城が前面に立ちふさがることになる。 この立地条件としては長野県の牧野島城とそっくりである。 山田右近大夫道定の築城という伝説があるが確証はない。 建治年間(1275〜1278)、佐竹7代義胤の子宗義が小川氏を称した居城したという。 これが事実なら金山管理のためにこの地に来たのであろう。 山入の乱前後、大子地方は白河結城氏の領土となっていたため、この城が佐竹氏の最前線であった。 その後、この城等を橋頭堡に佐竹氏は大子に攻め込み、白河結城氏を駆逐して大子地方を支配下に置いた。 |
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小川氏は小田野氏の配下としてその後もこの城におり、文禄年間の城主小川上総介の知行は100石であったとの記録が残る。 (これは小川氏本人の実収入か?この山間の地では稲作自体が現在も困難である。おそらく金山管理や木材での収入が多かったのではないかと推定する。) 城は慶長7年、佐竹氏の秋田移封に小川氏が同行し、廃城となったという。 なお、本郭西側の畑の奥に何やら解説板が立っていた。 ←「島崎殿祠」と言われるものである。 |
島崎氏は天正18年(1591)南方33館主謀殺事件で佐竹義宣によって誘殺され島崎家は滅亡してしまうが、「新編常陸国誌」によると島崎安定と子、徳一丸は、小川大和守が岳父であったため、この頃藤城に逃れたが、佐竹義宣からの圧力で殺害せざるを得なくなり、家臣の清水信濃に命じて殺したという。
清水信濃は鉄砲で射殺し、祟りを怖れて小祠を建てたという。
頃藤要害(大子町頃藤)
頃藤城のある半島状の岡東端部を国道118号線とJR水郡線が通るが、国道118号線が久慈川にかかる橋、御城橋を渡った南の正面の標高172mの山が城址である。
久慈川からの比高は100mほどである。
城へは国道118号線沿いにある神長商店脇から東の男体山方面に行く道を行き、400mほど進むと道が分岐する場所に空き地がある。
ここに車が止めれる。その場所の西側に山に登る道があるのでそこを登る。
↑は久慈川の西岸、頃藤城西側の関戸神社付近から見た 城址の山である。 この道はおそらく古道であると思われるが、倒木等でかなり荒れている。 |
登って行くと、段々状の場所に出るが、ここは植林に伴うものであろう。
そして、堀切@のような場所に出る。ここは古道の切通しであろう。そこには石の社が建っている。
ここから西の尾根を上がっていると城址なのだが、北側は崖になっており、非常に危険である。
尾根を行くと、堀切Aがあり、ピークになる。このピークの南側斜面に2つの腰曲輪がある。
ピークの西Bが鞍部となり、そこから10mほど高い場所が主郭部、途中に腰曲輪があり、北側に犬走りが延びている。
主郭Cは13m×7mの広さ、北に7mほどの腰曲輪、南に長さ20mの曲輪、さらに南東に延びる尾根に幅10mほどの2段の腰曲輪Dがあり、その先はただの尾根となる。
西側は2段の曲輪がある。この主郭部は段々の曲輪を重ねただけのものである。
@ 東端の鞍部の切通は古道跡だろう。 | A 鞍部の切通しを西に向かうと堀切がある。 | B 堀切西のピークと西側に聳える主郭部 |
総じて単純かつ小規模であり、古い印象の城址である。 頃藤城とは久慈川を挟んで対岸であり、ここから頃藤城内は一望のもとである。 頃藤城攻撃の付け城のような感じも受けるが、山入の乱で佐竹氏がもっとも弱体化した頃、頃藤城も一時白河結城氏に占領されたというので、佐竹氏が奪還のために取り立てたのかもしれない。 |
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C 山頂の主郭部は平坦であるが狭い。 | D南東の尾根の腰曲輪群 |
しかし、ここからは頃藤城内が一望のもとであるので、本来は頃藤城と一体の城であろう。
やはり、頃藤城への攻撃を牽制するとともに久慈川の水運を両岸から管理する意味の城というべきであろう。
大子地方の佐竹氏と白河結城氏間で争奪戦を演じていた頃は、頃藤城が佐竹側の最前線基地であり、頃藤要害も存在意義があったようだ。
大子地方を佐竹氏が完全制圧すると狼煙台程度の存在意義しかなくなったのではないかと思う。
頃藤古城(大子町頃藤)
JR水郡線上小川駅の西300mほどにある神賀歯科医院付近が館跡である。
医院の北側に高さ3、4mほどの立派な土塁が存在している。
北に回ってみると北側90mにわたり土塁が存在する。
東側から南側に土塁が続き、北西端は櫓台があり、そこから南側に土塁と堀@が延びる。
この北西端櫓台付近は特に見事である。
土塁の外側には堀があったようであり、虎口Aは北側にあったのではないかと思われる。
現在は歯科医院の裏口となり、コンクリートの門となっている。
外側には土橋があり、両側は堀だったようである。
ここを出ると、北側は地勢が高くなって行く。
@館跡西側の見事な土塁と堀跡 | A北側の虎口?土橋があり、両側は堀だったようである。 | B南側は水郡線の線路等になり湮滅している。 |
館の範囲は南側の久慈川の縁部分まで続いていたようであるが、水郡線の線路Bや材木工場用地となっており、南半分は湮滅している。
湮滅部分も入れると本来は90m×70m程度の大きさの方形館であったと思われる。
南は久慈川が流れ、この方面には土塁はなかったと思われる。
←C館内東側の土塁下に建つ城址碑。 佐竹氏の紋である五扇紋が入っている。 館の伝承としては、頃藤城主隠居の館とか、姫が住んだとかとの話がある。 しかし、隠居の館を置くとすれば、このような低い場所に置くのではなく、より要害性の高い現在の国道118号線が通る東の高台に置くべきである。 久慈川河畔のこの場所に置いたことは久慈川の河川水運を管理するためであろう。 ここは、居館というより河川水運管理事務所、渡河管理事務所というべき性格のものではなかったかと思う。 鳥瞰図は昭和50年に国土地理院が撮影したものを加工。 |
相川要害(大子町上郷)
大子から栃木県馬頭方面に通じる国道461号線の茨城、栃木県境近く、県道158号線南下すると相川上郷地区になる。
過疎の町、大子の中でもさらに過疎化が進んだ地区である。
ここに佐竹家臣、野内氏の居館「相川館」があった。
その場所は「堀の内」と呼ばれているが、遺構らしいものはない。 切岸や堀を利用した道路が辛うじて館を思わせるだけである。 この堀の内の南東の山に詰めの城が存在したという。 左が堀の内から見たその山である。確かにこの山に遺構は存在したのである。 しかし、その場所を聞こうにも人がいない。 立派な家があるのであるが、無人状態なのだと言う。 つくづく過疎化の実態を感じるほどであった。 仕方がないので、南東のこの山ではないかという山の尾根先端から突入。 その山、南から北に突き出た尾根状の山である。 とは言え、沢で侵食され、尾根は複雑である。 |
尾根に出て少し、南に進むと堀切Dがあるではないか。これは「当り」と期待を抱くが、その先はかなり進んでも何もない。 山道などもあるのだが、山に入る人もいないのだろうか、道も荒れて藪化しつつある。 そのうち藪に閉ざされてしまうだろう。 かなり進んでも手がかりが見つからないと、「撤退」の2文字が浮かんでくる。 「撤退」は「敗退」であり、肉体的、時間的ロスは測りしれない。何と言っても精神的ダメージが一番答える。 このため、一か八か、山頂部に直攀を試みる。・・・で、登った先にあったのは、広い空間が。 3段ほどに分れ南北80m、東西30m程度のやや北に傾斜した平坦場所Bである。 西側には削り残しの土塁が覆う。 東側も尾根が土塁状になっている。北側には虎口Cがある。 一体ここは何なのか当初は困惑する。 一見、畑の跡のようにも見える。 よく、江戸時代に年貢を誤魔化すために山中に隠し田があったなんてこともあるが、ここは少なくとも、田ではない。 と言って畑にしては高い場所にありすぎる。 ここより低い尾根筋にいくらでも畑に出来る場所はあるだろう。 まさか、ここで麻薬を栽培?いや、それはないだろう。 疑問を抱きながら南に向かうと最高場所はだらだらした感じではあるが、虎口らしい部分が存在する。 その南側の鞍部になる場所の手前に堀@が存在し、付近にちゃんとした腰曲輪Aが存在した。 この場所の標高は280m、堀の内地区からの比高は80mほどである。 やはり、城郭遺構で間違いないようである。 さらに南にもピークがあるが、そこには何もなかった。 したがって、あの平坦地は隠し曲輪のようなものだろうか。 似たような遺構がこの大子の八幡館や天神山城にも存在する。 この地の城館の特徴なのかもしれない。 |
@南端の堀切。かなり埋もれているが本物。 | A最箇所東側斜面の腰曲輪 | B土塁に囲まれた平坦部、3段ほどになっている。 |
さしずめ、この場所は緊急時の野内氏一族や住民の避難場所ではなかったかと思う。 なお、この平坦地の東の谷には沢があり、水場があったようである。 形式的にはかなり古い感じの城であり、佐竹氏と白河結城氏が大子地方を奪い合ったころの戦国中期のころのものではないだろうか。 |
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C平坦部北端の切岸と虎口 | D北に延びる尾根の堀切、この前後には遺構がない。 |
下津原要害(大子町下津原)
Pの、遺跡侵攻記にのみ紹介されていた城である。その城にPさんの案内で行った。
袋田から国道118号線を南下すると、久慈川に沿って国道も大きく蛇行する。
水郡線は久慈川の西の崖下をとおり、鷹巣トンネルに入る。
そのトンネルに入る手前の西の山が城址である。
この山は鷹巣山から北に延びた尾根筋中腹にあたり、標高は246m、久慈川からの比高は180mほどある。
尾根の東西は急勾配であり、特に東側の久慈川側は絶壁状である。
国道118号線から久慈川越えに見ても急勾配で迫って来るほどの迫力の山であるが、登るのも確かにきつい。
山には北側の先端部から入る。近年、鷹巣山へのハイキングコースが整備され、城址に行くのには非常に楽になった。
・・・とは言え、藪の中を直攀しないので、迷わずに済むだけである。
正直、このハイキングコース、きつい。
普通は尾根をジグザグに登るのであるが、急勾配の斜面に直線的に道が付いているのである。
↑ 北東側国道118号線から見た城址。T、Uはピークの位置。 鳥瞰図の記号と相対する。 左の高い山が鷹巣山、そこから北に派生した尾根に城がある。 |
結局、這いつくばって登ることになる。当然、消耗も激しい。
これで遺構がなかったら、どこに当り散らせばよいのか。
まあ、ともかくそんな道を進んで行く。中腹部に少し平坦な場所がある。
そこが段々となっており、虎口のような場所Eになっている。
ここも遺構なのかどうか気になる。
ここから急な登りとなり、登り詰めた場所がピークUである。
ここには特段の遺構はなく、頂上が平坦になっているだけであるが、北への物見の場所であったようである。
このピークUの南に平坦な場所があり、ここからが、本格的な城域である。
@主郭部入口部にある横堀 | A主郭部北下の腰曲輪、平坦度は高い。 | B主郭のあるピークT、狭い! |
C主郭南下の堀切 | D主郭南側2本目の巨大堀切から下る竪堀 | E北の中腹部にある虎口状遺構。 |
この平坦地は南北60m、東西30mほどの広さがある。その南に横堀@がある。
かなり埋没しているが、長さは40m程度であろうか。
西側は高さ4mほどの切岸になっている。
この横堀、北側の平坦地に充満した敵への狙撃陣地のようにも思える。
横堀の東側は虎口状になっており、南側の曲輪に入るようになっている。
この南側の曲輪であるが、東に傾斜した緩斜面であり、明確な段差は見られない。
西側は土塁上通路のようになっており、そのまま、標高246mの南側にそびえるピークTBに繋がる。
そのピークの北側には3段ほどの腰曲輪Aがある。
突き出し幅は7mほど。平坦化の加工度は高い。
ピークTは長さ20m、幅4m程度に過ぎない。
←ピークTからは東の眼下には久慈川の流れと国道118号線が見える。 川までは高さが180mある。 この写真、ここに確かに来たというエビデンスでもある。 この山の下で南下した久慈川が東にカーブし、頃藤城のある上小川地区に出る。 ピークTの南は細尾根となり、堀切Cがあり、さらに20mほど南にも堀切Dがある。 この堀切は深さ、幅とも4m程度であり、かなり見事なものである。 その先は狼煙台のあった鷹巣山に続く細尾根となる。 |
この城も規模は小さいが、遺構の加工度も良好であり良く造られている。
北の下津原地区にあった土豪の館や住民の詰めの城であり、袋田方面と頃藤方面を結ぶ鷹巣山の狼煙台への接続地であったのであろう。
あるいはこの近くに金山が存在し、金山を守護する城であった可能性もあるかも知れない。
佐竹氏の秋田移封に同行しなかった下津原の家臣に60石取りの「細谷作介」の名が見える。
細谷氏の城であった可能性がある。
天神山城(大子町南田気)
この城もPの、遺跡侵攻記にのみ紹介されていた城である。その城にPさんの案内で行った。
水郡線袋田駅の西に久慈川が流れる。
その北西対岸の南田気の松葉地区の西端部に王子神社がある。
王子神社の鳥居から左手の道を進んでいくと貯水池があり、さらに南に進み沢を登って行くと、南側の山に登る道がある。
この道、沢にかかる木橋はすでに腐ってなく、道も崩壊しかかり、藪化が進みつつある。
この道を登って行った山頂部が城址である。
城のある山は西南のTV塔の建つ山から派生した尾根末端部に位置する。 標高は180m、久慈川からの比高は100mほどである。 ↑の写真は北東側国道118号沿いから見た城址である。↓が城址のある山。 手前の川は久慈川。右の高い山がTV塔の建つ山であるが、ここも城である。 城と言っても、極めて小さく、古風である。 |
@主郭北東下の腰曲輪 | A主郭北尾根の曲輪、藪がないのはここだけ。 | 登り口である北東下の王子神社。左の道を行く。 |
それだけならよいが、一面の藪状態であり、大きさ形状も把握できない。
困ったことに所々にタラの木が自生している。
冬場だから何とか行けるのである。
先に述べた道を登っていくと北側だけが開けた馬蹄形をしたくぼ地Vに出る。
大手曲輪のような場所である。直径は40mほどであろうか。
中央部に塚のような土壇がある。
そのくぼ地の周囲、くぼ地を両腕で抱え込むような尾根であるが、ここが曲輪と思えるが、実際は半分、自然地形である。
くぼ地の西が主郭Tであるが、30m×20m程度の広さ、南東側に同じ位の大きさの腰曲輪Uがある。
それ以外の方向に派生する小尾根にも腰曲輪@、Aがあり、北に延びる尾根付け根部には堀切か虎口らしき遺構が確認できる。
結局、この程度の小規模なものであり、麓の松葉地区に居館を構えた者の詰めの城ではなかったかと思う。
それが誰か分からないが、佐竹氏の秋田移封に同行しなかった南田気の家臣に100石取りの「山方吉内」の名が見える。
山方氏の城であった可能性がある。
戦国中期まで使われ、その後は狼煙台程度に使われたものであろう。