塩沢砦(大子町大沢)36.7382、140.3491
これを「砦」としていいものか?
城館の定番のパーツである土塁や大きな堀切があったはしているが、城館としてのまとまりはない。
どうやら金山に関わる施設のようなのである。

砦のある場所は、かなりの山間奥地である。車で行ったとしてもかなり歩かなくてはならない。
一番、迷わずに行けそうなルートは大子町役場南から槐沢沿いの林道に入り、標高361mの道坂峠まで行き、国土交通省の航空標識所のある標高447.6mの太郎山(ここも城館らしいが)まで歩き、太郎山から南に延びる尾根を南下する方法である。
道坂峠から太郎山に登らず、旧南郷道である古道を進むルートもあるが、藪化している。
途中の分岐からバイパスする道もあるが、分岐が分かりにくい。
南から旧南郷道を北上するルートもあるが、これも分かりにくいし、沢入口部からは比高が約230mもある。

遺構があるのは、太郎山から尾根を約800m南下した標高355.3mの「塩沢権現山」の山頂に建つ「富士権現」の境内を北端にそこから南約250mにかけての尾根沿いが範囲である。
この太郎山から下る尾根筋はかつて古道が通っていたようであり、尾根が広く歩きやすい。

@山頂の富士権現の周囲は土塁が囲む。 A富士権現にあった石臼。金鉱石の粉砕用だろう。 B富士権現の南下にある曲輪。
東下の塩沢から登ってくる古道が尾根の鞍部に上がり、峠になっている場所(標高321m)から尾根を南に比高約30mを登ると富士権現@がある。

その社の周囲を円形に土塁が覆う。
径は13mあり土塁の高さは境内からは50pに過ぎない。
南側に虎口があり、西側は腰曲輪になっている。
この形状は城館に良く見られ、古道である南郷道を監視する砦とも考えることができる。

しかし、砦なら周囲斜面がなだらかすぎる。
少なくとも北に下る尾根筋には堀切くらいはあってしかるべきであるが確認できない。
C富士権現から約150m南に広い場所がある。 D南端にある堀切

境内には石臼の破損品Aがあった。
これでピンときたのが、金山の存在である。
この付近は金山が沢山あり、埋められた坑道が多くあるらしい。
この権現は金山関係者の信仰の場であり、石臼は奉納品ではないのか。
尾根を南に下ると曲輪のような平坦地Bがあり、さらに下り、標高330m付近には南北約70×25mの広さを持つ平場Cがあり、南に深さ約3m、幅約7m、長さ約25mの大きな堀Dがある。

その南は堀切に面して土塁はあるが、先の尾根には何もない。
平場は金山に関わる鉱人の小屋や選鉱場等があった可能性がある。
堀は鉱区を示し、関係者以外の立入を禁じるための境界堀ではないかと思われる。

太郎山砦(大子町大沢/下津原/大子/南田気)36.7443、140.3499
名前は城館が存在していた場合の仮称である。
大子町中心部の南の標高447.6mの太郎山がある。ここには国土交通省の航空標識所がある。そこに行くには大子町役場南から槐沢沿いの林道に入り、標高361mの道坂峠まで車で行き、(できれば4WDが望ましい。
峠から先は車の乗り入れはできない。)そこから歩くことになる。
この太郎山には古道である南郷道(1本ではなく通行止め等も考慮し複数ルートあったようであり、時代によりそれも変わったらしい)のうち、南の塩沢の谷から登る街道が通っていたという。

この山、航空標識所のレーダーが設置されていることが示すようにこの付近の最高峰である。
眺望も抜群である。そこに古道が通る?となると城館があったのではないか?と思ってしまう。
そこで確認に来たのだが、既に中心部は航空標識所になって確認は不可能である。
明治時代の地図を見ると比較的平坦だったようである。
←@山頂部は航空識別所になっており、遺構の確認のしようがない。有刺鉄線の柵が斜めに設置されているのが異様。
しかし、施設になっていない周辺部を調べれば何らかの城郭遺構が残っているかもしれない。
で、施設周辺をウロチョロしたのだが、これが怖い。
何しろ周囲は崖のような急斜面、しかもテロを警戒しているのであろう施設周囲の柵自体が外側に傾いた「忍び返し」になっているのである。
もちろん有刺鉄線の塊である。
地震かなにかで柵が傾いたのかと思ったが、始めからか傾けて設置しているのである。

確かにこの施設を破壊すれば航空機の運航がメチャクチャになるだろうが・・・柵と崖の間に細道があるが崩れかかっている。
そこをそろりそろりと・・・この間抜けな姿は監視カメラにバッチリ捉えられていただろう。
確かに不審な姿であろう。監視している人にはどう見えたか?
「俺は不審者だが、テロリストじゃない!」幸い、パトカーが来る気配はなかった。

@東に延びる尾根にある堀切。唯一明確な遺構。 A東端にあるピーク。周囲には遺構はない。 B北斜面にある巨大な窪み。井戸または天水溜だろう。

と、話は本題に戻して・・・。
城郭遺構らしいものは東の南田気方面に約150m張り出している尾根筋に確認できる。
この尾根筋を東に下るとすぐに竪堀@があった。本来は堀切だったようだが埋められているようである。

その先は細尾根が続き、東端433m地点にピークAがあるが、その周辺には堀切等はない。
一方、細尾根の北下に長軸約30m、短軸約15mの楕円形をした井戸または天水溜跡と思われるくぼ地Bがある。

これらを以て城館の存在を断言するには不十分かもしれないが、存在していたとしても簡素なものであったと思われる。
航空標識所となった地に城郭が存在し、南郷道が城内を通っていた可能性はあろう。

太郎山付近の南郷道
久慈川沿いの主要道は国道118号線であるが、中世、近世は南郷道(南郷街道)であった。
かなりの部分は国道118号線と同様、久慈川沿いを通っているが、頃藤から大子までは川沿いを通らず、西の山間を通る。
頃藤から県道32号線沿いに栃原方面に向かい、塩沢の渓谷に入り、道坂峠経由で大子に下るルートである。
頃藤〜袋田間の下津原の狭隘部が難所でありネックになったと思われるがこの間の距離はそれほどでもない。
西の山中に迂回した方が、アップダウンも多く時間がかかる気もするが、その理由はよく分からない。
理由の1つにこの山間、金山が多くあり、金鉱石搬出のため、道が整備されていたこともあるかもしれない。


↑太郎山南の山地を通る南郷道。
赤いの破線は谷部を通る南郷道。
青の破線は山を通る南郷道。
緑の破線は今回確認した尾根上を通る南郷道。
赤い着色部は太郎山砦と塩沢砦。
(国土地理院地図を使用)

←太郎山南尾根上を通る南郷道の摸式イラスト。(南北方向を圧縮して描いています。)

その山間の道であるが、塩沢谷の入口から道坂峠までの道は1本ではなく、いくつか道があったようである。
おそらく洪水や山崩れ等の自然災害による交通止めのリスクを回避するためであろう。
それらの道としては太郎山から南に延びる尾根にある塩沢権現山の東の谷を通り、太郎山経由で道坂峠に下る道、西の谷を通り道坂峠に至る道。
塩沢権現山の北の峠に登り、尾根沿いに道坂峠に向かう道などがある。
さらに分岐もいくつかあり、状況に応じて迂回していたのであろう。

@太郎山から南に延びる尾根上は広く歩きやすい。 A太郎山から尾根を約200m南に行くと平場がある。 BAの平場をさらに南に下ると東に土塁を持つ古道がある。
C太郎山から約800m南の峠で、Bの古道と塩沢から上がる
道と道坂峠方面に向かう道、富士権現に登る道が交差する。
D峠を越え道坂峠に向かう道は太郎山南尾根の西斜面
を通る。
EDの道の木が伐採した場所は野ばら等が繁茂してそのうち
歩けなくなると思われる。
Fいくつかのルートに分岐していた南郷道は道坂峠で合流、
大子方面に槐沢を下る。ここまで車で来ることができる。
G太郎山山頂から南東に延びる尾根には塩沢の谷を通る道
が登って来る。

このうち、太郎山から南に下る尾根上の道と塩沢権現山の北の峠に登り、尾根沿いに道坂峠に向かう道を通ってみた。

太郎山山頂から派生する尾根を南に下る尾根筋@は広く歩きやすいが道という感じではない。
約200m南下すると比高約35m下、標高413m地点に平場Aがある。

さらに約150m南下すると標高388m地点で尾根を北上する道が道坂峠に曲がる場所となる。
ここから東側が土塁を持つ立派な道Bが標高347m地点までに約400m続く。
この古道、倒木等を片づければ、馬も通れるほどの立派なものである。
南端に物見台のような場所があり、そこから100mに渡りジグザグの急坂となり、標高320mの塩沢権現山の北下の峠Cとなる。

この道は南郷道の迂回路の1つであろう。
峠から東下に道が下り、南に登ると富士権現、西に行く道Dが山裾を回り道坂峠に至る南郷道の1つである。
この道も非常に歩きやすいやすいが、木が切られた部分Eは陽当たりが良すぎて、道が藪化している。
野ばらや棘のある木が成長しており、伐採しない限りも後2年ほどで通行不能になると思われる。

この道には途中で迂回路が合流する。
以上がこの山地を通る南郷道であるが、道が整備管理されていれば現在でも徒歩で快適で安全に通行できるレベルである。
険しい山間を通る道という先入観をひっくり返すものであった。