初原砦(大子町初原)
川崎春二氏の調査報告に掲載されている城である。
とは言え、これが城なのか違うのか何とも判断ができない。
非常に曖昧なのである。

全体的な印象は上郷古館によく似る。
山の裾野に広い平坦地があり、そこが主体部と推定される城館である。
そしてあの不思議な穴がある。

場所は大子町北西部、国道461号線上岡交差点から初原川が流れる谷沿いを走る県道205号線を北西方向に約4q進と初原地区になる。

この付近で初原川は東流から緩やかに南東方向に流れを変える。
砦はその初原川の南岸にある。
(北緯36°48′49″、東経140°18′11″)

南岸に民家が1軒あり、民家に通じる橋を渡った脇から山に入ると砦となる。
初原川が東の裾野を流れ、山側(砦側)は崖状になっている。
主体部の標高は193m、初原川が流れる低地部からの比高は約20mである。

いきなり土塁や塁壁に囲まれた不思議な空間@に出る。
櫓台のようなものもあり、塁壁は最大7m近い高さを持つ場所もある。

結構、広い。
桝形のようにも見える。
この空間、植林や土取りに伴うものとも思われるが、現地を見ると現状では重機やダンプカー等が入るルートが想定できない。

しかし、上側の平場には山部を重機で削ったと思われる改変の跡が見られ、重機が入るルートはあるのかもしれない。
重機が入れたとしても川崎春二氏が調査した昭和30年代にパワーショベルやブルトーザ−が容易に運用できたものだろうか?
上の平場の工事跡はもっと後の時代のものの可能性もある。
もし、人力でこの空間を造ったらかなりの工事量になる。

@土塁のようなものがある不思議な空間 A @の南上には植林された平場が広がる。

さっぱり分からないこの空間から塁壁を登ると、主体部と思われる平場Aに出る。
ここも植林されており、木が整然と並んでいる。
西側は段差がある。
上の平場の西が山になるが、山側に重機によるものと思われる改変の跡がある。

そして、この平場の北側にあの不思議な穴が数個開いている。
直径は最大で10mほどある。B、C

B謎の穴 Cこれも謎の穴、出口部がある穴が多い。

一見、箱堀のようにも見えるが穴間の稜線部の幅が広すぎて、歩くのは容易である。
多少、ジグザグに歩かされるだけである。
柵列を置けば防御機能は高まるが、防御施設としては甘いものと感じる。

また、平場周辺の斜面一面にこの穴が存在すれば防御施設とも考えられるが、存在する場所が限定的である。
何かを採掘した跡、井戸の可能性、炭焼きの跡の可能性もあるがいずれも難がある。
採掘する場合、斜面を掘る必要はない。
多数の井戸を集中して掘る必要はない。
炭焼き窯をこんなに近接して造ることはあり得るのか?

謎の穴群スケッチ 土室想定図

現場でしばらく考えたのであるが、これは「土室(つちむろ)」ではないだろうか?
竪穴式住居を山の斜面に造れば、その跡はこんな感じになるはずである。
入口と思われる開口部もある。
屋根を被せ、土を被せ保温機能を持たせていたのであろう。

ここは冬場の冷え込みが厳しい地である。
冬場に芋や玉ねぎ等の根菜類等の寒さに弱い食料や漬物を中に貯蔵していたのでないだろうか?
中世のものであった可能性も否定できないが、土室とすれば近世以降のものではないだろうか。
発掘してみれば柱の穴の存在の有無や遺物、土質等の情報から何か分かるかもしれない。

もし、ここが城館と仮定したとすればどのような性格のものだったであろうか?ともかく戦闘的な性格は感じられない。
東側と北側に初原川が流れ、水堀の役目を果たす。南側は沢になっている。西側は山である。
西側の山方面には何もない。ただの山である。(上郷古館は背後の山部に城館遺構のようなものが存在していた。)。
防御施設がなくても山方面からここに接近するのはさらに背後の山を踏破する必要があり、難しいように思える。

その点からここの平場は比較的安全な場所と言える。軍勢の宿営地とすれば理想的である。
でも、この谷沿いをある程度の規模の軍勢を移動させることがあったのか?
佐竹の軍勢が大田原方面に向かうルートにあり、宿城に使ったことも想定される。
居館を置くことも想定できる。かなり大きな敷地の屋敷が建てられる。
さらには、城にまつわる伝承もないようである。
すべては謎のままである。
果たしてここは城館なのか?それとも違うのか?

芦野倉城(大子町宿)
依上城の北側、北から南に張り出す台地の先端部にある。
東側は浅川が流れる低地である。
城址があったという場所が「御城」という字名であることからも城の存在は明らかである。
その場所には遠くからも非常に目立つグレーの洋風のアパート群が建っており、遠めからでも直ぐ分かる。
このアパート群のお陰で城の遺構は湮滅状態である。
下の写真は南側から見た城址。

しかし、昭和50年の国土地理院が撮影した航空写真を見ると主郭部付近の遺構が明瞭に写っている。
それによれば、現在のアパート群の建つ場所の土地の形がほぼ本来の形を踏襲していることが分る。
この部分の広さは約60m四方である。

城址の標高は150m、東の浅川沿いの水田地帯からは比高約22mである。

なお、城のある台地は低地部から一気に高さ10mほどの鋭い切岸になっており、低地に面する部分から既に城域と言える感じである。

城は主郭を中心に南と東に幅約12mの腰曲輪を配置し、西側に現在の道路を兼ねた腰曲輪を配置し、さらに西側に「宿」集落との間を遮断する堀を置く。
(自然の谷津を拡張利用したもののような感じがする。)主郭北側に堀切@があり、現在ここは道路になっている。

その北側に約30m四方の曲輪があり、北側が墓地になっているがこれは土塁の跡のようである。
その北側に堀Bが残っている。
さらにその北側が土塁になっている。

また、その北側、西側にも民家の敷地中に土塁の残痕のようなものがあった。
主郭西側の道路はそのまま北に延び、虎口のような場所Aを抜けるが、ここが搦め手口だったのかもしれない。
北西端部は民家になっており、遺構がよく分からなくなっている。

この城も、この地方の多くの城、同様、白河結城氏が佐竹氏に備えて築いたものという。

「新編常陸国誌」は永享年間(1429-1441)に木沢源五郎が城主であったとしている。
大子地方が佐竹氏に制圧された後、廃城となったという。
@主郭(左)北側の堀跡は道路になっている。 A城址を貫く道路の北端、ここが搦め手だろう。 BAの写真左側の林の中に残る堀。

なお、「新編常陸国誌」では芦野倉地区には芦野倉城、依上城の他、北條伊賀守の城である「塙館」と「木澤氏館」があったとしているがその場所が特定できない。
少し北西の山に「戸中要害」と「館の沢館」があるが、両城館とも避難城のような性格であり、居住性はなく、塙館、木澤氏館と関係があるのかどうか不明である。

金沢未城(大子町下金沢)
下金沢(かねさわ)未城ともいう。
依上小学校前を押川に沿って国道461号線を大子中心部方向に約600m走行し、南側に入り、押川を渡り、対岸の比高約18mの河岸段丘上(標高152m)に登ると大草地区の東端に出る。
この台地に上がる道Bが、そもそも堀(もちろん自然の谷津を利用したものであろう。)も兼ねていたようである。

この台地は北の水田地帯との間の切岸の勾配は城郭のような鋭さである。
台地は南側に広がっており、南側に続く台地上は平坦である。

城の場所であるが、茨城県遺跡地図では下金沢十二所神社の地としている。
そこに行って見るが、ここが城なのか、非常に微妙な感じである。

境内南側が若干窪んでおり、ここに堀があったようである。

ここに堀を置き台地続きの南側を遮断すれば、北側の神社境内は東西及び北側が斜面なので完全に独立した地形となり、城址としての要件は満たす。
ただし、その状態では単郭に過ぎない。

この神社付近を見て見ると西側と北側縁部に土塁の痕跡らしいものがあり、西側に虎口らしい部分がある。
広さは約60m四方である。
それほど広くはない。

神社境内の南側の堀切跡と推定される部分の長さは東西40mほどであるが、その東側はBの道路に続く沢(堀跡?)になっている。

一方、神社の東側の台地、ここも微妙な地形である。

岡の先端部近くに堀切跡または虎口のような場所Dがある。
@南側の参道から見た主郭の地と推定される十二所神社。
撮影位置と社殿の間に堀があった?
A神社南西側のこの部分が窪んでおり堀跡か? B神社東の台地に上がる道は谷津を利用した堀跡だろう。

神社からこの谷津を挟んで東側の台地平坦部に切通しCがあるが、これが堀切跡ではないかと思われる。
神社東の台地北側一帯は直径100mほどあり、そこには民家が数軒あり、後は畑である。
ここも城域の可能性を持つ場所である。

C神社東側台地のこの切通しは堀跡か? D東側の台地先端部はどことなく城郭っぽい。

佐竹氏が築いた城館の1つという伝承もあるが、城主等の詳細については不明である。

「新編常陸国誌」では十二所神社の永禄6年(1563)の棟札に大塚大膳、絲井(いとい)、菅生、吉成、圓谷氏の名前があり、天正11年(1583)の棟札には絲井、吉成、圓谷氏の名前がある。
このことから、これらのうちのいずれかの者が未城あるいは西側にある故城の城主であった可能性があると記している。
ここは居住性のある場所なので居館であったと思われる。
なお、「未城」という名は「未完成」という意味もあるように思えるが、「御城」から来たものであろう。

山田館(大子町山田字立下)
大子市街地の西部、押川南岸の河岸段丘にある。
芦野倉から押川を挟んで真南に当たる。
やや北西に依上城が望まれる。
下の写真は東側の「野出畑」地区から見た館址。
高圧鉄塔の場所が物見台であり、右下に平坦地がある。

立地条件としては押川上流の金沢未城や金沢古城とほとんど同じであり、南の山地から押川の流れる低地に突き出した台地に築かれた館である。
真上に高圧線が通り、鉄塔が建っている場所が館址という。
この台地に登って行くと突然、視界が開ける。
そこは150m四方ほどの広さがある畑となっている平地である。
ここの標高は145mである。

@平坦地西側から見た東方向 A平坦地南側、林の上に鉄塔が建つ。

水田のある低地部からは20mほど高く、東西の斜面は急であり北側がやや緩斜面であるが、この台地平坦部自体がかなりの要害の地である。
この南側の標高178m、丘平坦地から比高約30mの山のピークに鉄塔があり、そこが館跡だというので行ってみる。

地元の人も皆「あそこの鉄塔が建っている辺りが城だったと聞いている。そこは「立下」(タテシタ、「館下」のなまりだろう。)といって、字は「ひらざむらい」と言うんだ。」
と言うので、これらの伝承、地名から館があった場所として有力である。

しかし、鉄塔のある場所には何にもない。
周囲の斜面の勾配も緩やかである。
鉄塔工事で改変されている可能性もある。

ただ、南側が高さ4mほどの鋭い切岸になっている。
ここがかろうじて物見台であったことを感じさせる部分である。

その先、南に続く尾根筋に堀切があってもよさそうであるが、「ない」。
さらに尾根伝いに南に進んでみても同じである。

どうも先端部のピークを物見台程度として使っただけで、その北下の平坦地が館主体部であったようである。

城主等は分からない。

ところで「ひらざむらい」って何だ?「平侍」と書くのだろうか?
「平社員」なら分かるが「平侍」とは・・足軽か?もしかして、これは「平氏」の落人を指しているのではないだろうか?

なお、大子吉成文書に佐竹氏の秋田移封に同行せず、この地に帰農した佐竹氏家臣として山田地区では相沢彦九郎の名が確認できる。

この相沢氏が館主であった可能性もある。