上郷古館(大子町上郷)
主要部周辺が爆撃を受けたような大きな穴ばかり開いている不思議な城館である。
これが城郭遺構ならこんな城館は見たことがない。
いったい、何の穴なのか?

館は大子町北部、福島県境に近い八溝山の東山麓、八溝川沿いの谷にある。
この地には拠点城郭として東2qに荒蒔城、町付城があるが、それ以前の拠点城郭が名前からしてこの城だったのではないかと思われるが定かではない。

この館については2009年、Pさんと狙ったが、山を間違え、山中彷徨という目にあった。
当然、ただの山に登っただけだった。
そのリベンジであるが、今回は慎重に場所を調べた。

県道28号線沿い南側ににセメント工場があり、その南西の山が館跡である。
↑の写真は北側の県道沿いから見た館跡である。

山の北山麓に墓地があり、その裏の急斜面を登れば館跡である。
ただし、猪避けの高圧電線が山麓に張り巡らされており要注意である。
それはおいておいて・・・始めにも書いたが、本当にこれは城館なのか?

どうもしっくりこないのである。
館主体部と思われるのは標高200mの山麓から比高30mほど登った部分であり、そこは若干の傾斜はあるが、標高230〜240mにかけての100m四方ほどの平坦地BCである。
ここなら居館も倉庫も十分に置くことが可能であり、3方を急斜面で囲まれた高台でもあるので安全性も高い。

このような感じの館としては大子では山田館がそっくりである。また、東にある町付城とも似た感じである。
やはり町付城の先代なのかもしれない。機能とすれば金山管理の城だったのかもしれない。

ここだけなら城館と認めても差し支えないであろう。
ただし、これだけの広さがあれば内部が区画されていてもおかしくはないが、そのような感じはない。
後世の植林により破壊された可能性もあるが・・・?

しかし、この平坦地の周囲に不思議なものがある。
直径5〜10m、深さは深いもので4mほどもある大きな穴@Aが平坦地まで登る斜面に数個開いているのである。

@平坦地までの斜面に空く穴。
2つの穴の間に通路状の竪土塁がある・
Aこれも斜面に空く穴。完全なすり鉢状である。

さらに平坦地の南側は山につながるのでこの方面からの攻撃を警戒し、南側の山にも何等かの防御施設を置くはずである。
で、そこに行ってみると、やはり大きな穴がいくつも開いているのである。
平坦地の背後の標高270mのピークは物見台では?
と思える場所なのだが、そのピーク上にまで穴Dが開いているのである。

B館主体部と推定される平坦地。100m四方もある。 C平坦地北端部にある虎口に似た遺構・・だが、虎口ではない。

なお、穴は、爆弾穴のような「すり鉢状」のものがほとんどであるが、堀切のように尾根を「抉った」形状のものもある。
ピークの背後の南の山に続く鞍部にも穴がボコボコ存在Eする。

さらにその南東にに長さ65mのピーナッツ状の平坦地があるが、その東端にも大きな穴Fがあり、斜面部には横堀状の遺構もある。
山はさらに南に続くが、そこは細尾根となり、もう穴はない。

D平坦地南のピーク上まで穴が開いている。 E南の山の平坦地斜面に開く穴 F南の山の平坦地東側にも穴が開く

穴は倒木など自然にもできるが、ここにあるものは規模と形状からここの穴は倒木によるものではなく、人工的なものである。
斜面や鞍部にあるものは、堀と同じ防御施設としての効果があり、畝堀のような印象も残る。

一方では「天水溜」にも見えるがこれほどの大量の穴を掘る必要が不明である。
それにこの山の麓には水が湧いている場所があり、水に苦労していた状況は伺えない。

また、この付近の城館でこのような感じのものも全く存在しない。
ここは金山も多く存在するので、ここも金採掘の跡とも思ったのだが、その想定の場合、掘った岩(ズリ)が多く転がっているはずであるが、そのようなものは確認できない。
ここの地質は土が主である。

あるいは後世のものかもしれない。例えば、自然薯採掘の跡とか?
しかし、こんな大きな穴を掘るものか?
平坦地にはまったく穴が開いていないのも不思議である。
結局、謎のままである。
是非、多くの人に見ていただき、ご意見を聞きたいものである。
・・って、こんなところに来るモノ好きいないだろうねえ。

佐貫館(佐貫立岩)
大子町から北西方向に県道205号線が延びる。
佐貫地区に佐原小学校や茶の里公園がある。その直ぐ南、初原川対岸の山が城址である。
ここへは県道205号線から分岐した下金沢方面に通じる県道159号線に入る。
橋を渡った直ぐ右手の山が館である。館のある山は標高290m、比高70mの東西に長い尾根状の山である。
この山の尾根400mにわたり遺構が展開する。山には先端部から入ることが最良であるが、そこは民家の敷地であるので断って登るしかない。
それを知らなかったため、北側から尾根に向かって直攀した。

しかし、この山の斜面はすごく勾配が急であり、這いつくばって登らざるをえない。
尾根筋に出ると、そこにはおなじみの土塁が・・。
この館、尾根上に3つの部分に分かれて遺構がある。
中央部が主郭部、東のピークに物見のような曲輪、そして主郭部背後の西側に主郭を守る曲輪郡が展開し、西端の堀切で終わる。
この館の非常に変わった遺構として直径40〜50mほどのクレーター状の曲輪4,5が東西の端にあることである。
東端に曲輪は東端部に土塁状の高まりがあり、南側が開いているのでクレーター状に見えるだけかもしれないが、西端の遺構は土塁と山が周囲を1周しており、途中、2箇所の切れ目がある不思議な空間である。井戸のようにも思える。

まず、東側の部分であるが、先端部に物見のようなピークがあり、そこから100mほど、高度で20m登ると例のクレーター状遺構の曲輪5に至る。
その西側は長さ30m、幅15mの平坦地がある。
この西側は一端下りとなる。鞍部に堀切のようなものがあるが、堀切としてはかなり埋没している。
鞍部を過ぎると登りになるが、その途中に半月状の横堀2があり、その下、5mにやはり半月状の帯曲輪がある。
この横堀であるが、非常に浅い。鉄砲陣地のように思える。
ここから40mほど行くといよいよ主郭部であるが、その間は緩斜面である。
主郭部1は3段の段郭構造になっている。
一番下に帯曲輪があり、高さ5mの塁壁の上に長さ30m、幅20mの主郭、西端に半月状の櫓台のような土塁を配する。
驚いたことに藪の主郭の中に、館主の子孫が建てた黒御影石の城址碑がポツンとあるのである。
西端に半月状の櫓台の先は細尾根になっており、両側は崖である。
台の背後には堀切があるかと思ったが、土橋しかなかった。
ここから櫓台上までは5m。
土橋の両側は竪堀が下っている。

この土橋の先は40mにわたり幅5mほどの尾根が続き、末端に物見台のようなピークがある。
ここから西側と南側に尾根が派生する。南側の尾根は下りとなるが、西側の尾根は一端下りとなる。

この付近の斜面には帯曲輪のような平坦地があるが、これは植林に伴うもののように見える。
そして、鞍部に堀切3、その北側にクレーター状の曲輪4がある。その西側は再び高くなる。ここが城域の西端であろう。

それほど凝った造りの城ではないが、クレーター状の曲輪が面白い。
館の歴史はよく分からないが、城址碑によると、藤原秀郷の流れを汲む町島氏が、奥州仙台から那須町島に来て、水口城を築き、町島氏を名乗る。
しかし、明応3年(1494)大田原康清に攻められ滅亡する。しかし一族の一部がこの地に逃れ、この城を築城し、佐貫氏を名乗り、岩城氏に使える。
佐竹氏の勢力が延びると佐竹氏に従い、姓を旧姓の町島に戻したという。
そういえば、北の山ろくにあった墓地は「町島」姓であり、子孫なのであろう。佐竹氏移封後はこの地に帰農したのであろう。 

北東側から見た城址。 先端部付近の曲輪5。前面の土塁があり、その内側が窪んだ不思議な地形である。 2の半月状横堀。鉄砲射撃陣地に見える。
2の半月状横堀の下に曲輪がある。 本郭に建つ城址碑。先にはおなじみの櫓台が。 本郭背後、西側は崖である。
本郭の櫓台背後、5m下に土橋がある。 隕石クレーターのような曲輪4。井戸跡? 城址西端の堀切3。

上野宮館(上野宮野瀬)
荒蒔城、町付城のある町付地区から八溝川沿いに県道28号線を4km北西方向、八溝山に向かって走行すると、宮本地区に至る。
大久保沢が南流し、八溝川に合流している。その八溝川と大久保沢に挟まれた地区に近津神社があり、その裏の北西側の山が館跡である。
山の標高は340m、宮本地区の標高が200mなので、比高は140m。斜面の勾配はきつい。

この館の存在については、付近の人に聞いたが、ほとんど分からない。
ただ、「あの山に何かあると聞いたことがある。」というようなことをいう方がいた。
その証言を基に、その山に挑戦。
南側から登ったのだが、途中で道は無くなり、所々、林道があるが、道はメチャクチャ。(どうも北側の谷筋から林道が館跡のすぐ西側まで延びているようである。)
かくなるうえは直攀。
悪戦苦闘の末に比高140mを克服し尾根筋に出る。
しかし、尾根には特段何もない。尾根の先端部に館があることが多いので、尾根を南東方向に歩く。
これは大正解。尾根の先端近くにピークがあり、そこに館が存在していた。
そこから東、南東、北西の3方向に尾根が延び、ピークに主郭を置き、3方向の尾根に堀切を設けている城である。
館に至った北西の尾根には堀切は3の1本のみであり、防御は手薄である。
どうもこの尾根は逃走路のように思える。
主郭1は20m四方程度の小さなものである。
東に向かう尾根筋には、腰曲輪を介し、大きな堀切2がある。深さ5m、幅10m程度のものである。
その先に1段の曲輪があり、その先50mにわたり、幅7m平坦な鞍部が続く。そして、東端が再度盛り上がり、ピーク5がある。
頂上は直径7mほどであり、平坦である。ここは物見台であろう。
一方、南東に向かう尾根筋にも1本の堀切4があり、その先に幅15m、長さ40mほどの平坦地があり、先端が再度、盛り上がって平坦地がある。
その先は高さ5mほどの段差があり、半円状の帯曲輪になっている。
さらにその下に曲輪6がある。この部分は植林に伴う改変地形の可能性もあるが、尾根を降りた場所が近津神社であり、この尾根筋が大手道であったのかもしれない。
さらに半円状の帯曲輪は南側斜面を主郭部方面に回っているが、横堀7になっているのである。
これが、城郭遺構なのか、後世の林道なのか(それにしては狭い。ただの山道?)判断に苦しむ。
総じて、この城は、3方の尾根筋を堀切で分断する点で、常陸大宮市美和の高沢城と良く似た構造である。
もともとは、白河結城氏の家臣、野瀬氏の城であったという。
おそらく八溝金山を管理する城であったのではないだろうか。
館は近津神社付近にあり、この館は緊急時の城であったのであろう。

戦国時代、佐竹氏がこの地域を制圧すると、佐竹氏は、金藤氏を上野宮地区に置き、上野宮館を守らせたという。(新編 常陸国誌)
荒蒔城、町付城の支城であり、金藤氏は荒蒔氏の部下であり、佐竹氏の代官として八溝金山を管理していたのであろう。

南西側から見た城址 西側にある3の堀。かなり埋没している。 本郭1。あまり内部は平坦ではない。
狼煙台のような穴がある。
東側にある堀2。これが一番明瞭であった。 堀2と5のピーク間の鞍部。幅5mほどで平坦。 5のピーク。ここは見張り台であろう。
ここにも狼煙台のような穴があった。
南側の尾根にある4の堀切。 南側の尾根先端6も見張り台か?
これはその下の曲輪。
左の写真の曲輪を北に行くと横堀7がある。

高岡城(大子町上岡)
大子市街地から国道461号線を2q西に進むと上岡地区となる。
水田地帯を挟んで西側に依上城、芦野倉城がある台地が見える。
北の佐貫地区に向かう県道205号線の交差点の少し東側が「新屋敷」であり、この付近に高岡城があったという。
茨城県遺跡地図ではこの城域のマーキング範囲が広範囲であり、どこが城なのかさっぱり分からない。
おそらく居館や城下があった場所がこの下の集落なのであろうか。

地図を良く見ると、十二所神社の東にある標高180m、比高40mの山が独立した山であり、この山が非常に怪しく思えた。
そこでここに城郭遺構があるのではないかと考え、行ってみる。
十二所神社あたりから登れるのではないかと考え、まず、神社に行ってみる。この神社付近も居館のような感じであり、堀のような感じの場所も南側にある。
神社の西にある大きな民家も居館跡の可能性がある。
この山には神社の東から登る道があるので、この道を行く。

鞍部が堀切状になっているが、果たしてこれは本物であった。(堀切@)
後でよく調べると二重竪堀になっていた。
山に登って行くが、途中に幅数mほどの平坦地がある。これは帯曲輪である。
山頂は何と配水場である。25m四方の広さであり、南東に15mの突き出しがある。ここが本郭である。
西側下を覗きこんでびっくり。6mほど下に横堀が巡っている。
堀に下りてみると、堀はかなり埋没しているが、北側から西側に回っている。
比較的傾斜が緩い斜面部に横堀を回している。
つまり本郭を半周している。他の半周は帯曲輪が回っている。
本郭から西下に竪土塁が下っているが、これが登城路と思われる。
この竪土塁はさらに西下に延びており、下には長さ50mほどのだらだら傾斜した曲輪がある。その先端は1段下がっている。
ここをずっと下ると例の豪邸の建つ場所につながる。南に降りると神社社殿である。

一方、山の北端は尾根状に北側の山とつながっており、途中に2本の堀切A、Bがある。
その北の山も城域ではないかと調べたが、そこには城郭遺構はなかった。
結局、配水場のある直径80m程度が城域であったと思われる。
神社付近まで入れても直径150m程度のものである。

城としては小規模なものである。ただし、横堀を持つという点では戦国後期の遺構を有すると言える。
おそらく、はじめから神社付近に居館を構えていた土豪の避難所、物見だったようである。

南側の麓にある十二所神社。ここは館跡ではないだろうか。
この北の山に遺構が残る。
堀切@は道に転用されている。
この左にもう1本、竪堀がある。
本郭には配水場が建つが、遺構はそれほど破壊されていない。
本郭北下の横堀。かなり埋没している。 本郭東下の帯曲輪。 城の北端。堀切B。

横堀の存在から佐竹氏支配時代に改変を受けたものと思われるが、この規模ではやはり、物見台、狼煙台程度の域を出ない。
依上城、女倉館から上がった狼煙信号を天神山城にリレーするのが役目だったような気がする。

佐竹関係の資料では、高岡(現 上岡)在住の家臣として菊池助左衛門、木六郎(50石)や根本右近(50石)などの名が見える。
城主は菊池氏か根本氏と推定するのが妥当であろう。

女倉館(大子町下金沢)
依上小学校のすぐ西側に岩山が聳える。ここが女倉館である。
この山、直径200mほどの独立した山である。
頂上部には平坦地があるように見えるが、急勾配でどこから登っていいのか分からない。
特に南側、国道461号線から見上げると岩盤むき出しである。

標高210m、比高は70mほどあり、どこから見ても急勾配、周囲をグルグル歩くが、やはりどこから登っていいのか分からない。
おまけに田舎で、寒い冬、人も歩いていなく、聞くこともできない。
しかし、西下の墓地裏からちゃんと登り道があるのをようやく発見。
急勾配で岩だらけのきつい道ではあるが、何とか登れた。
雪も若干あったが、落ち葉で滑るのが怖い。

頂上はというと、東西50m、南北30mほどの三角形をしており、平坦であった。
西側は一段、低くなっている。山の斜面は広葉樹であるが、山頂部は杉の林である。
ここにも社が2つある。登り道は、この社のお参り用の道である。
北に虎口があり、下に帯曲輪が2段ある。本来は、この帯曲輪からこの上の曲輪の上がったものであろう。

依上城と八幡館の中間地点であることと、遺構を見れば、ここは間違いなく物見台、狼煙台である。
この館、立てこもられたら、攻撃のしようがないが、何しろ岩山のてっぺん、ここには水がない。
1週間も包囲すれば、干上がる。(そんな閑な侵入者もいないと思うが)
長期間の篭城はできない。
狼煙を上げてすぐ退散するか、ほんの数日、避難するだけのものである。
しかし、遺構などどうでも良く、ここは、行ったという実績自体が自慢できることだろう。

東側から見た館跡。 西側から見た館跡。写真西側下から登れる。 ここが登城口である。多分当時からのものであろう。
すぐ上は墓地になっている。
ここが本郭。石の社が2基あった。
内部は意外に平坦であり、予想外に広い。
本郭の北側に虎口がある。
虎口の下に雪に覆われた帯曲輪が2段あった。
本郭から見下ろした国道461号線と押川。
ブルーの屋根は上列中央の写真に写る建物。
城址到達の証拠写真である。

八幡館(大子町上金沢)
押川と相川に挟まれた山地の北側は、山が侵食されて尾根が何本も北側に突き出て複雑な地形であるが、この館は、その尾根の1つにある。
ちょうど宿地区の南300mの山が城址である。

館の最高地点の標高が165mであり、比高は60mほどであるので、それほど高い場所にあるのではない。
南側に続く山の方が標高は若干高く、尾根でつながっているが、定石どおり、この尾根筋は何本かの堀切で遮断している。

この館に行ったのは積雪のあった後であり、北側は雪が残っていると考え、南側、相川方面からアプローチした。
しかし、これはとんでもない間違い、判断ミスであり、おかげで違った尾根筋を2本進んでは戻りすることになり、山中放浪の羽目に陥った。
原因は侵食された尾根が複雑に突き出ており、この複雑な地形に幻惑されてしまったことによる。

悪戦苦闘の末、館跡には到達できたが、やはり、定石どおり、宿地区から行くのが良い。
雪もそれほどではなかったのである。
思わぬ、時間と体力のロスとなった。
しかし、遺構は、山中放浪を帳消しにしてくれるものであったため、文句はない。
それほど大規模な城ではないが、まずまずというところである。

この館、特徴は北端部、標高150m地点に70m×50mほどもある平坦地があることである。
現在、ここは畑となっているが、北側に低い土塁がある。
その土塁には人の頭ほどの石が沢山ある。
石垣あるいは石で補強した土塁だったようである。

この平坦地には北から登る道があるが、平坦部の入口は虎口状である。
さらに虎口を出ると斜面には腰曲輪がある。
この平坦地は後世のものとは思えず、館跡ではないかと思われる。
しかし、北向きの場所であり、日当たりは、あまり良くないので果たして、本当に館跡であるかは自信がない。

この平坦地から西側を巻くように登る尾根がある。
ここには竪土塁のような道があり、高さで15mほど登ると大きな曲輪Uがある。
40m四方もある平坦地であり、北側に1段、段がついている。
西側下5mには帯曲輪がある。西側には低くなっているものの土塁の痕跡がある。

また、南側から高さ2mほどの土塁が張り出し、その南側に1mほど高く曲輪がある。
ここが本郭Tである。直径30mくらいの広さである。
社があり、南東側に腰曲輪がある。
この郭の周囲は崖状であり、岩が多く、石垣のように見える。
曲輪内にも石が多く、投石用には不自由しないであろう。

尾根に続く南側には堀切、竪堀が連続する。
本郭の南に窪んだ場所Vがある。これは射撃陣地なのであろうか。
その南に堀切@、Aがあり、土橋を経て、南側の尾根に続く。
その尾根を行くと相川方面まで行ける。このルートは搦手道、避難道でもあったと思われる。

この尾根上は広く、一部、藪になっているが、今でも十分に歩ける。
いくつかのピークがあり、上が平坦になっている。ピークのいくつかは物見台であったのだろう。
本郭から西にも尾根が派生するが、その尾根には堀切等、施設は何もない。
館の範囲としては、南北250m、東西150mくらいであろうか。
規模からして大子西部、国道461号沿いの城館では一番しっかりしている。
地域支配の拠点の城ほどの規模ではないが、それに準じた位置づけがあったと思われる。
北側の平坦地が当時から存在していたなら、居館を兼ねていたか、常備兵が駐屯していたことになる。
または、佐竹軍が黒羽方面、馬頭方面に侵攻する際の宿城、軍勢の集合拠点であったかもしれない。
水府志料には館主名として大塚大膳の名が登場する。竜子山城の大塚氏の一族であろうか?

この畑が館跡では。中央上に本郭Tが見える。 館跡推定値の北側には斜面に面し、土塁がある。
その土塁には石がいくつも入っている。石垣か?
館跡北下のWの部分。下には雪が積もっている帯曲輪がある。
館跡推定地の虎口付近から見た宿の集落。
ここは集落より40mほど高い場所にある。
曲輪U内部は広くて平坦である。
西側には低いが土塁がある。
曲輪Uに南側から石を多く含む土塁が突き出し、
この土塁は本郭Tに続いていく。一段高い場所が本郭である。
本郭に建つ社。 本郭の南側には窪地Vがある。
土塁の向こうが堀切@である。
堀切@であるが、埋没が進んでいる。