左貫花室要害(大子町左貫) 36.8401、140.2734 
栃木県境まで西に約1.5kmの地に花室神社がある。神社から初原川を隔てて北東約500mの標高345m、比高約50mの山が城址である。

↑南西側の花室神社の東側から見た城址。

この山は北から南に張り出した形をしており、西は初原川沿いの水田地帯、東は谷になっている。
城は北端の堀切から西に下る竪堀Aが最大の見所である。
堀切は深さ約3m、幅約7mとそれほどの規模ではないが、竪堀部は深さが4m以上はある。

かなり埋没していると思われるが、本来は常陸太田城発掘で確認された薬研堀に匹敵する規模だったと思われる。

この竪堀は高さ約10mを下りA、西側を横堀Bとなって続くが、途中から幅約9mの帯曲輪Cとなる。
東側は竪堀@が直線的に下るだけである。

一方、堀が囲む主郭部は北端の堀切に面した部分と竪堀、帯曲輪に面した部分は曲輪状になっているが、それ以外の部分は加工が甘い、あるいは自然状態である。
東側斜面部は急であり、遺構はない。
主郭部だけを歩けばほとんど城郭とは認識できないのではないだろうか?

@背後の堀切から東に下る竪堀 A堀切から西に下る竪堀を下から見る。本来は豪快な薬研堀だろう。
B西に下った竪堀は横堀となり西側を覆う。 CBの横堀はさらに帯曲輪となる。切岸の高さは約4m。

以上より、この城は施工途中で工事が中止された未完成の城ではないかと思う。
竪堀、横堀から続く帯曲輪は横堀が構築される予定だったように思える。
まずは、周囲の堀を整備し、その後、主郭内の工事を行う予定だったと思える。

この場所は下野国との国境、境目の地である。
15世紀から16世紀の初期までは当時、依上保と言われていた大子地方のほとんどは白河結城氏が支配していたが、この左貫だけは佐竹領のままであったことが、花室神社の棟札から確認できるという。

↑この地の古社、花室神社。この神社の背後の山が城っぽいが何もない。

おそらく境目の城として工事が始められたが、佐竹氏が大子地方を支配下に置き、さらに西の須賀川を押さえ、那須領まで進出していることから工事が中止されたのではないだろうか?
なお、この山の南端部に約50×25mの広さの平坦地があるが、ここが居館の地の可能性がある。
しかし、水が湧き、結構じめじめしている場所であり、さらに下の民家の地が居館の地だったかもしれない。

左貫栗ノ口要害(大子町左貫) 36.8266、140.2718 
「さはら小学校」の西約1kmにある標高343m、比高約100mのお椀を伏せたような形状をした山、「ゆうげい山」が城址である。

↑東側「茶の郷公園」から見た「ゆうげい山」、目立つ山である。右の稜線が大手道がある尾根である。

「ゆうげい」の名前は「要害」が訛ったものであり、ズバリ、この山が城であることを示している。

城址には東下の民家西裏の茶畑から登る。
そこから山に延びる尾根が大手道と思われる。
この尾根の途中には物見台のような場所がある。

城としては規模は小さく、城域は直径約70mに過ぎない。
しかし、山の斜面が急であるため、曲輪間の段差が6〜7mあり、メリハリがある遺構が見られる。

@大手道を登って行くとこの堀切がお出迎え。 A堀切と主郭の間にある腰曲輪を上から見る。東西に犬走りが延びる。 B主郭内部、平坦だがそれほどの広さはない。

大手道を登ると標高324m地点に幅約5mの堀切@があり、約7m上の腰曲輪Aがあり、そこから東西に犬走りが延び東側、西側の腰曲輪に通じる。
さらに約6m上の小曲輪を経て山頂の主郭Bとなる。

主郭は約15×8mの楕円形であり、西側が少し低く約10m突き出たL型をしている。
主郭の約4m西下に曲輪があり、さらに約5m下の曲輪から北西に尾根が延びるが、この尾根筋の西側の標高318mのピークから先には遺構はない。
一方、主郭の北東下には高さ約13mにかけて小曲輪が並ぶ。
主郭南側は急斜面であり遺構はない。

この城に関わる史料は確認できない。
伝承等も確認できない。
この山の南東には佐貫館があり、その支城の可能性もあるが、両者の間には深い谷があり連携が取れるのか疑問である。
東下の民家付近が城主の平時の居館の地であろう。

佐貫要害(大子町左貫
大子町北西部、初原川の谷沿いにある左貫地区にある佐原小学校前から、県道205号線から県道159号線を上野宮方面に約1.5q北上すると後場地区となる。
城はこの地区にある三重工業の工場の西側に見える県道159号線とこの谷間を流れる大石川に挟まれた北の戸屋山(565)から南に延びる尾根末端部近くにある。

↑は南側から見た城址。真ん中のピークである。

城に行くには尾根東側を延びる道を進めば城に北側に出るが、この道は荒れており野ばらが生えており避けた方が望ましい。
行くなら尾根末端にある逆木神社の裏を登って行くのが楽である。
この尾根上は広く、藪もなく歩きやすい。

尾根を登って行くと城域南端の3重土塁を持つ堀切に出る。
なお、東を登る道であるが、この道は最近重機により造った道であり、本来の道はより西側の山側斜面にある。
その道は塹壕状でありかなりの古道と思われる。

おそらく、尾根上を戸屋山、さらに北の見張山(679)を経由して八溝山方面に通じていたものと思われる。
この古道は城のある尾根の北側を通るが、この部分はまるで横堀状である。
実際、城郭遺構の一部であり、横堀として使われていたのかもしれない。

尾根通過部を南に下ると土橋を持つ堀切@があり、そこが城域の北端部である。
城は南北に延びる尾根を利用した簡素な造りであり、全長が約110m、幅が約20m程度に過ぎない。
内部は緩斜面であり、整地Aはあまりされていない。

城域は標高350mから360mに位置する。
なお、麓の後場地区の標高は275mであり、比高は約70mある。

一番、整地されているのは北端の曲輪である。
尾根上が主郭部であるが、東側約4m下に帯曲輪がある。
この帯曲輪も緩く傾斜している。
見どころは南端の3重の土塁であるが、規模は小さい。
@北端の土橋付堀切 A城内は余り整地されていなく緩やかに傾斜する。
B東側の帯曲輪ははっきりしている。 C南端の3重土塁と堀切は浅い。

城の歴史は不明である。
南に佐貫館が見えるので街道監視用の砦であり、その情報を佐貫館に伝える目的か、古道を管理する城ではないかと思われる。

佐貫堀の内館(大子町左貫)

「さはら小学校」前から県道205号線を約1.5q、栃木県境方向に進んだ場所の字名が「堀の内」である。(北緯36°50′2″、東経140°16′17″)
花室神社の南側である。

名前から城館を想定させる字名である。とりあえず「佐貫館」と仮称する。
周囲は茶畑である。

県道205号線の西側の茶畑の中に下の写真に示す南北に長い堀跡のようなものがあり、北側の民家の裏に土塁跡のような土壇がある。
それ以外の堀等の痕跡は確認できない。
航空写真を確認したが、方形の居館があったような感じもするが、極めて曖昧であり、範囲が特定できない。
さて、真実は如何に?

(右の航空写真は昭和50年国土地理院撮影のもの)
館跡西の堀跡と思われる場所。 左の堀沿いの北端部、土塁の残痕らしいものがある。

佐貫館(左貫立岩)
大子町から北西方向に県道205号線が延びる。
佐貫地区に佐原小学校や茶の里公園がある。
その直ぐ南、初原川対岸の山が城址である。
ここへは県道205号線から分岐した下金沢方面に通じる県道159号線に入る。
橋を渡った直ぐ右手の山が館である。

館のある山は標高290m、比高70mの東西に長い尾根状の山である。
この山の尾根400mにわたり遺構が展開する。山には先端部から入ることが最良であるが、そこは民家の敷地であるので断って登るしかない。
それを知らなかったため、北側から尾根に向かって直攀した。
しかし、この山の斜面はすごく勾配が急であり、這いつくばって登らざるをえない。
尾根筋に出ると、そこにはおなじみの土塁が・・。
この館、尾根上に3つの部分に分かれて遺構がある。


中央部が主郭部、東のピークに物見のような曲輪、そして主郭部背後の西側に主郭を守る曲輪郡が展開し、西端の堀切で終わる。

この館の非常に変わった遺構として直径40〜50mほどのクレーター状の曲輪4,5が東西の端にあることである。
東端に曲輪は東端部に土塁状の高まりがあり、南側が開いているのでクレーター状に見えるだけかもしれないが、西端の遺構は土塁と山が周囲を1周しており、途中、2箇所の切れ目がある不思議な空間である。井戸のようにも思える。

まず、東側の部分であるが、先端部に物見のようなピークがあり、そこから100mほど、高度で20m登ると例のクレーター状遺構の曲輪5に至る。
その西側は長さ30m、幅15mの平坦地がある。
この西側は一端下りとなる。鞍部に堀切のようなものがあるが、堀切としてはかなり埋没している。
鞍部を過ぎると登りになるが、その途中に半月状の横堀2があり、その下、5mにやはり半月状の帯曲輪がある。
この横堀であるが、非常に浅い。鉄砲陣地のように思える。
ここから40mほど行くといよいよ主郭部であるが、その間は緩斜面である。
主郭部1は3段の段郭構造になっている。
一番下に帯曲輪があり、高さ5mの塁壁の上に長さ30m、幅20mの主郭、西端に半月状の櫓台のような土塁を配する。

驚いたことに藪の主郭の中に、館主の子孫が建てた黒御影石の城址碑がポツンとあるのである。
西端に半月状の櫓台の先は細尾根になっており、両側は崖である。
台の背後には堀切があるかと思ったが、土橋しかなかった。
ここから櫓台上までは5m。
土橋の両側は竪堀が下っている。

この土橋の先は40mにわたり幅5mほどの尾根が続き、末端に物見台のようなピークがある。
ここから西側と南側に尾根が派生する。南側の尾根は下りとなるが、西側の尾根は一端下りとなる。

この付近の斜面には帯曲輪のような平坦地があるが、これは植林に伴うもののように見える。
そして、鞍部に堀切3、その北側にクレーター状の曲輪4がある。その西側は再び高くなる。ここが城域の西端であろう。

それほど凝った造りの城ではないが、クレーター状の曲輪が面白い。
館の歴史はよく分からないが、城址碑によると、藤原秀郷の流れを汲む町島氏が、奥州仙台から那須町島に来て、水口城を築き、町島氏を名乗る。
しかし、明応3年(1494)大田原康清に攻められ滅亡する。しかし一族の一部がこの地に逃れ、この城を築城し、佐貫氏を名乗り、岩城氏に使える。
佐竹氏の勢力が延びると佐竹氏に従い、姓を旧姓の町島に戻したという。
そういえば、北の山ろくにあった墓地は「町島」姓であり、子孫なのであろう。佐竹氏移封後はこの地に帰農したのであろう。 

北東側から見た城址。 先端部付近の曲輪5。前面の土塁があり、
その内側が窪んだ不思議な地形である。
2の半月状横堀。鉄砲射撃陣地に見える。
2の半月状横堀の下に曲輪がある。 本郭に建つ城址碑。先にはおなじみの櫓台が。 本郭背後、西側は崖である。
本郭の櫓台背後、5m下に土橋がある。 隕石クレーターのような曲輪4。井戸跡? 城址西端の堀切3。


上野宮館(上野宮野瀬)
荒蒔城、町付城のある町付地区から八溝川沿いに県道28号線を4km北西方向、八溝山に向かって走行すると、宮本地区に至る。
大久保沢が南流し、八溝川に合流している。その八溝川と大久保沢に挟まれた地区に近津神社があり、その裏の北西側の山が館跡である。
山の標高は340m、宮本地区の標高が200mなので、比高は140m。斜面の勾配はきつい。

この館の存在については、付近の人に聞いたが、ほとんど分からない。
ただ、「あの山に何かあると聞いたことがある。」というようなことをいう方がいた。
その証言を基に、その山に挑戦。
南側から登ったのだが、途中で道は無くなり、所々、林道があるが、道はメチャクチャ。(どうも北側の谷筋から林道が館跡のすぐ西側まで延びているようである。)
かくなるうえは直攀。


悪戦苦闘の末に比高140mを克服し尾根筋に出る。
しかし、尾根には特段何もない。
尾根の先端部に館があることが多いので、尾根を南東方向に歩く。
これは大正解。

尾根の先端近くにピークがあり、そこに館が存在していた。
そこから東、南東、北西の3方向に尾根が延び、ピークに主郭を置き、3方向の尾根に堀切を設けている城である。

館に至った北西の尾根には堀切は3の1本のみであり、防御は手薄である。
どうもこの尾根は逃走路のように思える。
主郭1は20m四方程度の小さなものである。
東に向かう尾根筋には、腰曲輪を介し、大きな堀切2がある。
深さ5m、幅10m程度のものである。
その先に1段の曲輪があり、その先50mにわたり、幅7m平坦な鞍部が続く。そして、東端が再度盛り上がり、ピーク5がある。

頂上は直径7mほどであり、平坦である。ここは物見台であろう。
一方、南東に向かう尾根筋にも1本の堀切4があり、その先に幅15m、長さ40mほどの平坦地があり、先端が再度、盛り上がって平坦地がある。
その先は高さ5mほどの段差があり、半円状の帯曲輪になっている。

さらにその下に曲輪6がある。
この部分は植林に伴う改変地形の可能性もあるが、尾根を降りた場所が近津神社であり、この尾根筋が大手道であったのかもしれない。

さらに半円状の帯曲輪は南側斜面を主郭部方面に回っているが、横堀7になっているのである。

これが、城郭遺構なのか、後世の林道なのか(それにしては狭い。ただの山道?)判断に苦しむ。
総じて、この城は、3方の尾根筋を堀切で分断する点で、常陸大宮市美和の高沢城と良く似た構造である。
もともとは、白河結城氏の家臣、野瀬氏の城であったという。
おそらく八溝金山を管理する城であったのではないだろうか。
館は近津神社付近にあり、この館は緊急時の城であったのであろう。

戦国時代、佐竹氏がこの地域を制圧すると、佐竹氏は、金藤氏を上野宮地区に置き、上野宮館を守らせたという。(新編 常陸国誌)
荒蒔城、町付城の支城であり、金藤氏は荒蒔氏の部下であり、佐竹氏の代官として八溝金山を管理していたのであろう。

南西側から見た城址 西側にある3の堀。かなり埋没している。 本郭1。あまり内部は平坦ではない。
狼煙台のような穴がある。
東側にある堀2。これが一番明瞭であった。 堀2と5のピーク間の鞍部。幅5mほどで平坦。 5のピーク。ここは見張り台であろう。
ここにも狼煙台のような穴があった。
南側の尾根にある4の堀切。 南側の尾根先端6も見張り台か?
これはその下の曲輪。
左の写真の曲輪を北に行くと横堀7がある。

高岡城(大子町上岡)
大子市街地から国道461号線を2q西に進むと上岡地区となる。
水田地帯を挟んで西側に依上城、芦野倉城がある台地が見える。
北の佐貫地区に向かう県道205号線の交差点の少し東側が「新屋敷」であり、この付近に高岡城があったという。
茨城県遺跡地図ではこの城域のマーキング範囲が広範囲であり、どこが城なのかさっぱり分からない。
おそらく居館や城下があった場所がこの下の集落なのであろうか。

地図を良く見ると、十二所神社の東にある標高180m、比高40mの山が独立した山であり、この山が非常に怪しく思えた。
そこでここに城郭遺構があるのではないかと考え、行ってみる。
十二所神社あたりから登れるのではないかと考え、まず、神社に行ってみる。

この神社付近も居館のような感じであり、堀のような感じの場所も南側にある。
神社の西にある大きな民家も居館跡の可能性がある。
この山には神社の東から登る道があるので、この道を行く。

鞍部が堀切状になっているが、果たしてこれは本物であった。(堀切@)
後でよく調べると二重竪堀になっていた。

山に登って行くが、途中に幅数mほどの平坦地がある。これは帯曲輪である。
山頂は何と配水場である。
25m四方の広さであり、南東に15mの突き出しがある。
ここが本郭である。

西側下を覗きこんでびっくり。6mほど下に横堀が巡っている。
堀に下りてみると、堀はかなり埋没しているが、北側から西側に回っている。
比較的傾斜が緩い斜面部に横堀を回している。
つまり本郭を半周している。他の半周は帯曲輪が回っている。
本郭から西下に竪土塁が下っているが、これが登城路と思われる。
この竪土塁はさらに西下に延びており、下には長さ50mほどのだらだら傾斜した曲輪がある。
その先端は1段下がっている。
ここをずっと下ると例の豪邸の建つ場所につながる。南に降りると神社社殿である。

一方、山の北端は尾根状に北側の山とつながっており、途中に2本の堀切A、Bがある。
その北の山も城域ではないかと調べたが、そこには城郭遺構はなかった。
結局、配水場のある直径80m程度が城域であったと思われる。
神社付近まで入れても直径150m程度のものである。

城としては小規模なものである。ただし、横堀を持つという点では戦国後期の遺構を有すると言える。
おそらく、はじめから神社付近に居館を構えていた土豪の避難所、物見だったようである。

南側の麓にある十二所神社。
ここは館跡ではないだろうか。
この北の山に遺構が残る。
堀切@は道に転用されている。
この左にもう1本、竪堀がある。
本郭には配水場が建つが、
遺構はそれほど破壊されていない。
本郭北下の横堀。かなり埋没している。 本郭東下の帯曲輪。 城の北端。堀切B。

横堀の存在から佐竹氏支配時代に改変を受けたものと思われるが、この規模ではやはり、物見台、狼煙台程度の域を出ない。
依上城、女倉館から上がった狼煙信号を天神山城にリレーするのが役目だったような気がする。

佐竹関係の資料では、高岡(現 上岡)在住の家臣として菊池助左衛門、木六郎(50石)や根本右近(50石)などの名が見える。
城主は菊池氏か根本氏と推定するのが妥当であろう。

女倉館(大子町下金沢)
依上小学校のすぐ西側に岩山が聳える。ここが女倉館である。
この山、直径200mほどの独立した山である。
頂上部には平坦地があるように見えるが、急勾配でどこから登っていいのか分からない。
特に南側、国道461号線から見上げると岩盤むき出しである。

標高210m、比高は70mほどあり、どこから見ても急勾配、周囲をグルグル歩くが、やはりどこから登っていいのか分からない。
おまけに田舎で、寒い冬、人も歩いていなく、聞くこともできない。
しかし、西下の墓地裏からちゃんと登り道があるのをようやく発見。
急勾配で岩だらけのきつい道ではあるが、何とか登れた。
雪も若干あったが、落ち葉で滑るのが怖い。

頂上はというと、東西50m、南北30mほどの三角形をしており、平坦であった。
西側は一段、低くなっている。山の斜面は広葉樹であるが、山頂部は杉の林である。
ここにも社が2つある。


登り道は、この社のお参り用の道である。
北に虎口があり、下に帯曲輪が2段ある。本来は、この帯曲輪からこの上の曲輪の上がったものであろう。

依上城と八幡館の中間地点であることと、遺構を見れば、ここは間違いなく物見台、狼煙台である。
この館、立てこもられたら、攻撃のしようがないが、何しろ岩山のてっぺん、ここには水がない。
1週間も包囲すれば、干上がる。(そんな閑な侵入者もいないと思うが)
長期間の篭城はできない。


狼煙を上げてすぐ退散するか、ほんの数日、避難するだけのものである。
しかし、遺構などどうでも良く、ここは、行ったという実績自体が自慢できることだろう。

東側から見た館跡。 西側から見た館跡。写真西側下から登れる。 ここが登城口である。多分当時からのものであろう。
すぐ上は墓地になっている。
ここが本郭。石の社が2基あった。
内部は意外に平坦であり、予想外に広い。
本郭の北側に虎口がある。
虎口の下に雪に覆われた帯曲輪が2段あった。
本郭から見下ろした国道461号線と押川。
ブルーの屋根は上列中央の写真に写る建物。
城址到達の証拠写真である。

八幡館(大子町上金沢)
押川と相川に挟まれた山地の北側は、山が侵食されて尾根が何本も北側に突き出て複雑な地形であるが、この館は、その尾根の1つにある。
ちょうど宿地区の南300mの山が城址である。
館の最高地点の標高が165mであり、比高は60mほどであるので、それほど高い場所にあるのではない。
南側に続く山の方が標高は若干高く、尾根でつながっているが、定石どおり、この尾根筋は何本かの堀切で遮断している。

この館に行ったのは積雪のあった後であり、北側は雪が残っていると考え、南側、相川方面からアプローチした。
しかし、これはとんでもない間違い、判断ミスであり、おかげで違った尾根筋を2本進んでは戻りすることになり、山中放浪の羽目に陥った。
原因は侵食された尾根が複雑に突き出ており、この複雑な地形に幻惑されてしまったことによる。

悪戦苦闘の末、館跡には到達できたが、やはり、定石どおり、宿地区から行くのが良い。
雪もそれほどではなかったのである。
思わぬ、時間と体力のロスとなった。
しかし、遺構は、山中放浪を帳消しにしてくれるものであったため、文句はない。
それほど大規模な城ではないが、まずまずというところである。

この館、特徴は北端部、標高150m地点に70m×50mほどもある平坦地があることである。
現在、ここは畑となっているが、北側に低い土塁がある。
その土塁には人の頭ほどの石が沢山ある。
石垣あるいは石で補強した土塁だったようである。

この平坦地には北から登る道があるが、平坦部の入口は虎口状である。
さらに虎口を出ると斜面には腰曲輪がある。
この平坦地は後世のものとは思えず、館跡ではないかと思われる。
しかし、北向きの場所であり、日当たりは、あまり良くないので果たして、本当に館跡であるかは自信がない。

この平坦地から西側を巻くように登る尾根がある。
ここには竪土塁のような道があり、高さで15mほど登ると大きな曲輪Uがある。
40m四方もある平坦地であり、北側に1段、段がついている。
西側下5mには帯曲輪がある。西側には低くなっているものの土塁の痕跡がある。

また、南側から高さ2mほどの土塁が張り出し、その南側に1mほど高く曲輪がある。
ここが本郭Tである。直径30mくらいの広さである。
社があり、南東側に腰曲輪がある。
この郭の周囲は崖状であり、岩が多く、石垣のように見える。
曲輪内にも石が多く、投石用には不自由しないであろう。

尾根に続く南側には堀切、竪堀が連続する。
本郭の南に窪んだ場所Vがある。これは射撃陣地なのであろうか。
その南に堀切@、Aがあり、土橋を経て、南側の尾根に続く。
その尾根を行くと相川方面まで行ける。このルートは搦手道、避難道でもあったと思われる。

この尾根上は広く、一部、藪になっているが、今でも十分に歩ける。

いくつかのピークがあり、上が平坦になっている。ピークのいくつかは物見台であったのだろう。

本郭から西にも尾根が派生するが、その尾根には堀切等、施設は何もない。

館の範囲としては、南北250m、東西150mくらいであろうか。

この畑が館跡では。中央上に本郭Tが見える。 館跡推定値の北側には斜面に面し、土塁がある。
その土塁には石がいくつも入っている。石垣か?
館跡北下のWの部分。
下には雪が積もっている帯曲輪がある。
館跡推定地の虎口付近から見た宿の集落。
ここは集落より40mほど高い場所にある。
曲輪U内部は広くて平坦である。
西側には低いが土塁がある。
曲輪Uに南側から石を多く含む土塁が突き出し、
この土塁は本郭Tに続いていく。
一段高い場所が本郭である。
本郭に建つ社。 本郭の南側には窪地Vがある。
土塁の向こうが堀切@である。
堀切@であるが、埋没が進んでいる。

規模からして大子西部、国道461号沿いの城館では一番しっかりしている。
地域支配の拠点の城ほどの規模ではないが、それに準じた位置づけがあったと思われる。
北側の平坦地が当時から存在していたなら、居館を兼ねていたか、常備兵が駐屯していたことになる。
または、佐竹軍が黒羽方面、馬頭方面に侵攻する際の宿城、軍勢の集合拠点であったかもしれない。
水府志料には館主名として大塚大膳の名が登場する。竜子山城の大塚氏の一族であろうか?