長崎要害(大子町大字下野宮)
「長崎」と聞けば「長崎は今日も雨だった。」のあの長崎を連想する。
あそこは海に面した街である。
「崎」という字自体が「岬」同様、半島の突端部などを指す海に係る地名という。

一方、同じ地名のこちらの「長崎」、海とは無縁の山間の地である。
おそらく昔のここの住民などは「海」を見ることなく一生を終えた人も多かったのではないかと思われる。

場所は、茨城県最北端、福島県と境を接する大子町のさらに山間深い場所である。
久慈川沿いを走るJR水郡線の「下野宮駅」から北東に直線で2.5km、外大野地区に向けて延びる山間の曲がりくねった道を進んだ場所にある。

この山間の道、長崎地区の西に「塩の平」という地名があり、少し南には「塩ノ久保」という地名があるので、この道は戦国時代の「塩の道」の1つではなかったと思われる。
南東に標高463mの高見山があり、そこから北西に張り出した尾根の先端部が「長崎」地区である。
高見山からは直線距離で約1qの場所である。
確かに尾根を半島に見立てれば、尾根の突端は半島の突端に相当するので「崎」が地名に付いても不思議ではない。

麓の久慈川の標高が120mに対し、ここは標高250〜280mにかけて集落が存在する。
大子町、ここは過疎化が進んだ町である。
現在、人口はピーク時の半分になっている。
国道118号線沿いは大型店舗があり福島県矢祭町方面も商業圏に入りそれなりに繁栄しており、過疎化の影は少ない。


↑西下から見た鉄塔の建つ「ゆうげん山」

しかし、国道から離れた山間の集落に入ると過疎化は著しい。
かつては林業が主な産業であったようであるが、その面影はほとんどない。
それでも人は住んでいる。
この長崎地区よりさらに山間となる東の高久地区(標高375m)にも民家がある。
いったい何で生計を立てているのであろうか?
Aの平場・・であるが、藪で分からない。 Bの鉄塔直下の曲輪 ピークCに建つ鉄塔

この長崎地区も人家の半分以上が無人である。
このため、話を聞きたくても人がいないのである。

この長崎要害という名称、仮称である。
地元では城のある山を「ゆうげん山」と呼んでいるそうである。
もちろん「要害」が訛ったものである。

それと佐竹の城があったという伝承が存在するという。地元で聞いた人もその伝承は承知していた。
地名と伝承に遺構があれば城館と言えるだろう。
城は長崎集落の東の山に鉄塔が見える。
東電東福島幹線の鉄塔である。鉄塔のある場所の標高は351m、その鉄塔がある山付近が城という。

この鉄塔には長崎集落の東端、最奥の民家(標高280m)前から沢を越えて谷沿いに登る鉄塔保守用の道を進めば行くことができる。
この鉄塔は東電東福島幹線188番鉄塔である。この送電線、福島第一、第二原発で発電した電気を福島幹線とともに東京方面に送るためのものである。
今はどの程度の電気が送られているのだろうか?

ピークE 頂上部は平たい。ここも曲輪だろうか? ピークH もうすぐ高見山、ここは逃走路か? ピークG、H間の土橋状の細尾根J

この山、結構、勾配がきつい。
谷を進み、尾根に出ると尾根先端部、標高313m付近Aに平場があり、腰曲輪状になっている。
藪が酷くて先端部がよく把握できないが、人工的である。
なお、この尾根の先端部にも平坦地があるが、そこは畑として使われていたようである。
そこは曲輪を転用したものである可能性もある。
ここから鉄塔に向けて道を進むと、鉄塔南直下Bに2段の小曲輪がある。
これらも人工物である。

鞍部に出て西のピークCにある鉄塔部に行く。
そこには祠があったそうであるが鉄塔が建てられたため既にない。
特段、何も遺構はここにはない。
木があって視界は妨げられるが西の久慈川方面の眺望は良さそうである。

眺望が良いのは西側のみである。その他、3方向は高い山に囲まれており、山しか見えない。
鉄塔のあるピークから北西側に細尾根が下るが曲輪はない。
北側は崖状の急斜面である。

鉄塔がある場所から南東方向、高見山方面に尾根が続いている。
尾根に城がある場合、背後の尾根に堀切を設け、背後からの攻撃に備えるのがセオリーである。
このため、堀切を求めて尾根伝いに歩いてみる。この尾根、広くなったり、細尾根になったりして続く、尾根上にはD〜Hまでの5か所のピークがある。
いくつかはピーク上が比較的平坦であり、曲輪としても使えそうな感じである。

しかし、堀切は全く確認できなかった。
尾根が細いので必要がなかったのかもしれない。
唯一、標高381mのピークGと標高392mのピークH間の鞍部Jに土橋状のような場所があった。
もっともここは細尾根、尾根の両側は崖状であり、自然地形ではないかと思われる。

以上のようにこの細尾根地形であるため、堀切が不要であったのかもしれない。
もっともこんな山深い山中に入り、背後から攻めることなど元々想定できないと思われる。
それより、この尾根筋、逃走用のルートであり、城自体、逃走用ルートを守るための目的もあったのかもしれない。
このルートで高見山に行けば、そこから東の外大野地区などに行くことができ、何とか生存が図れる。
なお、Hには平場がある。
自然地形と思われるが、ここは住民の避難場所にもなると思われる。
平場H・・避難場所か?

さて、この城館の性格であるが、主体部は先端部のA、B、Cではないかと思う。
当初、狼煙台の機能もあるかと思ったが、西方以外に眺望が効かず、その役目があったようには思えない。
ここを通る道が「塩の道」とすれば重要な街道である。

その街道を監視するとともに、ここから緊急事態を狼煙や鐘、太鼓でこの谷筋に知らせる火の見櫓のような役目、地区の住民の緊急時の避難場所、そして住民を山中に逃避させるための施設、つまり「里の城」の役目もあったのではないだろうか。
城とすれは非常にシンプルである。
しかし、この地形ではこの程度でも攻めにくい。
城の目的と地形の利用を考慮すれば、この程度でも十分、合理性があるともいえるだろう。

城の伝承では佐竹の家臣が交代で詰めたという。
奥州南部を制圧した後、この地は安定していたはずである。
その頃に城が機能していたのか疑問である。
城番を置くほどの緊張感があったとすれば、大子の地を佐竹と白河結城氏が争っていた戦国後期より前の時代ではないだろうか?

外大野の城郭伝承地(大子町外大野)
非常に曖昧な表現である。
この場所の住民はここを「城」と言っている。
しかし、現地に行ってみると城っぽい一面もあるが、どうも確証、インパクトが今一つ弱い。
そのため、「城郭伝承地」とした。

場所は大子も名勝「袋田の滝」から直線距離で北に約5q、外大野地区である。
ここには「外大野のしだれ桜」という名勝があり、その少し北、この道筋の西側の岡の上である。岡下の標高は312m、岡の上は標高333m、比高21m、岡上は平坦であり、佐竹氏家臣の系図を所有し、家臣の子孫であるS氏宅があり、城とも伝承されているとのことである。

この岡の西に直線距離で約1.2qに標高463mの高見山がある。
高見山から派生する尾根を下ればここに着く。

2018年12月8日、ここに行った。↑の写真は東下から見た城郭伝承地の民家である。
さて遺構であるが遺構らしいもは民家背後北側のの土塁のみである。
この土塁、城郭に伴うものと言うより風避けの土塁のように見える。
岡下の民家の北側にも同じように土塁があった。
岡上は平坦であり、そこそこの広さもある。

この外大野地区には狼煙台のような場所は確認されていない。
このため、ここは狼煙台の可能性も想定される。
この民家の西側、民家の場所から比高50mほど、標高354mのピークがある。
そこが狼煙台ではないかと思われた。
しかし、そのピークはただの山であり、狼煙台と思われる遺構は確認できなかった。
このため、その時はここは城ではないと判断した。

民家背後の土塁は風避け用か? 岡上から見下ろした街道筋

その後、2019年1月5日、栃木県大田原市(旧黒羽町)の須賀川館(仮称)に行った。
そこはここと非常によく似ていた。
須賀川館にも堀とか土塁とかの城郭遺構らしいものはまったくなかった。
民家の背後の山が平坦になっているだけであった。

山が南側に続いておりピークがあるが、そのピーク部付近にも何もない。
一見、城館とは思えなかった。
しかし、麓の民家の方は城館として認識されていた。

武茂氏家臣の末裔、民家の地が居館であり、民家背後の平坦地が城だったという。地名も「竹の内」、「館(たて)の内」から由来した城郭地名である。
民家の方の話によると、佐竹氏、武茂氏の軍勢の蘆名氏や伊達氏と戦うために出撃して行った軍勢の集合地、宿営地だったようである。
攻撃用の目的が大きいため、攻撃されるという想定は弱く、防衛は重視されていなかったようである。

地形といい、城という伝承、住人が武家家臣の末裔、出撃用施設であり攻撃を受ける想定がない、という点でこの須賀川館と非常に共通点があるのである。
ここが、同じ性格のものとすればここも宿城的な城郭の可能性もあるのではないかと思われる。または東下の街道は塩の道であった可能性がある。
この街道の先、久慈川近くに「塩ノ平」という地名がある。運搬する重要物資である「塩」の管理施設であった可能性もあるかもしれない。
民家背後の土塁、これはやはり防御用の土塁でもあったのかもしれない。
城館とすれば名称は「外大野館」だろうか?
S氏の先祖はその宿城、運搬施設の管理人でもあったのかもしれない。

内大野館(大子町内大野)
近くのいつでも行ける場所は、意外と地元の人は行っていない場合が多い。
いつでも行けるので、結局、いつまで経っても行かないのである。
管理人にとってはこの館もその1つであった。

場所は大子町東部、袋田の滝の北東にあたる内大野地区にある。
大子町一番の名所「袋田の滝」の北東3qの山間、県道33号線沿いの内大野にある。
目印としては町立生瀬中学校が最適であろう。
中学の東下を流れる「袋田の滝」を流れ落ちる水が流れる大野川の対岸の山の先端部が城址である。

山の西の裾野はずばり「堀ノ内」という地名であり、居館があった場所である。
残念ながら居館の遺構ははっきりしないが、一番高い場所にある実相院というお寺が居館の主体部だったような気がする。
堀ノ内集落は根小屋であり、大野川が水堀を兼ねていたのであろう。
さらに東から流れる沢が大野川に合流するため、堀ノ内集落の周囲は3方が水堀相当の川が流れ、残る一方が山ということとなり、結構な要害の地である。
その一方の山が館跡である。

↓は居館推定地の実相院から見た城址である。

ここは我が家からは大子に行く途中であり、館跡にもすぐ登れるので、何度も通っているが、結局、訪問していなかった。
その一方で、非常に行きにくいこの館の物見と推定される南の山にある「内大野要害」には10年以上前にしっかり行っているのである。

その内大野館、やっと到達。
やはり、道などないが、実相院の裏山なので行くのは楽である。実相院の裏山をよじ登れば5分で到達である。

館はこれまた実に簡素、かつ単純なものである。
東西に堀切を置き、その館の尾根を4段ほどに区画しただけのものである。
内部は区画はされ、東側が膨らんだ形の尾根式の単郭城郭と言えるだろう。

全長は東西約120m、最大幅は25mほどである。
実相院裏の山を登って行くと、西の堀切@に出る。
堀の深さはほとんどないが、竪堀はしっかりしており、主郭側の切岸は急勾配で6mの高さがある。

@西側の堀切 A主郭内部は4段になり、南側に通路状の曲輪がある。

主郭Aには南側が周り込んで入ったようである。
内部は区画されているが、一番東端の場所以外、区画の段差は曖昧である。
内部は枯れた笹が密集しており歩きにくいが、広葉樹が落葉した冬場は比較的見通しはよい。

東端の地が主郭相当の地であり、西側は3mの段差になっている。
その下には堀が存在していた可能性があり、若干窪んでいる。
東端は東西35m、南北15m、さらに南に1mの段差があり、幅8mの腰曲輪を持つ。
ここの標高は316m、大野川からは60m、実相院からは57mの比高である。

B主郭東端に土塁がある。 C東の堀切

北東側に高さ1.5mの土塁Bがあり、その土塁の東に深さ4mの堀切Cがあり、竪堀が下っている。
竪堀に沿って、南側に曲輪が確認される。

必要最低限の防御機能しかなく、攻撃された場合は東の山中に逃走することになっていたのであろう。
逃走完了までの攻撃を支える時間稼ぎ程度が目的に思える。

堀ノ内地区にあった居館や根小屋の住民の緊急避難場所であるとともに、内大野要害との連絡場所、あるいは矢祭方面からの狼煙リレーの中継所機能もあったのではないかと思われる。
館主は付近の神社の棟札に名が残る佐竹氏家臣の斉藤氏、あるいは生瀬の領主として秋田に移った一族と残った一族が記録されている石井氏のいずれかと思われる。

内大野要害(大子町内大野)

袋田の滝の東側、小生瀬地区とその北の内大野地区を隔てる標高371mの山にある。
水府の谷を通る国道461号線を北上し、小生瀬の交差点を左折して袋田の滝方面に進まず下野宮方面に直進する。

道は登りになるが、生瀬小学校前を過ぎると峠となり、道は内大野地区に入る。
この峠の東300mほどの山が城址である。
城址には三角点があり、国土地理院発行の地図に三角点のマークと標高371mが記入されているので、この城の正確な位置は国土地理院の地図を見ていただければ分かる。

この城は内大野地区にあった内大野館の詰の城である。
内大野館のあった場所は東からせり出した山の麓の台地上であり、地名は館跡を意味する堀の内というが、今は寺院と宅地になっており遺構はない。

内大野要害は館跡のあった内大野地区から見ると南東側に見え、富士山型のきれいな形をしている。
内大野地区の標高が250m程度であるので、館跡付近からの比高は120mである。
館のあった内大野地区からの登る道があるはずであるがその道がどこか分からない。

しかたないので小生瀬との間の峠から突入することにする。ここから突入を図ったのは峠の標高が290mあり、登る比高が稼げるとの単純な考えによる。
このためとんでもない藪の中を行くことになるが、尾根上は結構歩けるのでそれほどきつい藪漕ぎではない。
遺構は期待していなかったが、やはり想像どおりであった。それでも遺構は完存である。
城域も小さく、東西80m、南北30m程度にすぎない。

山頂部を削平し、頂上部に削り残しの土壇(13m×4m)を残し、その周囲3〜4m下、3方向に張り出す尾根に突き出し幅13〜15mの3つの腰曲輪を置くだけのもの簡単な構造であり、東方向は尾根に沿って曲輪が3段構成になっている。
堀切や土塁は一切ないが、斜面の勾配は結構きついので不要かもしれない。
予想どおり、内大野の集落方面に向けて道が付いている。これが登城路であろう。この城は尾根式城郭ではなく、山の頂上を利用した城である。このため、攻撃方向の特定がしにくく守りにくい。

反面、尾根伝いにどの方向にも逃げられる利点もある。
段郭だけの城であり、印象としては里美の大中館と似ている。
戦国前期の城といえるだろう。
内大野館にはどのような土豪が住んでいたのか良く分からないが、この内大野要害は佐竹氏の支配体制が確立したころにはもう使われていなかったようにも思える。
そういえば、佐竹氏が秋田に去った後、この付近で水戸藩による住民の大虐殺事件「生瀬騒動」があった。
この時、ある程度の住民は難を逃れ、どこかへ避難しているはずである。この城に避難した住民もいたのではないだろうか。
北側の内大野地区から見た城址。 山頂にある土壇。これが主郭である。 土壇上から見た西側の腰曲輪。
城址南の斜面。結構急勾配である。 東に延びる尾根上の曲輪から見た山頂の
土壇の方向。
内大野館跡は人家や寺の敷地になってい
る。

下金沢古館(大子町下金沢)

依上小学校南の押川対岸の比高8mほどの丘の先端部が館跡という。

この丘に登ってみたが、台地の上は、ほぼ平坦で宅地や畑地であった。
立地条件は東にある下金沢未城と同じである。

丘の上には、堀跡らしい遺構も何も全く確認できなかった。

戦国時代初期に使命を終えた館であったのではないだろうか。

(航空写真は昭和50年撮影の国土地理院のものを切り抜いた。大子町史、「余湖君のホームページ」を参考とした。)


館跡内部はただの畑と民家であり、遺構は見られない。
左手の突き出た山は女倉館。

相川館(大子町相川)

栃木県馬頭・黒羽方面に向かう国道461号線から県道158号線に入り、相川沿いに南に走る。
この道を行くと常陸大宮市の美和方面に抜ける。
この館は、国道461号線からの分岐から3kmほど、南に入った相川地区の中心部の小盆地にある。
館があったという場所には、水田地帯に突き出た高台のような場所であり、そこには立派な作りの武家屋敷のような民家が建っている。

東側は、相川が水堀の役目を果たしており、西側は水田部に対して高さ5mほどの鋭い切岸状になっており、ここの部分が、いかにも館という感じである。
しかし、北端はだらだらとして水田地帯に合流している。
佐竹氏家臣、野内氏の居館であったという。野内氏は元々、この地の土豪であったらしい。
戦国初期、佐竹氏が山入の乱で衰退しているころは、この地は白川結城氏が支配しており、白川結城氏に属していたこともあったと思われる。


館跡西側の切岸。けっこう鋭い勾配である。

西側から見た館跡。

その後、佐竹氏に従い、月居城を預かったり、須賀川二階堂氏が伊達氏に攻められた時には、佐竹の援軍を引いて派遣されたりして重用されている。
野内氏は大子地方では佐竹家臣では400石の最大領土を持ち、金沢を中心とした押川流域が領地だったようである。
ただし、戦国後期のころ、この館にいたのかは分からない。

和田城(大子町和田)

久慈川の西、大子広域公園のある山の西の谷、浅川が流れる和田地区にある。
 ちょうど大子広域公園から南西に延びる尾根の末端部にあたる。県道160号線沿い東にある「ささら」で有名な真弓神社のある場所が館址であったようで、この神社の参道付近が登城口のようである。
 この場所、県道の西側に八溝神社の鳥居があるのでここが目印になる。
 ちなみにこの鳥居以外何もない。鳥居を南から見るとちょうど真ん中に八溝山が見え、山自体が御神体であることが良く分かる。
 真弓神社の建つ地の西側、県道からの登口は城の切岸ような感じであるが、南側は緩斜面である。

 この台地は結構広く、東西50m、南北150m程度はある。台地の県道からの比高は10m程度である。
 台地上に特に堀や土塁はないが、南側の谷津になった場所に水を入れれば水堀状になるので防衛上は問題はなかったのかもしれない。
 肝心の和田城であるが、神社東側の山である。
西側にある岩山が城の本郭だったようである。山頂から一度、西に回り、南側に尾根が延びる。
 南側の尾根は緩やかに広がるが、一部、段々になっており、これは曲輪のようである。神社からの登り道がそのまま登城路のようである。
 山上の本郭までの間に大きな岩があり、石門のように見える。その先に小さな堀切がある。
本郭は真弓神社から30mほど高く、広さは10m×7m程度にすぎない。東側に2段、西側に1段の小曲輪を持つ。
 しかし、ここは防御を行うような場所ではない。単なる物見台及び尾根伝いでの館への攻撃を一時的に防御する程度の機能しかない。
 南の斜面は岩剥き出しの絶壁である。東側、高度15m下に堀切があり、そこを過ぎ高度差で10mほど登ると物見台がある。
 その東に二重堀切がある。東はまた登りになり高さ10m登ると長さ60mの細長い平坦地となる。
 この先はまた下りとなるが、この先には城郭遺構は見られない。2重堀切が城の東端であろう。都合、長さ200m程度の小型の尾根城に過ぎない。
 この城の来歴は分からない。恐らく地元の土豪の城ではないかと思われる。
 なお、尾根伝いに北東に行くと矢田城に行ける。両城は尾根でつながっており、1.5qの距離にある。
 当然、防衛上関係があったと思われる。攻撃されたらこの尾根伝いに矢田城方面に逃げれば良い。この山中は隠れる場所はいくらでもある。
西側に広がる館跡と推定される平地。 南東側から見上げた本郭部。
南側は岩剥き出しの崖である。
本郭は非常の狭く、物見台程度。 本郭背後(東下)の堀切。

矢田城(大子町矢田) 

フォレスパ大子の東側、久慈川の平地を望む標高200m、比高70mの山が城址である。久慈川を挟んだ対岸の山上に鏡城が見える。
 ここは大子広域公園の一角であり、整備された遊歩道が城址まで延びており、オールシーズン見学が可能である。本郭には東屋まである。

 しかし、公園化されたため、遺構の一部は破壊されているようである。
 遊歩道を登って行くと二郭に出る。25m×10mほどの大きさであり、南側と西側に腰曲輪を持つ。
 二郭の北側に幅10mほどの堀切があり、その北に本郭が聳え立つ。高さは20m程度あり、急勾配である。二郭から見上げると圧倒される光景である。
 本郭へは西側を回り北側から登る。本郭の北側4m下に幅15mの腰曲輪がある。西側に堅土塁があったようであるが良く分からない。
郭は35m×17mの広さがあり、南側に土塁がある。ここから見下ろす二郭北の堀切は圧巻である。
 本郭からは北東側、北側に2本の尾根が分岐し、尾根に曲輪が築かれているが、公園化で整備されているため、どこまでオリジナルかは分からない。
 和田城同様、物見の砦という感じの小規模な城である。

 歴史は分からない。和田城と連携したこの地の土豪の城であろう。
 ところで和田城と矢田城の間が大子広域公園であるが、この公園内の山は、谷部の侵食が進んでおり、いずれもこの矢田城や和田城の主郭部並の鋭いピーク状である。
どこを見ても城のように見えてしまう。この山中のどこに逃げても命だけは何とか助かりそうである。

本郭南側の土塁。 本郭から見下ろした二郭と堀切。15mほど
下にある。
左の写真とは逆に堀切から見上げた本郭。
鋭い勾配であり、とても登れない。