町付城と荒蒔城(大子町町付)
 大子町下野宮から八溝川沿いに県道28号線を4qほど進み、中郷川にかかる橋を過ぎると町付の中心地区に出る。
 県道の北側は結構広い台地になっている。この台地の東端、八溝川と中郷川が合流する地点の西の丘の部分に町付城がある。別名、獅子城ともいう。
 城址は一面の畑になっているが、畑の中に堀の跡がくっきり残る。

城域の西端がどこなのかはっきりしないが、県道196号線が走る切通の道が堀跡を利用したものでここであると思われる。
 城域は200m四方程度あり、6つの曲輪がある。
 東側に130mほど半島状に突き出た曲輪Xがあり、ここは物見台があったようである。
 ただし、この部分は県道建設で南半分が失われている。
 北側は中郷川に落差20m以上ある崖である。

本郭はTの曲輪であろう。
この曲輪の標高は170m、八溝川と中郷川の合流点の標高が135mであるので比高は35mである。
 この曲輪は東西100m、南北80m位ある大きな曲輪であり、北と西には堀がある。
曲輪Xとの間には深さ4mほどの堀切がある。 
曲輪Tの西の堀は幅10m程度あるが、かつてはかなり深かったものと思われる。
 その西が曲輪Uである。この曲輪は東西20mほどしかない。
 その西側にも堀を介し、同規模の曲輪がある。曲輪Tの北側には堀を介し曲輪Vがあり、その西に曲輪Wとなる。
 この城はほとんど平城に近く、居館を置くには最適である。
この広さからして政庁的な建物もあったものと思われる。
 南側の現在、町付の町のある部分は斜面に曲輪があったと思われるが、宅地化でかつての姿は分からない。
 当時も城下町があったのであろう。

また、城の西、黒沢小学校にかけての台地上にも城下町があったものと思われる。
本郭西の堀越しに見た本郭。
100m×70mほどの広い曲輪である。
本郭(右)と曲輪V間の堀。 曲輪V(右)と曲輪W間の堀跡。
曲輪W西側の堀跡には県道196号が通る。 本郭東の堀切。深さ4mほど。 曲輪Xは東に100mほど突き出た細長い曲輪。
県道28号の建設で削られている。

 この城は、この地を支配した白河結城氏が佐竹氏の侵攻に備え、家臣の深谷氏に築かせた城という。
 山入の乱を鎮圧した佐竹氏は北進を開始し、その手始めに大子地方を第一目標にする。
 大子城が制圧され、深谷氏も一時は佐竹氏に下るが、反抗を企て佐竹氏に滅ぼされる。

 その後、佐竹氏は荒蒔氏をこの城に置く。
永禄年間、この城の要害性を懸念した荒蒔氏は、より要害の地に新たに城を築いて移ったため、廃城になったと伝えられる。
 確かにこの城は、曲輪Wの北側、西側は本郭より高く、この場所から城内を見渡すことができ、川の合流点の台地にあるものの要害性は劣る。
 しかし、これだけの広さがあり、それなりの要害性はある。
 このような場所は大子には少なく、佐竹氏の時代もここが大子支配の拠点城郭として存続していたのではないかと思う。

荒蒔氏が築いた城とは、町付城から700m西の山にある荒蒔城である。
右の写真は南東から見た城址である。
 この荒蒔城へは慈雲寺の山門前を西に行き、200m行って北曲がり、山に登って尾根伝いに行くと遠回りになるが行くことができる。
 この道をとおり「茨城県遺跡地図」に城址として示された山まで行くが、そこは尾根のピークの1つであり頂上に社がある。
 ここの標高は235mである。
頂上は10m×5mほどの曲輪状になっており、周囲に曲輪があるが、砦程度の規模でしかない。
 ここが、荒蒔城とはとても思えない。この程度の城で町付城を背後から守れるはずはない。
 このため西側に少し進んでみる。
物見台のようなピークが2つ(物見1,2)あり、尾根上の道は土橋状になっているが、土塁、堀切といった明確な遺構はない。
西方向に向かうがピーク(物見3、標高270m)と堀切か自然地形か分からない場所があるものの城郭遺構のような感じのものはなく、しかたがないので引き返す。
 途中、山を上がってきた犬を散歩させている地元の人と会う。
 その人によると「城址は南東に延びる尾根で、大きな土塁や堀がある。

地元ではそこを「館(たて)」という。」とのこと。
 このため、南東の尾根方向に進んでみる。直ぐに堀切1が現れる。
 真ん中に土橋がある。
堀切の南に頂上が平坦なピーク(物見4、標高240m)があり、今度は緩やかな下りとなる。
途中で南と東に尾根が分岐する。
東側の先に曲輪がある。(先端部は急斜面)
尾根間の谷間に2段の曲輪がある。
南の尾根を見ると古墳のようなものが見える。近づくと高さ3mほどの土塁である。
 尾根を遮断する堀切は一般的であるが、尾根を遮断する土塁というのは馬坂城にあるくらいで余り目にしない。
 土塁の南に25m×15mの平坦地があり、その先に大きな堀切2がある。この堀切の東側に主郭部が聳え立つ。
堀底から上までは15mほどある。
 切岸は急斜面であり、木につかまってよじ登る。
頂上には直径5mほどの櫓台のようなものが2つある。
 

ここがこの主郭部の最高箇所(標高240m)である。南の八溝川の標高が150m程度であるので比高は90m程度である。
北側の櫓台からは高さ2.5mほどの土塁が東に下っている。
ここで驚いたのはこの土塁である。所々欠損はあるが、なんと石で覆われている。石は20〜30pの丸みを帯びた河原石である。

一応、土留め用ではあるがこれはまさに石垣である。
この土塁は防御用というより、風よけ土塁のようである。似たものは南郷の城に多い。
櫓台にも石があり、ここも石で覆われていたようである。
石の多くは櫓台の一段下の曲輪にある社の台に使われてしまっているようである。

この最上部から東に尾根が延び、尾根に沿って2〜3mの段差で階段状に曲輪が9段展開する。
長さは5m程度のものから20m程度のものまで様々である。幅は20m程度である。
末端の広い曲輪までは130mほどの長さがある。尾根の北斜面、南斜面にも帯曲輪がある。

尾根末端の曲輪は、最高箇所から30m下、標高210m地点にあり、幅20m、長さが100mほどもあり、馬場のような感じである。
さらに東に尾根が続き、高さ7mほどある堀切Bがある。その東側は曲輪が明瞭でない。
八溝川に面する南の斜面は崖である。その崖に面して土塁がある。
今度は北側に回ってみるが、主郭の北側下の部分に25m四方の館址のような平坦地があった。
主郭側は一段高く帯曲輪になる。

 館址と思われる平坦地の北側に虎口があり、下に曲輪が2,3段ある。
その下は崖であるが、何とか下には降りられそうである。
 ここが大手道であろうか?
 その下は谷津であるが、沢があり、結構水が豊富である。
 この城の尾根間は大体水が流れている。

 山の伏流水が尾根末端の谷津で地表に出ているようであり、篭城で一番重要な水はこの城については問題ないようである。
  まだ、城郭遺構は有りそうであるが、城域が広く、斜面も急、おまけにやぶも結構あるため、全部は確認できない。

出城の主郭には社が建つ。 城域北端の物見3。 堀切1。ここから南が実質的な城域。 堀切1の南側にある物見4。
堀切1,2の間にある土塁。 堀切2。 本郭に建つ社と背後の櫓台。石垣で
補強されている。
主郭部北東下にある館跡と思われる
曲輪。

 少なくとも、確認できた領域は主郭部のみで東西400m、南北100mの範囲に及ぶ。
 最初に行った場所は出城である。
 この点では「茨城県遺跡地図」は決して間違いではない。

  このように荒蒔城は広大な山城であった。
 町付城の詰の城にふさわしい規模である。
 政庁である町付城を背後の荒蒔城が守るという根小屋形式である。
 この二城の関係、どこかで似た城がある。そう、山方城と高館城である。

 大子地方の拠点城郭がどこなのか分からなかったが、この町付城と荒蒔城のペアこそが大子支配の拠点城郭であろう。
 そういえば慈雲寺も城のような感じである。
 ここも城の一部なのだろう。
 ここに砦か何かがないと北側の中郷川方面からの攻撃で町付城と荒蒔城が分断されてしまう。
 寺の南にある黒沢小学校の地にも館があったのであろう。
 この付近の台地は広く、この付近に大きな城下町があり、ここが戦国末期の大子の中心であったのであろう。