鏡城(大子町池田)
 大子町役場から久慈川を越えた東岸、北北東へ約2.5km、標高約220mの鏡山の山頂にある。
 山頂には雷神社があり、公園化されている。
 城のある山は南に尾根続きであり、尾根の最北端のピークに主郭がある。
 主郭の東、北、西側は斜面となる。城へは南側にある山倉神社の裏から尾根伝いに、整備された参道が延びており、夏場でも比較的容易に行くことができる。
 山倉神社は、直ぐ東にゴルフ練習所があるのでここを目指せば良い。

 山倉神社付近は久慈川の河岸段丘に当り、川からの比高は30mほどある。
 城の比高はこの台地から80m程度である。
 この参道の途中の尾根には巨岩が多くあり、岩の物見台や石門と思われるものがいくつかある。
 山頂に続く尾根に出ると物見台のような土壇があり、本郭に行くには一旦、北側の鞍部に下る。
 一方、この土壇の南側にもピークがあり、そこも物見台であったようである。


 南から見た鏡城。すでに冬の午後4時過ぎ。
 夕日が斜面を照らし、山が赤い。
鞍部で西側から登る道と合流するが、そこは堀切状になっている。
 北に200mほど行くと主郭部であるが、その手前の南側は岩が多く見られ岩盤が剥きだしになっており、天然の城壁である。

 神社のある場所付近が本郭に当るが、結構広い平坦地である。東西70m、南北40mほどの広さを持ち、中央部がやや盛り上がっている。
 東側には5mほど下に曲輪が確認できる。

茨城県重要遺跡報告書U掲載図では、北側にかけて3段の郭があるように書かれているが、東側にある曲輪を除いて段は確認できない。
 中央部の盛り上がり部も独立した郭としている可能性もある。
 本郭部の面積は約2,000m2(20a)という。
基本的には単郭の城である。

 堀切や土塁などお馴染みの城郭遺構は全くない。
山頂部を平坦化しただけであり、ほとんど自然地形のままに近い。
 一見しただけでは、南北朝期以前の山城という感じである。
本郭内部。良く整備されているが、
果たしてここまで何人来るのだろうか?
本郭南の鞍部にある堀切状の場所。 さらに南にある物見台のような土壇。 石門か?山倉神社から延びる尾根にある。

『水府志料』には、「古墟 鏡の城といふ 往古萩原富得今近津主殿の先祖築といふ。其孫下野守尊憲なる者、天文の頃、佐竹義重に属して奥州白川関入道と戦ふ。白川の兵来り襲ひ、尊憲利失ひ退き、城廃すといへり近津明神縁起に在」と記している。
 また、『新編常陸国誌』には次のようにある。
「久慈郡池田村ニアリ、鏡城卜称ス、伝ヘテ藤原富得ノ築ク所卜云フ、其子孫世世々此二拠り、近津神社ノ神職トナル、富得13世ノ孫ヲ伊賀守康重卜云フ、其養子義広職ヲ襲グ、義広18世ノ孫大宮司尊憲、佐竹義篤(一二義重)ニ属シ、天文16年、白河城主関義近卜戦ヒ、利ヲ失ヒ、尊憲父子及び一族20余人戦死ス、城陥ル、義近深谷伊豆ヲ置テ之ヲ守ル、己ニシテ義篤兵ヲ率テ来攻ム、伊豆退テ黒沢獅城二拠ル、義篤進撃テ伊豆ヲ斬り、悉ク保内ノ地ヲ取り滑川六郎ヲシテ城ヲ守ラシムト(古蹟考)、一説こ六郎名ハ重範卜云へり、佐竹家中文書目録二天文5年3月14日、義篤ヨリ依上池田ノ内外ノ内、滑川兵庫助アリ、或ハ垂範卜同人ヵ(『水戸領地地利志』)このなかで滑川六郎重範のことを記している。
 この記録では1500年代半ばまで使われているように見えるが、戦国時代たけなわの時期の城とはとても思えない。

 北に池田古館があるが、位置関係から、池田古館が居館であり、鏡城が詰めの城という感じである。
 鏡城の遺構を見た限りでは、単なる一時的な避難場所か物見としての機能しか要求されていないようであり、篭城して戦闘を行うことは考慮していなかったように見える。
このため、堀や土塁等の防御用の構造物を設けなかったのかもしれない。

大子城(大子町大子)
 大子駅の南に見える山が城址である。この山は北側にピークがあり、さらに尾根伝いの南にももう一つのピークがある。
 この南側のピークに主郭がある。城のある位置の標高は282mであり、麓の標高が90m程度であるので比高は200m位ある。
 この山はどこを見ても急斜面でありどこから登って良いのか検討がつかない。
 城に行く道は、あるようでないようでなんとも言えない。

 押川を渡り、東側の槐沢の途中から沢沿いに登る道があるが、凄い急勾配である。
 この道を知らなかったため、北側の県大子合同庁舎西側、水郡線線路脇から登った。

 遠くから見ると山の斜面に道があるので、その道を行けば城址に行けるのではないか、という安易な発想で登れるのではないかと考えたことによる。
 しかし、道は途中で終わり、急斜面が立ちはだかるのみである。
 ここまで来て引返す訳にはいかず、かくなる上は直攀しかない。
 急斜面をよじ登りようやく北側のピークに立つ。
 この場所は平坦であり、土塁等の構造物はないが、物見台であったことは間違いないであろう。
 この先はやぶは多いものの、尾根伝いに比較的楽に主郭部まで行ける。

 主郭部に近くなると登りとなり、城北端の高さ5mほどの切岸があり、そこを越えると本郭である。
 北東側はやぶがひどいが、南西側にある一段高い場所から南はやぶもない。
 この場所は17m×15m(実測)の広さがあり、南東側に幅3m程度の帯曲輪が3mの高度差で3段ほどある。
 西側7mほど下にも曲輪がある。本郭の最高箇所から南に32m行くと、大きな堀切がある。
 深さ5m、幅は13mある立派なものである。
 堀切に面して土塁があったようである。
 堀切の南側が二郭である。1辺40mほどの三角形の曲輪の南側3m下に帯曲輪があり、さらに6mの高さの切岸の下にもう一つの帯曲輪がある。
 この辺の造りはしっかりしており、とても500年も前のものとは思えないほどである。
 この曲輪は南東端部分が最も広く、幅20m程度ある。南東側が尾根になっており、突き出し30mほどの曲輪がある。北側は堅土塁となっている。
 さらに尾根伝いに下ると物見台のような場所がある。その先は急斜面である。
 大子城は南北2つの部分からなる城といえる。城域は200m×100m程度であろうか。
 段郭構造を主体とした戦国前期の古風な城である。
 佐竹氏が大子地方を白川結城氏から奪った1500年前期に廃城になったというが、その伝承と遺構は良く一致するようである。
 しかし、冬場、本郭に立つと北風の冷たさは耐えられないほどである。
 南側の帯曲輪はこの点、風もなく日当たり良好で快適である。
 この部分がしっかり造られているが、ここが篭城や城番で在城した時の主な居住空間であったのであろう。

大子駅付近から見た城址。 城のある山の尾根北端。
ここは物見台跡と思われる。
城北端、鋭い切岸が立ち塞がる。 本郭に当たる曲輪T内部。藪も少ない。
曲輪Uから見た本郭と隔てる堀切。
写真以上に巨大である。
曲輪Vと曲輪Uの鋭い切岸。 曲輪V内部は風もなく、日当たり良好で
居住場所としては快適である。
曲輪U内部、3段ほどで構成される。

大子城の築城は良く分かっていないが、『新編常陸国誌』によると、「前略……土人博へ云フ。芳賀河内守始テ築ク。世々白河氏二属ス。中世岩城氏ノ為二並セラレ、嗣絶ユ。…(中略)…岩城氏其臣ヲ遣ハシ、之ヲ守ル40餘年、後佐竹氏ノ為二並セラレ、城廃スト、然レドモ其時代ヲ詳ニセズ。」と書かれている。この記録では白河結城氏が築いたことになる。
 当然、大子防衛の拠点としてであろう。
しかし、この城の大手はどうも南側にあったようであり、北の大子側から登る道は斜面が急勾配であり、有りそうにもない。

 白川結城氏の城という説もあるが、南側に大手があったとすれば、大子地方を牽制するための城として、佐竹氏が大いに利用していたようである。
 当時、水戸方面から大子への道は、この大子城のあった山の鞍部を越え、長岡に通ずる道が主要道であったというが、この道は南の道坂峠を越え、城の南側の鞍部を通っていたようである。この大子城は、この街道を抑える役目もあったようである。
 城は、佐竹氏を再興した16代義舜が、永正2年(1510)白河結城政朝とその一族との内紛を利用して、依上保に侵入し、この大子城の城主芳賀河内守を破り、家臣の野内備前守に守備させている。
 文禄年間(1592〜1595)の佐竹領内支城には大子城の名が見えないので、この以前に廃せられたものかと思われる。
 もし、大子支配に重要な城とすれば、戦国末期まで存続していたはずである。
 大子の支配が完全なものとなった時点で廃城となっていることから佐竹氏の大子侵攻の橋頭堡ととらえるのが妥当ではないだろうか。


依上城(大子町塙)
 大子中心部から約5km。押川沿いに西の黒羽、馬頭方面に向かう国道461号沿い塙地区北側の比高35mの台地上にある。
 この台地は500m程度の幅があり、南側は押川の開析した平地、北側は谷津、北西側に台地平坦部が続く。
 城のあった地の字名はずばり「城下」である。

城は台地南端の東西に長い盛り上がった台地上から比高10mの部分にある。
 城は基本的には段郭構造であり、最後部の本郭から輪郭状に郭が広がる。

 最高部にある本郭は、若干分銅型はしているが、長方形に近くほぼ東西45m、南北25mほどの大きさであるが、内部は部分的にやぶがすごい。
南東側に小さな社がある。
本郭の南側は急斜面であり、帯曲輪くらいしかなかったようである。

 本郭へは、東の曲輪から北側を廻って登る。
東の曲輪は17m×10mの大きさであり、さらに北東方向に郭が段状に並ぶ。
 本郭の西側のやぶはすさまじいが、この方面にも虎口がやぶの中にある。
 そこを出ると西側に小さな曲輪があり、この曲輪から北側の腰曲輪に下りるようになっている。
 この腰曲輪は本郭の北側に位置し、この腰曲輪からから見る本郭の切岸は勾配が急であり、高さは7mほどである。
 この腰曲輪の外側にも曲輪が広がっているが、すぐ先は畑や宅地になっており、遺構は破壊され、正確な城域は分からなくなっている。
 しかし、城の北側には曲輪が存在していたと思われる盛り上がった場所があり、北東側にも土塁が延びているため、城域は結構広かったようにも思える。
城址西の堀跡と思われる道。 本郭内部。社がある。結構、藪がひどい。 本郭北側の切岸。高さ7mほどある。 城址北東側の畑まで延びている土塁

 城の西側に台地下から登る道は堀底道のようである。少なくとも広く平坦な台地に続く北西側には堀があったものと思われる。
 大子地方は中世、依上保といい陸奥国に属していた。この地方を支配する拠点城郭が依上城であったという。
 しかし、依上城がどの城を指すのか諸説ある。

 「佐竹氏関連城館」(常陸太田市教育委員会)ではここを塙館としており、北東の谷津を隔てた対岸にある芦野倉城(御城)を依上城としている。
 また、依上城を伊香油館、羽黒山城、西館とする説もある。
 この城を築いた者と時期については分からない。

 中世前期依上保は、山入の乱で弱体化した佐竹氏から白河結城氏が奪い領土としていたので、この城も白河結城氏の管理下にあったのであろう。
 しかし、山入の乱を平定した佐竹義舜の代から佐竹氏の奪還侵攻が始まり、佐竹氏の領土に復帰し、以後、佐竹氏が秋田に去るまで支配する。
 佐竹氏が大子地方の支配拠点とした城がどこであるかは不明である。

 この地方にある城は、いずれも小規模な城ばかりであり、拠点的な政庁機能を持つような城は見当たらない。
 この城も佐竹氏に支配が復帰した後の拠点城郭候補の一つではあるが、規模も小さく、古くさい感じの城である。
 佐竹氏に支配が戻った時点で廃城になっていたか、土豪の居館になっていたのではないかと思われる。