谷沢要害(大子町小生瀬)36.7581、140.4265
2022年3月に確認された城である。
全長約300mの規模を持つメリハリの効いた尾根を利用した直線連郭式の山城である。

一目見て中世の城郭と分かるが、地元も全く知らなかった。
おそらく伝承が既に途絶えているのではないかと思う。
その要因として、慶長14年(1609)水戸徳川氏によるこの地の農民大量虐殺事件「生瀬事件」が関係している可能性がある。
(実際は佐竹氏旧臣の殲滅が目的という説もある。)

場所は袋田の滝の南東約2km、国道461号線小生瀬交差点の南約1.5km、西側はゴルフ場跡地がある。
その東の谷を挟んで対岸の南から谷側に張り出す尾根が城である。
西下の道路沿い(標高240m)からは崖が崩れた山が見え、その上に段々となった曲輪群を見ることができる。
↓の写真。

この城は堀切で区画された4つの曲輪群からなる。
この部分が先端にある曲輪群Tである。
写真の右上の少し高い場所が、曲輪群Uである。

さて、この山に行こうとしても直接行くのは困難である。
尾根麓にあるKI氏宅の敷地内を通してもらい、尾根先端に張り付いて、そこから登っていく他ない。

なお、KI氏によると、昔はこの山で炭焼きをしていたという。
KI氏も城郭という認識はなかった。

尾根を上がって行くと、直ぐに段々になった曲輪群が目に入る。ここが曲輪群Tである。
曲輪は5つ、幅約7mの腰曲輪@、Aが尾根に沿って高低差5〜7mで重なり曲輪間の木切岸の勾配が鋭い。
一番下の曲輪@の標高は270mである。東側斜面には2、3本の竪堀が下る。

@曲輪群Tの最下部の曲輪には上の曲輪が覆いかぶさる。 A曲輪群T主郭Bを直下の腰曲輪から見る。

その最上部が全長約40m、幅約6mの曲輪Bである。
ここが曲輪群Tの部分の主郭である。標高は293mである。

当然ながら曲輪郡Tの南端部に堀切Cがある。
深さ約3m、幅約7mの土橋を持ち、豪快な竪堀が東西の斜面を下る。
この堀切を過ぎると尾根は登りとなり、段々に曲輪が構築される。

B曲輪群Tの主郭部 C曲輪群T背後の堀切からは竪堀Aが豪快に下る。

最上位の曲輪Dは25m×5mの大きさがあり、標高302m、そして背後に深さ約2m、幅約4mの土塁を持つ堀切Eがある。
ここまでが曲輪群Uであり、全長は約70mを測る。
さらに南がVとなる。
標高310mの部分に25m×8mの曲輪があり、少し下りとなり鞍部に堀切がある。Vは全長約60mである。
そしてWである。
ここが最末端の部分であり、曲輪が東にカーブしていく。
末端部が櫓台のようになり、深さ約3mの堀切で終わる。

D曲輪群Uの主郭部の曲輪背後には土塁がある。 E Dの土塁の背後には定番の堀切Bがある。 F 曲輪群Vの主郭部、この付近から小竹の藪が酷くなる。

この櫓台の標高が312m、ここが城内で最も高い場所である。
なお、曲輪群Vの後半部からは凄まじい小竹の密集で、遺構の全貌の把握は困難であり、写真も撮れない。

曲輪群Wの南側にも腰曲輪が存在する。
ともかく曲輪群Wの尾根部の全長は約40m。

その先は下りとなり、標高301m地点が鞍部になる。
そこを過ぎると登りになるが、登り切った東側の標高313mのピークは平場になっているが城域と言えるかどうか?
既にここは城外であろう。

さて、この城の中心部はどこか?曲輪群Tか曲輪群Vはたまた広い曲輪群Wではないかと思うが、個人的には曲輪群Tではないかと思う。
この曲輪群T、最先端で一番低い場所ではあるがそう簡単に接近できない。

先端から尾根沿いが一番登りやすいが、そう容易には登らせられないように高低差5〜7mを以て鋭い勾配を持つ多重の曲輪を配置し、さらに竪堀が東斜面を下る。
実際、ここを登るのは非常に大変である。

背後の曲輪群U、V、WはTの背後からの攻撃への備え、物見であるとともに、万が一の場合、尾根伝いでの東の山への脱出を援護するためのものであろう。
曲輪群Wの主郭は南北約20mと比較的広く、ここは狼煙台の役目もあったかもしれない。

上のイラストは曲輪群Wである。
結構、技巧的な造りである。
左下が山に続く部分に堀切Dがあり、堀に面し高さ約4mの土塁を持つ腰曲輪がある。
これは迎撃陣地だろう。
さらに上が主郭である。

奥州の異変は狼煙リレーにより常陸太田城に伝えられたと推定されるが、内大野要害等狼煙台であった城館は確認できているが、ここから常陸太田城までのルートがよく分かっていない。
ここが狼煙台であったのなら南にある白木山(616.2)経由のルートが想定できるかもしれない。

この城の歴史は謎である。
麓のKI氏宅が居館の地のような感じである。

北約600mにあった宝泉寺(36.7637、140.4230)は遠征時の軍勢の宿泊施設でもあったと思われ、「陣場」という字や、永正7年(1510)及び大永6年(1526)に那須氏一族の内紛に際して、その鎮圧のためこの地に出陣した江戸氏や外岡氏がここに滞在した記録が残る。
おそらく宿城を兼ねた城砦寺院、武装寺院だったのであろう。

ここはその宝泉寺関係者の緊急時の避難施設の可能性もあろう。
なお、小生瀬には「古城」「小屋下」という字名が存在したが、その場所は分からないという。


花立山狼煙台?(大子町高柴/常陸太田市徳田町)
大子と常陸太田の旧里見地区の境にある山である。
直ぐ北は福島県である。
この花立山山頂直下に堀切があるとの情報があり、行ってみた。

↑ 西側大子の高柴地区から見た花立山、南北に長く延びた尾根状の山系である。

この「花立」という名前、あちこちにあるが、「花立」は「旗立」が訛ったという例もある。
それなら城郭の可能性がある。そこに堀切?となると・・・。


で、その堀切C、どうも本物っぽい。
山にある堀切と尾根鞍部を横切る切り通しは混同しやすい。

中には堀切を転用した切り通しもある。
でも、一方が崖になっている場所には切り通しはない。

ここがそれだった。
山の東側が崖状になっている。
それなら堀切の可能性が大きい。
ただ、堀切が1本だけというのもおかしい。

複数存在すれば城郭の可能性はあろう。
で、付近を調査していたのだが、堀切に見えるものが鞍部に2カ所@、Aあった。


この山系、尾根が道になっており、尾根が広い。
先の堀切は急斜面にあり、道が迂回しているので改変は受けていないようである。
しかし、後の2本、ずばり道になっている尾根にある。
尾根上を通りやすくするため、かなり埋められている公算も大きい
。どうやら、この山系には複数の堀切が存在するようである。

なお、ここからの眺望、西に月居城がはっきり見える。(内大野要害は木で見えない。)
東は里川沿いの谷、上の台館が見える。
山を里美側に下ると和台館、行石(なめし)館がある。
@山頂から100mほど北にある堀切(跡?) A山頂の50mほど北にある堀切(跡?) B山頂北側の標高511mのピーク。径8m、平坦である。
C花立山山頂、ここも径約8mの平坦地である。 D山頂北下にある堀切。これは完全もの。 E山頂南側のピークも広い。巨岩がある。

このロケーションからここが大子方面からの情報を里川の谷筋に伝える、またはその逆の、狼煙リレーの中継所だとしたら、花立というな名前、堀切の存在から城郭であった可能性はあるのではないかと思う。
確かに城郭らしい感じは少ない。

↑ 花立山から見た西方、月居城、小生瀬、高柴地区が一望のもとにある。

もっとも狼煙台機能だけなら、戦う目的はないのだから大した防御施設はいらないであろう。
一応、城郭の可能性のある場所としておく。