西金御城(大子町西金)36.6926、140.3921
JR水郡線「西金駅」の南東約600m、久慈川東岸の標高140m、久慈川からの比高約90mの山が城址である。
現在の主要道である国道118号線は久慈川の西岸を通り、国道から久慈川越に城のある山が良く見えるが、急勾配でありいかにも手強そうに見える。
この城にはついぞ今まで行かなかった。
←国道118号線西金大橋北から見た城址
その理由であるが、ここを訪れた何人か城内で迷子になり危うく遭難しかかったと言うのだ。
何しろ主郭部は凄まじい篠竹地獄である。
こんな中を篠竹をかき分けて歩いていたら、方向感覚はなくなるだろう。
おまけに磁石が狂うと言うのだ。地下に隕石が埋まっているのか?
そんなことがあったので気の小さい管理人はビビッていたのであるが、2人で、しかも冬場なら・・・ということで近くを通ったついでに行ってみた。

やはり2人で行動すれば迷うことはなかった。
篠竹は相変わらず凄いが・・。刈払機を持参すれば良かったか?
冬場だったので若干、藪はおとなしかったけど。

山の西下、久慈川との狭隘部をJR水郡線が通り、それと並行する道がかつての主要道「南郷道」である。
(現在の主要道、国道118号線は久慈川の対岸、西岸を通る。)

@主郭部は評判?の篠竹地獄 A主郭部南には畑跡がある。内部は傾斜している。 B堀底から見上げた大土塁。高さは約6mもある。
C土塁間が開くが虎口らしい。 DCの虎口から東に2本の竪土塁が下る。
土塁間の堀底が大手口の通路ではないだろうか?
E北東部の腰曲輪が大手曲輪か?
 正面の土塁がCに写る土塁である。
F大手曲輪から北の谷津に下る竪堀 G主郭東の民家のある場所が居館跡か? H城域東端に土塁と堀の痕跡がある。

城のある山は、北と南が侵食谷であり、東側以外の3方向は斜面が急勾配である。
城へは国道118号線西金大橋の北から細い道を登り、城のある山の裏手、東側に回り込む。
山の東に一軒の民家Gがあり、そこに断りを入れて突入する。

東側は標高が低くなり(115m)、東の山地につながる部分はくびれて細くなる。
大手はこの東側である。東側は平坦であり、付け根部南側に堀と土塁の残痕Hのようなものがある。

その西側、民家がある場所G付近に居館があったのであろう。
城域は直径約150m、東側がさらに約50m突き出た「しゃもじ」形をしている。

東さえ抑えれば防御が成り立つため、東側の守りが厳重である。
東側には高さが最大約8mもある巨大土塁Bがある。
(主郭部が畑として利用されていたため、民家西側の土塁は崩されているようである。)
北東端部の土塁間Cから北東下の腰曲輪に竪土塁が2本D下っているが、そこが主郭部への大手虎口ではないかと思われる。
土塁の北東下は幅約20mの腰曲輪Eがあるが、これが大手曲輪であろう。
大手曲輪の西端に北側の谷津に下る竪堀Fがある。更に西側にも竪堀がある。

この土塁と主郭部の間は幅約30mの堀状のくぼ地になっている。堀のようにも見える。
その底からも土塁は高さが約6mある。このくぼ地、出口がない。
貯水を兼ねた水堀だったのかもしれない。

また、子供の頭くらいある大きな石がゴロゴロ転がっているが、これは投石用のストックだろうか。
主郭部は4段ほどになっているが、篠竹の密集で形状が把握しにくい。

しかも曲輪内部は緩く傾斜し、段差、切岸も不明瞭である。
最高の曲輪は約40m四方の広さを持ち、北西端に土壇がある。
主郭部の曲輪内部はもともと傾斜していたのか、かつて畑として利用されたいたため、耕作のため切岸が崩され、傾斜したのかは分からない。

南郷道を抑えることと狼煙リレーに関わる役目は明らかであるが、城内が広いことから軍勢の集合地、宿営地でもあったと思われる。
山方城以北の久慈川流域の城としては最大級の規模を有する城であるが、こんな大きな城なのに城主等については分からない。