寺尾中城(高崎市寺尾町)
高崎市の南西に見える丘陵にある「高崎山ファミリーパーク」の北東側にある城である。
というより城域も公園の一部であり、公園から北東に延びる尾根(36.29128、138.9977)が城址であり、城内に遊歩道がつけられている。
標高は192m、北下を流れる押川からは比高110mである。
城へは南西側にある公園駐車場に車を置き、公園内を横断して北東側にある猪避けのフェンスの扉を開けて遊歩道に入る。
公園には多くの家族連れが遊び、グランドでは多くの人がトレーニングをしている。
シーズンならバーベキューが行われていただろう。
その中をトボトボ歩いて城に向かうのはちと場違いのような・・・。
この遊歩道を歩く人、どれほどいるのか?
結局、城内を通る遊歩道では誰1人とも会わなかった。
遊歩道に入った場所からすでに城域のようである。

尾根に沿って全長が約500mある城であるが、鋭さは感じられない。
遊歩道工事で改変を受けていることもあるが、南北朝時代の城と言われているのでこんなものかもしれない。

遊歩道を歩いて行くと、堀切@があり、さらにもう1本A、2本目は遊歩道に転用され拡張されている。
その東が本郭Bである。ここには腰曲輪を経由して入る。
内部は公園化されており、ベンチがある。そこを東に下ると堀切が続くが、遊歩道となり不鮮明である。
ニ郭直下のCが一番はっきりしている。
二郭内は藪状態、写真を撮っても分からない。
遊歩道はニ郭があるピーク部を迂回して付けられている。
二郭と三郭間は尾根が続くが堀切跡らしい部分もいくつかある。

三郭は西側が岩むき出しの切岸Dになっている。
四郭Eは平場のような場所、そこを下ると堀切Fがあるが、この堀切ははっきりしている。
さらにだらだら下ると土橋Gがある。
両側はえぐれて竪堀状になる。
その先が五郭Hがあり、まだまだ、曲輪が先に続いて行く。

@本郭西の二重堀切の1本目 A本郭西の二重堀切2本目は遊歩道に拡張利用される。 B本郭内部は公園化されベンチがある。
C二郭西下の堀切。ニ郭内はド藪! D三郭西側の岩盤切岸 E四郭であるが・・ただの平場・・・・
F四郭北の堀切、これが一番はっきりした遺構。 G土橋・・となっているが、本物かいな? H五郭となっているが、ただの尾根の平場?

築城時期は定かでないが、治承4年(1180)9月、新田義重が頼朝とは別に平家追討の兵をここで挙げたが、兵は集まらず、結局、頼朝の傘下に入ったという。
おそらく木曽義仲同様、頼朝の下になることを嫌ったためであろう。しかし、この行動で鎌倉時代は冷遇を受け、鎌倉幕府滅亡時の新田義貞の功績も足利氏より下に位置付けられることになってしまう。
新田氏の本拠は太田付近であり、ここは離れており、挙兵した場所として本当にこの城であったのかは疑問である。
もし、ここであったとしても現在の遺構はその当時のものではない。

その後、南北朝の戦いでこの城が登場する。
応永5年(1398)尹良(ただよし)親王が、信濃南朝方の橋頭保である寺尾城に拠り、新田一族の世良田政義の支援を受けて、退勢の挽回を図ったという。
しかし、応永19年(1412)平井城主の上杉憲定に攻略されて落城、親王は信州諏訪へ逃れたと伝えられる。現在の遺構の主体はこの時期の可能性が高い。
おそらく戦国時代も使われたものとは思うが、遺構は古臭く、戦国期に大きな改修を受けたとは思えない。
戦国時代も使われたと思うが、一時的な繋ぎの城程度としての使われ方であったと思われ、小さな改修を受けた程度であろう。


茶臼山砦(高崎市城山町)
寺尾中城とは県道71号線の通る谷部を挟んで東の標高165mの山(36.2922、139.0089)にあり、両城は直線距離で約500mである。寺尾下城ともいう。
南側が新興住宅団地、城山団地であり、団地のネーミングの基になっている城である。

団地の一部であり公園化されている。城山団地の北端部に専用駐車場があり、階段がコンクリートで固められた丘の法面に延びる。
その上が城址である。車で乗り付けられるのがいい。おまけに遺構もいい。
しかも、地元の保存会によりきれいに管理され、見学にも不自由はない。地元には感謝に堪えない。

@本郭南側切岸の堀、根小屋城に似た雰囲気である。 A本郭内部、南側以外を土塁が覆う。 B本郭西側の堀は深い。
C本郭東の堀 D二郭以下は段々状であり不明瞭。 E南郭内部、本郭ほどは平坦ではない。

遺構はほぼ本郭部分が完璧、それ以外は手抜き、曖昧といった感じである。
1点豪華主義のほぼ単郭の城と言っていいだろう。
この点では高山村の中山城と似ている。
本郭Aは東側の堀底@から高さが約8m、堀底から見上げると南東に位置する根小屋城とよく似た感じである。
同じ者により整備されたものではないだろうか。

内部は50m×30mの広さ、南と西を土塁が覆う。
西側以外は堀@、B、Cが存在する。
本郭の北側、東側は段々の曲輪Dにはなっているが、本郭ほどのメリハリはない。
堀を介して団地側に位置する南郭Eは施工は不完全である。
現地に掲示される縄張図では南郭は遺構として扱っていない。
団地側は改変を受けているようである。

根小屋城(群馬県高崎市)
 高崎市の南部、鳥川南側の丘陵性山地にある。
 永禄11年(1568)西上州を支配下においた武田信玄が支配の拠点とすべく新たに築いた城。

 信玄は離反を繰り返す征服地の土豪を信頼せず、信頼のおける「信州の士、望月甚八郎、伴野助十郎、仁科加賀守信盛らを入れて守らせた」と記録される城である。
 多くの城は南北朝時代や戦国初期に築かれた城郭をベースに戦国後期に改修していったものが多く、どうしても一部に古い姿を残していることがある。

 しかし、この城は戦国末期に新規に築城し、その後、30年程度で廃城となっているため、ある一定時期の築城技術が完全に残されている。
 この時期は武田氏が最盛期を迎えた時期であり、当然ながら築城技術も円熟したころのものである。

 しかも、臨時築城のようなインスタントではなく、地域支配の拠点とする本格的城郭であり、一切手抜きがない。

 知名度は今一つであるが、凄い城だと聞いたので行ってみた。
 車が行けない場所にあり、全く開発の手が及んでいないため、遺構はほぼ完存状態である。

 しかも公園化しているため、草も少なく藪レンジャーすることなく快適に見学できる。

 どこから登るかが問題であり、看板等は下にはない。
 このため、検討を付けて城北側から山道を登った。
 比較的傾斜が緩いため登りは楽である。15分ほどで城址に至るが、忽然と山上付近に姿を現す横堀、立ちはだかる本郭の塁壁、凄い迫力である。

 

 城は標高198m、比高110mの山上にあり、500m四方程度の城域を持つ。
 常備兵を置き、非常時には大兵力も駐屯させる目的を有した城であるため、郭は広く、居住性も良い。
 郭面積を大きくとるため、比較的傾斜の緩い丸っぽい山に築城されたものと思われる。
 郭配置は連郭輪郭併用式である。
 郭や堀の大きさは桁違いであるが、我が家の近くの田渡城と似ている。
 しかしながら城のある山は傾斜が緩いため、攻撃方向の特定は難しい。

 このため、全方向からの攻撃を想定し、郭を高くし、横堀、竪堀を縦横に走らせ、防御のみならず、堀を利用した兵の移動と反撃も兼ねさせているものと思われる。
 竪堀を出撃用にしている点では岩櫃城と同じ考えである。
 堀間の郭の配置も見事であり、侵入した敵には必ず高い塁壁が前面に立ちはだかるようになっている。
 特に本郭付近の塁壁の高さは10m以上もあり、塁壁の高さが防御上の最大のポイントである。
 横堀は北側を2重に取り巻いているが、深くはないが広い。
 ここが泥堀であった可能性もあるが、武者溜であったようにも思える。
 「畝堀」のようなものもあるがはっきりはしない。大手は東に開いており、南側に搦手口がある。
 搦手口を尾根伝いに行くと支城である山名城に至る。

本郭内部。 6の郭から見た本郭。手前に横堀がある。 本郭と腰曲輪である3の郭間の横堀。 11より見た本郭へ登る道。
3の下。右が大手道になる。 6の郭。右に横堀があり、その右が本郭 5の郭(右)と3の郭の間の堀底道 2の郭(二郭)内部。
11から斜面を下る竪堀。
出撃道と言ったほうが良い。
14の場所にある曲輪。 12の堀切。 搦手門跡。14より一旦下り、再び登った先にある。
ここを行くと山名城に至る。
本郭北下7の部分の土橋と横堀。
右上が二郭。
10の腰曲輪内。 8の横堀。やはり出撃道か兵員移動
用塹壕というべきであろう。
8の横堀が東に90°曲がった部分。
この近くになると平坦地に近い。
二郭(左)北の曲輪と横堀。 二郭西側で横堀が竪堀となって斜面を下る。 本郭(右)南の横堀 北から見た城址。ずんぐりした丸
っぽい山に築かれている。

 全体的には本郭の切岸が急で高い点以外、堀も深い訳でなく、土塁も高い訳ではなく、余り防御性は感じられない。
 攻撃を防ぐというより、攻撃の拠点として造られた城であるためであろうか?

山名城(群馬県高崎市)
 寺尾城ともいう。山名城の築城がいつの時期なのかははっきりしない。
 一説には、源義家の孫、新田義重の子義範が寺尾城を築き、以後、山名氏と称し居城したともいう。
 江戸時代、新田氏の末裔を称する徳川氏が自称先祖の新田氏について調査を命じ、新田義重の寺尾城を探したというが、この山名城が新田義重の寺尾城と同一のものなのか断定するには至っていない。

山名氏は鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏に従って活躍し、西国十一ヵ国の守護職を任じられるなど勢力を伸ばした。
 応仁の乱の主役の一人、山名宗全はその子孫である。
 山名氏がこの地にルーツがあるということは全く知らなかった。
 てっきり西国出身の大名と思っていた。

  一方、この山名城は南北朝時代に信濃南朝尹良親王の関東での拠点として整備されたと言われるが、新田義重の築城ではなく、実際はこの当時に築城されたものではないかと思われる。

 戦国期にはこの地の土豪の木部氏の戦時の詰城として整備される。
 この地が武田氏の支配下に入り、永禄11年(1568)、武田氏により拠点城郭として根小屋城が尾根伝いに築かれるとその支城となった。
 当時、木部氏も武田に従っており、武田氏が天目山で滅亡した時、木部範虎も武田勝頼に殉じて戦死している。

 木部氏は武田氏滅亡後、一時的に織田氏重臣の滝川氏に従うが、本能寺の変後、織田氏が撤退すると木部氏は北条氏に従う。
  天正18年(1590)の小田原の役で木部貞朝は、北条氏に従い小田原城に篭城して滅亡し、この時点で廃城となったと思われる。
高崎市の南郊外、烏川に面した丘陵上に城がある。

「山ノ上の碑」がある付近から遊歩道があり、登れるそうであるが、その道は通らず、北西側にある根小屋城に行ったついでに、尾根続きの遊歩道を1.5kmほど歩いて行った。

 肝心の山名城であるが、これは明らかに戦国期の城郭である。
 南北朝期の城郭の姿は全く感じられない。
 おそらく武田氏によって根小屋城の支城として大幅に改修されたものと思われる。
 城域は東西450m、南北最大130mあり、本郭は55m×35mの広さを持ち、比高は約80mである。
 本郭のみが公園として整備されている。
 本郭の標高は186mである。本郭以外の部分は雑木林や藪となっている。
 基本的構造は連郭式であるが、城のある山の斜面は勾配が緩く、それほどの要害性は感じられない。
 本郭と他の郭は堀切で遮断されており、各郭間も堀切と堀で遮断するのが基本構造となっている。
 郭間の移動は堀底を利用していたものと思われる。堀切の多くは竪堀となって斜面を下る。
 本郭の西側、根小屋城側には4〜8までの大小5つの郭があり、本郭、二郭の北側には横堀がある。
 本郭の南側には腰曲輪があり、東側が堀切を隔てて二郭となる。
 二郭は本郭より4mほど低く、内部は結構広い。その北側、横堀を隔ててその外側が三郭である。
 この横堀は藪化が酷く底が分からない。

本郭内部。公園となっている。 本郭と4の郭間の堀切。 本郭北側の横堀。 本郭南の腰曲輪
二郭内部。南側に土塁がある。 4の郭と5の郭間の堀切。 6の郭北の堀切 6の郭と8の郭間の堀切

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