箕輪城(群馬県高崎市(旧箕郷町)西明屋)

 上野国の豪族、長野尚業が永正年間に築いたと言われるが、諸説ありはっきりしていない。
 長野氏は関東管領・山内上杉氏の有力な家臣として西上州一帯を支配した。

 一時、武田、村上、諏訪氏に追われた海野一族を匿っていたこともある。
 皮肉なことに、この中にはやがて敵となる真田幸隆も含まれる。

 山内上杉氏は、その後北条氏に圧され、所領のほとんどを失うが、長野氏は一環して落ち目の山内上杉氏を支え続ける。
 河越夜戦には長野業政も参戦し、嫡子吉業を失っている。

 天文16年(1547)、上杉憲政が佐久方面へ出陣した際には、出兵反対を唱えて軍議の席を立っている。

山内上杉氏は結局、越後に逃れ、長尾景虎、後の上杉謙信に上杉氏を譲る。
その後、長野氏は一貫して上杉謙信に従い行動する。
 天文23年(1554)の武田信玄の西上野侵攻では一度は破れたが、箕輪城で撃退している。(瓶尻合戦)

 永禄2年(1559)にも武田軍の攻撃を撃退している。
永禄4年(1561)、長野業政は死去、上杉謙信の小田原攻めには子の業盛が加わっている。

 その後、何回かの武田氏の攻撃を受け、その都度、撃退したが、永禄9年(1566)の侵攻では数に勝る武田軍に箕輪城に圧迫され、武田軍に大損害を与えるが兵力差は如何ともし難く、落城し、長野氏は滅亡した。

 北関東の小豪族のほとんどは上杉、武田、北条といった3大勢力の間でコロコロ従属先を変えるが、一貫して上杉氏1本だったのはこの長野氏のみと言って良い。

 その後、箕輪城は武田氏の家臣、内藤昌豊が城主となり、西上州支配の拠点としたが、昌豊が長篠で戦死すると、その子昌武が後を嗣ぐ。 

 天正10年(1582)武田氏が滅亡すると北条氏の一時的支配の後、滝川一益が入城。
 しかし、本能寺の変後、一益が神流川合戦で北条氏に敗れ、再度、北条氏のものとなる。

 天正18年(1590)の小田原の役では、ほとんどの上野国の城郭同様、前田、上杉、真田の北陸方面軍の前に戦うことなく降伏開城した。
 戦おうとすればこの箕輪城ほどの城郭であり相当の戦闘が想定されるが、篭城しているのが、北条氏に恩義がない上野国衆であるため戦意はほとんどなかったのであろう。
 徳川家康の関東移封後、箕輪城には井伊直政が12万石で任じられ、大改修が施されたが、慶長3年(1598)、高崎に移ったため、廃城となった。

@三郭西の石垣 A三郭南側の大堀切 B三郭内部 C二郭(手前)と郭馬出間の土橋
D二郭と郭馬出間の土橋から見た
郭馬出(左)と大堀切
E本郭(右)と二郭間の堀 F本郭東側の土塁。 G本郭内部を南方向に見る。
かなりの広さがあり発掘調査が行わ
れていた。
H本郭(左)と御前曲輪間の堀。
かなり浅く出撃用の堀底道か?
I御前曲輪内 J御前曲輪北側の堀越しに通仲
曲輪を見る。
K本郭西側の堀
L二郭より東の搦手門、かつての
大手門を見る。
二郭より東側の赤城山を見る。 M郭馬出と木俣間の土橋 N木俣内部
O木俣南の土橋 P木俣西の堀 Q井伊氏時代の大手口 追手門跡より見た城祉

 武田信玄の何度かの進攻を撃退したことは、長野業政自身の指揮能力と箕輪城とその支城網が優れていたことを証明している。
 城自体は榛名山南山麓のそれほど高くはない台地上にあり、それほどの要害性は感じられない。

 しかし、規模はさすがに大きい。南北800m、東西400m程度の城域を持つ。
 本郭だけでも300×100mの広さがあり、ここだけでも小城1つ分はある。

 北側の100m四方は御前曲輪と呼ばれる。
 廃城から400年を経た現在もほぼ完全な姿で残っている。
 しかし、この城は長野氏滅亡後、内藤氏、井伊氏が城主になっており、どこまでが長野氏当時のものかは分からない。
 杉林で覆われた城址に入っていくと深さ10m、幅30mはあるような大堀に圧倒され、複雑に配置された多くの郭が目に入る。
 これらは、最後の城主、井伊氏時代に大改修したものという。

 しかし、郭の配置や堀の位置は基本的には長野氏時代のものを踏襲しているように思える。
 ただし、長野氏時代の城は三郭南の馬出が再南端でその南は城域ではなかったと言われ、井伊氏の時代に拡張されたと言う。  
 
郭の規模も大く、主要な郭間は土橋で結ばれているのが非常に目に着く。
 本郭に至るまでの道は巧みに屈折しており、常に先の郭からの攻撃を受けることになる。
 これらの人工物と沼地等の自然地形を巧みに組み合わせることにより要害性を確保していたことが実感させられる。
 三郭の西には石垣も組まれている。

高崎城(高崎市高松町)
現在の高崎市役所付近が城址であったという。
現在は三の丸外周の土塁と堀@、A、Bだけが残り、本丸部分と二の丸などの主要部分は市役所や病院、学校、公共施設の敷地となって湮滅状態である。
なお、本丸にあった乾櫓Cは、明治初年に払下げられ、農家の納屋として利用されていたが、移築復元され県重文に指定されている。

この櫓、ニ層の入母屋造りで腰屋根を巡らし、漆喰塗り込め外壁 間口約5.4m奥行約3.6mという。
ただし、この櫓の建つ石垣等はダミーだそうである。
城は烏川を望む崖端に築城された輪郭梯郭複合式の平城である。
このパターンはこの付近の前橋城など、おなじみのパターンである。

本丸はNTT別館、日本たばこ付近に位置していたようであるが、そこのは天守相当の御三階櫓と乾、艮(うしとら/北東)、巽(たつみ/南東)、坤(ひつじさる/南西)の4基の隅櫓があったという。
現存するのがこの乾櫓である。

本丸を囲むように、西の丸、梅の木郭、榎郭、西曲輪、瓦小屋があり、さらに二の丸、三の丸が梯郭式に北東側を覆っていた。
関東の城らしく石垣はほとんど使用されず、土塁の城であったという。

もともと、ここには和田城と呼ばれる中世の城があった。
和田城は平安時代末期に、この地の土豪和田義信が築城したと言われる。

室町時代、和田氏は関東管領上杉氏に属していたが、北条氏の勢力が北上し、さらに武田信玄による上野侵攻が活発化すると、永禄4年(1561)、当主和田業繁は上杉謙信陣営から武田信玄に鞍替えする。

このため、和田城は上杉勢の度々の攻撃を受ける。
武田氏が滅びると一時、織田家臣滝川氏に属するが、滝川氏が北条氏に破れ撤退すると、当時の城主、和田信繁は、北条氏に属する。
しかし、和田氏は天正18年(1590)小田原の役で小田原城への籠城を強要され、和田城の留守は子の兼業が預かるが、前田・上杉・真田の大軍に包囲され、4月19日(新暦5月22日)開城する。
これにより和田城は廃城となる。

小田原の役が終わると徳川家康が北条氏の領土に入り、この地は井伊直政の所領となる。
箕輪城を直政は本拠にするが、慶長2年(1597)中山道と三国街道の分岐点である交通の要衝である和田城の跡地に近世城郭を築いた。
この和田城、高崎城のどの部分か分かりにくいが、烏川沿いの榎郭から西の丸がその遺構を利用したものであったらしい。

これが高崎城であり、翌慶長3年(1598)直政は箕輪城から高崎城に移る。
この時、地名を「高崎」に改め、町家や社寺等、城下町も箕輪から移転させた。

@三の丸南の堀と土塁 A三の丸内南の土塁 三の丸東の堀と土塁
C移築された乾櫓と東門 国立病院北側で発掘が行われていた。
ここは西の丸付近?
城址に建つ現在の大天守、高崎市役所

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、直政は近江国佐和山城に移り、の後は、諏訪氏、酒井氏、戸田氏、松平(藤井)氏が城主となる。
元和5年(1619年)に入城した安藤重信は城の改修に着手。
以後、3代77年間をかけて今の姿に整備された。

その後、松平(長沢・大河内)氏、間部氏、松平(長沢・大河内)氏と譜代大名が目まぐるしく入れ替わり、明治維新を迎えた。
明治6年(1873年)廃城にされ、第3師官官内分営所が置かれ、三の丸外側の土塁、堀を境界に利用し、内部は更地にした。
このため、城の建造物は移築もしくは破却され、土塁は崩され、堀は埋められた。
その地には歩兵第15連隊の駐屯地とした。

戦後は高崎市役所等、公共機関が置かれ、現在、城址には21階建ての市役所や音楽センター、病院、学校など公共施設建つ。
また、堀の周辺は高崎城址公園として、整備され、春には約300本のソメイヨシノが満開となる桜の名所になっている。
現在は三の丸の土塁と水堀のみが残るが、近代の大名の居城にふさわしい規模である。

この高崎城、一番有名なエピソードは、徳川忠長自刃の地ということだろう。
忠長は駿府城主であったが、兄家光を蔑ろにしたことから家光に睨まれ失脚。高崎城の内藤氏預かりとなる。
内藤氏は忠長の復権活動に奔走するが、寛永10年(1633)、家光の命により、自殺に追い込まれる。
果たして、忠長、いかなる人物であったか?
歴史は全て殺された側、滅びた側には不利に書かれる。
家光を遥かに越える優秀な人間であったのか、それとも通説のように叔父、忠輝同様、人格障害者に近い人物だったのか?

倉賀野城(高崎市倉賀野)
高崎城の西を流れる烏川の下流、烏川の高さ15mほどの断崖を南に見る崖城。
この地は、西上野と北武蔵の境界に位置し、河川交通と中山道の交通の要地である。
崖に面して本郭があり、その外側に半円状に曲輪が覆う梯郭式の城である。
この崖の存在により、南側からの防御は問題ないであろう。

この崖下には船付き場があったのではないかと想像される。
JR高崎線倉賀野駅から烏川までの間、一帯が城域であり、かなり広大な城である。

東西800m、南北400mが城域という。中仙道が城内を通っているが、中世も街道がここを通っていたのかは分からない。

城域一帯はすでに宅地化してしまい、土塁は崩され、堀は埋められ、遺構は確認できない。

烏川に面した公園が本郭の位置らしい。そこには下の写真に示す城址碑が建つのみ。

烏川に望む崖がかつての姿を想像させるのみである。

平安末期の治承年間、武蔵児玉党の流れを組む秩父高俊が、ここ倉賀野の地に館を構え、倉賀野氏を称したのが始まりという。

そして、南北朝時代、倉賀野光行が館を拡張したのが、倉賀野城という。
戦国時代、城主の倉賀野行政は関東管領の上杉氏に仕え、上杉憲政に従い、天文15年(1546)に出陣するが、河越夜戦で戦死してしまう。

上杉憲政が上杉謙信(当時は長尾景虎)を頼り越後に逃れると、当主、倉賀野尚行は謙信に従い、長野氏の箕輪城と共に上杉方の拠点として、北条氏や武田氏と戦う。

しかし、永禄4年(1561)武田信玄の上野侵攻で、家臣の金井秀景らが武田氏に諜略されるなどし、内部分裂を起こし、そこにつけ入られ、城を武田方に奪われ、永禄8年(1565)倉賀野尚行は越後に逃れる。
城主は武田氏に従属した金井秀景に代わり、元亀元年(1570)秀景は姓を倉賀野に変える。
天正10年(1582)、武田氏滅亡後、秀景は滝川一益に従うが、本能寺の変の後、滝川氏は神川の合戦で北条氏に破れ、この地を去ると、今度は北条氏直に仕える。
天正18年(1590)の小田原の役では秀景も小田原城に籠城させられ、北条氏滅亡直後、秀景が死去。倉賀野氏は滅亡し、倉賀野城も廃城となった。

右の写真は二郭から見た本郭方向である。遺構は確認できない。
南下を流れる烏川とその崖のみが当時と変わらない風景である。


保渡田城(高崎市保渡田町)
高崎市の北端、保渡田古墳群のある「かみつけの里」「上毛野はにわの里公園」の西にある平城である。
この地は大清水川が流れる南に傾斜した扇状地であり、川が谷状に堀の役目を果たしている。
この城はほとんどが保渡田の集落になっており、遺構のほとんどは消滅している。

保渡田北部公会堂付近一帯が城址であり、南側にある天主塚は古墳を櫓台に転用したものという。
公会堂の北側道路が掘り跡でその北側が北郭、かつては土塁が存在したらしい。
西側は堀の跡が残っている。

永禄9年(1566)箕輪城を攻略した武田信玄は、箕輪城に内藤昌豊を置くが、その後、昌豊はこの保渡田城を築き、ここを拠点に西上野を統治した。

戦闘のための城ではなく、政庁といった性格の城である。
西の山際に位置する箕輪城より、街道筋に近いこの地の方が、統治に都合が良かったのであろうか。

昌豊が長篠の合戦で討死すると、子である大和守昌月が城主になった。

武田氏滅亡後、昌月は信長家臣として上野に入った滝川一益の配下となる。本能寺の変の後、滝川氏が去ると北条氏に従ったというが、詳細は分からない。
なお、昌月の最期については、龍善寺記には天正16年(1588)逝去という記載がある。

一方で天正3年(1575)年7月11日、総社の地侍、中川武蔵守のに襲われ、妻子と城兵数名と共に龍善寺に逃れて自刃したとの言い伝えもあるという。

航空写真は国土地理院が昭和61年に撮影したもの。
@本郭南の古墳転用の櫓台、天主塚 A本郭北側の北郭。道路は堀跡。 B 二郭外側の堀跡

北新波砦(高崎市北新波町)

高崎駅の北西約6q、県道10号と28号が交差する北新波交差点の西にある長野小学校と満勝寺の北にあり、きれいな公園に整備されている。

この地は早瀬川とその支流、関端川に挟まれ、地名もズバリ古城である。
この砦は北5qにある箕輪城の長野氏関係の城郭で、箕輪城防衛の城である。
現在、公園になっているのは75m四方の大きさの曲輪であるが、昔の航空写真を見れば、きれいな形で曲輪が残っており、満勝寺境内も曲輪であったようであり、本来は二重方形の館であったようである。

公園化しているのは75m四方の曲輪であり、南辺中央部に出桝状の突出部があり、周囲に幅4〜5mの堀と土塁が存在していたようである。

堀は水堀であり、本来はもっと広かったものと思われる。
内部は芝生が張られた公園であり、土塁もさつきなどが植えられており、どこまで復元したものか、オリジナルなものか判断が付かない。

その外郭を含めれば130m四方はある感じであり、かなり立派な規模である。
昭和59〜60年度に高崎市教育委員会が史跡整備を目的とした発掘調査を実施しているが、部分発掘であるが、建物跡や井戸跡や生活用具類や古銭、墓石等が出土したと言う。砦ということになっているが、居館といった感じである。

航空写真は国土地理院が昭和50年に撮影したもの。

曲輪内部はきれいな芝生である。 本郭西側の堀、本来は水堀だろう。 本郭南の出っ張り部。