松井田城(群馬県安中市松井田町)

 国道18号線の松井田バイパスは、松井田の市街の渋滞緩和を目的に建設された道路であるが、この道は松井田城の南の山麓を通っており、一部は城址を貫通している。
 松井田城はこの道を北側から覆いかぶさるようにせまる東西に長い険しい尾根上に築かれた壮大な戦国山城である。

 国道18号バイパスの建設で一部の遺構は破壊されているものの、険しい山頂部の肝心な主郭部は、開発の手が及ぶことはなく、遺構は完存状態にある。
城域は東西1.5km、南北1qに及び、ほぼ全ての尾根上に郭が配置されている。

なんと言っても、この城は、戦国時代の末期、小田原の役で激戦を交えた城として名高い。
築城は上杉氏に従う当地の豪族、安中氏が信濃を席捲しつつあった武田氏に備えてとされているが、どうもそれ以前から砦規模の城砦があったと言われる。
安中氏の時代の城は今残る遺構の1/4程度の規模であったといい、安中曲輪と言われている場所が本郭で有ったと言う。
信濃から碓氷峠を越えて関東に侵入する敵に対して備えた城ではあるが、安中氏が整備した時代は、上杉氏の勢力が衰え、武田氏が信濃に進出して来たるが時期に当たる。

想定どおり、武田氏の攻撃で安中氏の松井田城は落城し、安中氏は滅亡するが、要害堅固な城であり、武田氏もかなり苦戦したことが伝えられている。
武田氏に帰属した後は、箕輪城攻略のための宿城、中継基地的な位置づけ程度しかなく、武田氏滅亡後に当地を支配した織田氏配下の滝川氏の下でも拡張はされず、それほど重視はされていなかったようである。

  しかし、本能寺の変後、当地は滝川氏を駆逐した北条氏の支配下となり、信濃が徳川氏の支配下に置かれたため、この地が両勢力の境界となった。

 このため、北条氏は境目の城として、重臣の大導寺政繁を城主にし、松井田城の拡張強化を図る。

 小田原の役では、中仙道を進む北国軍、前田、上杉、真田の大軍の第一の攻撃目標となり、数日間の猛攻に耐えたが、二郭付近まで攻め込まれるに及び遂に降伏開城した。

 山岳戦に強い越後、信濃の兵を中心にした約4万の大軍も攻めあぐんだのは、城の堅固性が発揮されたことに他ならない。
同じ条件で1日で落城した山中城や八王子城に比べると明らかに松井田城の方が、堅固といえるのではないだろうか?
 落城後は廃城となり、南下の松井田宿が中仙道の宿場町として栄え、城址は杉の林の中に埋もれ、今日に当時の遺構をそのまま伝える。
@大手口北の館跡。 A大手口の横堀。 B大手口南の堀切。
C安中曲輪と本郭(右側)への分岐。 D 分岐点Cから西側に行ったとこ
ろにある横堀。
Eの堀切。大手道は堀底を通る。
F Eの堀切を通ると門跡があり
礎石が残る。
G 本郭(左)と二郭間の堀切。 H本郭北東端にある土壇。天守に相当
する建物があったと思われる。
I二郭北側の土塁。射撃場所の
防御用
のものであろう。
J連続横堀。(連続空堀) K二郭北側の竪堀。自然地形を利用した
ものである。
Lの堀切。 M付近にある連続竪堀。 Nの武者溜の曲輪。

松井田城は安中曲輪付近を中心とする主郭部から延びる尾根筋に曲輪群を展開させることに加え、出城として「浅間出丸」や「松井田西城」、「碓井城」、「名山城」等を持ち、支城網とともに1つの城を構成する「別城一郭」という形態を持つ複合城郭である。 
 
 安中氏時代の松井田城は、現在の城址東側にある安中曲輪付近の2つの郭とその周囲の尾根筋が中心であったが、大道寺氏が拡張した城の主郭部は、その西側のやや高い位置に置かれている。
 現在、見られる本郭、二郭がその中心部であるが、いずれも内部は広く、切岸の勾配はきつくとても重装備ではよじ登れるものではない。
 この部分は大道寺曲輪とも言われている。
郭間は深い堀切で区切られている。築城当時の大手がどの方面かは不明であるが、現在見られる遺構は、北側が大手となっている。
城のある山は国道18号バイパス側の南面が急勾配であるが、北側はやや緩やかであり、東西に延びる尾根から北側に何本かの尾根が延びている。
旧城に当たる安中曲輪部分は、比較的小じんまりとまとまった精緻なつくりである。
北側斜面にはS方字型の横堀があるが、これが安中氏時代のものであるかは不明。

新城に当たる大道寺曲輪付近は、郭も大きく、堀も大きく深く豪快な作りとなっている。
本郭は80m四方程度の大きさがあり、南東端に櫓台と言われる部分がある。また北東端にも土壇がある。
二郭側は若干段差があり、深さ10m程度の堀切Gとなる。
堀切の北側は緩斜面であり、途中Fに門跡の楚石が残る。
大手からの道はここに至って主郭部に入るようになっている。

本郭の西に二郭があるが、その前に馬出があり、堀を越えると二郭である。
北側斜面には腰曲輪が3段ほど展開する。
二郭は西側から東側に向かって勾配を持ち、北側に土塁Iがある。

この城を攻めるには勾配の緩い北側が最も可能性があるため、この土塁は鉄砲を撃つ時の遮蔽の意味があると思われる。
二郭の西端には櫓台がある。二郭の西側は急勾配であり、一気に20m以上下る。

下ったところに連続空堀という不思議な遺構Jがある。どちらかと言うと連続土塁といったほうが良いような遺構であり、尾根に垂直に長さ40m程度の土塁が6本ほど築かれる。
余り防御性が高いようには思えず、進路妨害物のような感じである。
第一、ここを突破しても高さ20m以上ある二郭の崖を重装備で登るのは困難を極める。
連続空堀の西は10mほど下がり、そこ堀切や郭があるが、郭は不明確であり、一見して自然地形との識別ができない。

この城を攻めるのなら北側の勾配の緩い部分と書いたが、当然それは意識されており、北側に延びる何本かの尾根は曲輪、堀切、竪堀で全て要塞化されている。
尾根間の谷は深く、谷伝いに攻撃できるものではない。

これらの尾根のうち、本郭から北東に延びる最も大きな尾根筋が大手道である。
通常この城を訪れる場合もこの道を行く。
尾根の末端@は段々状の畑が展開し、かつてはここが館跡であったと思われる。
この最上段に駐車場があり、ここまでは案内標識に従って車で来ることができる。
ここから尾根筋の大手道をたどることになるが、いきなり横堀Aがあり、続いて堀切Bを始め堀切が連続する。
途中で水の手を経て、Cの安中曲輪に行く道と本郭に向かう分岐点に至る。
この他、安中曲輪の東側の尾根沿いにも曲輪が展開し、最東端は道路東側にある浅間出丸に至る。