桐生城(桐生市梅田)
 桐生市街地の北部、桐生駅から北西5q、桐生川上流の梅田地区に聳える標高361mの城山山頂一帯にある山城。
 麓からの比高230m程度である。山は柄杓の形をしており、別名「柄杓山城」ともいう。

 この山は西側の山地から尾根状に東に張り出している。東端部が一段高くなり、ここが柄杓のカップの部分にあたり、本郭が築かれる。
 その西側は10mほど低く続く尾根であり、柄杓の柄に当る部分に相当する。

 この部分に二郭、三郭が、二郭から北に派生する尾根に北郭が築かれる直線連郭式の尾根城である。
 本郭の東、桐生川に面する側の斜面は急であり、北東側の尾根筋に曲輪群が階段状に展開するが、東の直下には腰曲輪が2つあるだけで遺構はない。

 城に行くには城山を左に見て少し走り、北側から林道に入る。
 終点に駐車場があり、そこから三郭、二郭、本郭に歩くのが最も楽であり遊歩道が整備されている。

 駐車場からは10分ほどで本郭まで行ける。
このルートが西搦手道である。

 しかし、今回は麓の日枝神社脇から延びる大手道を登った。登り始めると平坦地が数段展開する。
 これが大手曲輪である。
 ここを過ぎると尾根は細くなり、堀切がある。@
 ここから200mほど行くと坂中曲輪Aである。

 この曲輪は70×30m程度の広さであるが、東側が若干高く直径15mの物見台のようになっている。

 坂中曲輪の西、本郭側に大きな堀切Bがある。
 坂中曲輪まではそれほどきつくないが、そこから本郭までは急斜面でありへばる。高度差は60mほどある。

 急斜面の途中に井戸のようなものがある。
この急斜面を甲冑を付けた重装備で攻めあがるのは無理がある。
 城のある山は岩がごろごろしている。
岩を上から転がせば撃退は容易である。 

 事実、この城は何度か攻められているが、東から攻めた者は皆無である。 

 堀切の西側から本郭までの間の下半分は斜面が棚状になっている。
 幅2m程度しかないが18段ほどを数える。C
 縄張図を見ると曲輪とはしていないようであるが、これは何だろうか?
 こんな急な斜面を段々に加工するのは後世の段々畑の跡であろうか?それとも本物の曲輪か?
 後者としたら真田根小屋城に良く似た遺構があった。

 本郭Dのある主郭部は200m×100mほどの領域があり、このうち本郭部は125m×75mあり広い。
 周囲に3段ほどの腰曲輪があり、西側にある馬出のような曲輪の堀部かららせん状に本郭に行くようになっている。
 この堀Eは竪堀となって北側へ下る。

 二郭側とは大きな堀切Fで区切られる。
 この堀切は深さ7m、幅15m程度あり、麓からも確認できる。

 二郭は2つの郭と南側斜面の帯曲輪からなり、本郭側の曲輪は長さ70mほど、西側に土塁があり、さらに堀がある。
 三郭と仕切られる堀切Gに面してさらに長さ25mの曲輪があり、堀切に面して土塁がある。
 この堀切は本郭側の堀切と同規模である。北側に尾根が派生しており、そこに北郭が展開する。

 二郭の西側の三郭は長さ70m位あり、やはり西側の堀切に面して土塁を持つ。
 南側に派生する尾根には曲輪群が築かれる。
 三郭西側の堀切Hも前2つの堀切と同規模である。
 いずれの堀切から両側斜面に豪快な竪堀が下っている。
 三郭の西には捨て曲輪のような長さ30mの曲輪があり、そこを過ぎると上り斜面になる。
 この方面が搦手口であり、この城はこちら側から攻撃を受けている。
 したがってこんな多重の厳重な防護になっているのであろう。

梅田地区から見た柄杓山。中央部が本
郭部。左に堀切が確認できる。
@大手曲輪の堀切と土塁。 A坂中曲輪。
B坂中曲輪西側の堀切。 C本郭東斜面の段々状の遺構。
城郭遺構かどうか分からない。
D本郭内部。公園化され整備されている。
E本郭と馬出間の堀は竪堀となる。 F本郭部と二郭間の巨大な堀切。
麓からも確認できる。
G二郭、三郭間の堀切は竪堀となる。
H三郭西側の堀切。城の西端に当たる。 南山麓の館跡。 梅田館跡。右に見える山が桐生城。

 桐生氏は、藤原氏秀郷流足利氏の分かれというが、詳細は良く分かっていない。
 藤原氏秀郷流とすれば佐野氏、皆川氏等と同じルーツということになる。

 初代は桐生綱元とされているが、彼の父、足利俊綱、兄忠綱は源義広の乱で没落しており疑問が持たれている。
 足利俊綱・忠綱父子を裏切って殺し、逆に不忠者として頼朝に殺された桐生六郎の子孫がルーツの可能性が大きいと思われる。
 桐生六郎は殺害されているが、その家族には類は及ばずそのまま桐生に在住している。

 しかし、主君を裏切った不忠人が先祖ではまずいと考えるのは当然であり、足利氏ということに誤魔化したものと思われる。
 桐生氏の存在が文献に登場して来るのは、観応元年(1350)、桐生城を築いたと伝えられる国綱の時代からである。
 その子孫は佐野氏から養子を迎えたこともあり、一時は佐野氏を名乗っていたこともあった。

 「結城合戦」では桐生氏は幕府方に組みし、桐生正綱の弟正俊(在俊)が兵を率いて参陣、正俊が負傷し、部下に死傷者が出るなどの損害を受けた。
 その後の「享徳の乱」では桐生氏の武将谷近綱が出陣、戦死している。
 これ以後、戦国時代に突入し、桐生氏も北条、上杉といった強大勢力に従いながら由良氏など周辺の豪族と抗争を繰り返す。

 桐生真綱の代になると、小田原北条氏が勢力を拡大するが、関東北部まではそれほどの影響は生じず、大永2年(1522)、利根川の南、須賀の戦いで讃岐六郎太郎を討ち取ったり、真綱を継いだ助綱が天文13年(1544)細川内膳を滅ぼし、続いて細川内膳の義兄、膳因幡守を間の原に戦いで破り、全盛期を築いた。
 永禄3年(1560)、長尾景虎(のちの上杉謙信)が関東に進出してくると、助綱はこれに従う。
 しかし、近隣の豪族との抗争は上杉、北条の勢力争いもからみ複雑化していった。

 一時は平穏であったが、桐生氏の潜在的な最大の敵は、金山城の由良(横瀬改め)成繁である。
 平穏が保たれていたのは桐生助綱の武勇と難攻不落の桐生城があってのことと言われる。
 桐生助綱は永禄13年没し、男子がいなかったため、佐野昌綱の子親綱を迎える。
 しかし、親綱は凡将であり桐生家中をまとめることができなかった。
 これを里見実堯(勝広)は親綱を諌めたが、逆に殺され、里見兄弟の高津戸城蜂起事件が発生し、さらに弱体化する。
 由良成繁はこれにつけ込み、元亀3年3月、桐生城を急襲する。
 親綱は敗れて実家のある佐野に逃げ、桐生城は由良氏のものになる。
 天正6年、由良成繁が死去したとき、佐野にいた桐生親綱は桐生城奪還を図るが、余程人望がなかったらしく、応ずる者はなく失敗し、慶長3年(1598)に死去し桐生氏は滅亡した。
 (寛永九年(1632)に死去説もある。)

桐生城を奪った由良氏も謀略で金山城を北条氏に奪われ桐生城を本拠にする。
 小田原の役で由良氏は滅亡は免れるが、常陸等に領地をもらいこの地を去り、桐生城も廃城になった。
 今残る城を見ると由良氏の前の本拠、金山城の西城部分と二、三郭が良く似ている。
 恐らく由良氏が最終的に整備した姿と推定される。
 なお、桐生氏の平常時の居館は麓のい(さんずいに胃)雲寺の地と梅原館(桐生女子高校の地南)にあったという。

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