金山城(群馬県太田市)

  関東7名城の一つに数えられる城であり、関東北部に現存する山城としては唐沢山城と同程度の大きな規模を持つ。
 城は標高223mの独立峰にあり眺望は抜群である。関東地方では珍しい石垣を多用した城である。
 この点も唐沢山城と共通する。
 しかし、本城の石垣は発掘調査により復元したものであり、石が風化していなく白っぽい感じの石垣である。
 唐沢山城の石垣のような黒っぽい風化した古風な石垣と比べると違和感を覚える。
それでも西城付近や本郭付近には古風な石垣を見ることができる。
 一番の見所は本郭西側大手口に復元された石垣群であるが、明らかに近世城郭の高石垣とは異なる。
 この風景はまるでギリシャ、ローマの遺跡の写真で見たような風景であり、本当に日本の中世城郭なのか目を疑う。
鳥瞰図は現地の説明板や各種資料、現地調査をもとに描いたものであるが、範囲が広すぎて全貌を入れようとすると見所の主郭部が小さくなってしまう。
 とりあえず全貌を優先的に描いてみた。

関東屈指の石垣の城であるが、各石垣にそれほどの高さはなく、段々状に高さ2、3mの石垣を幾重にも重ねている。

 付近の尾根には岩がごろごろしており石材には苦労しなかったと思われる。

 復元された石垣群は主郭部西側の大手口付近が中心であり、本郭部周辺にも石垣は見られる。

 しかし、かなり埋没したような状態であり、しかも新田神社があるため発掘もできず、果たしてどんな姿であったかは不明である。

 現在は西城方面が発掘調査中であるが、石垣はあるようには思えなかった。
 石垣はあるものの、山頂に主郭部を置き、尾根伝いに郭群を配置、郭間を竪堀や堀切で仕切る構造は典型的な中世城郭である。

ただし、さすがに名城と言われるだけあり、その規模は雄大である。
特に西城見附曲輪西側の遺構は素晴らしい。

本城は鎌倉時代末期に新田義貞が砦として築いたと伝えられるが証拠はない。
 資料によるものとしては、新田氏の一族、岩松家純が関東管領上杉氏に属し、文明元年(1469)に築いたという記録が残る。
その後、重臣の横瀬国繁は岩松氏の実権を奪い、岩松氏を駆逐し名実ともに金山城を奪った。下克上の典型である。

 この由良氏であるが、新田氏の流れを組む横瀬氏が改称した姓というが、その起こりはまゆつばものである。
一応、新田義貞(義宗とも)が足利方に討たれた時、子の貞氏は幼少で家臣の横瀬時清に庇護され、後に婿となって横瀬氏を称したのが始めという。
 すなわち、清和源氏新田氏流ということである。
 由良氏の元の姓である横瀬氏であるが、元は岩松氏の家臣である。

 この岩松氏であるが、足利義康の嫡孫義純が興した家とされる。
 義康の兄新田義重が義純を愛し、嫡子義兼の女婿とし、上野国新田郡岩松郷に居住したことから岩松を名乗るようになったという。
 新田氏の本流は南朝方として滅亡するが、岩松氏は室町期には足利基氏に仕え、戦功によって新田義貞系の新田本流の領地を領有し、新田氏の惣領家とみなされるようになる。
 新田本流にとっては裏切った一族ということになるが、これも詐称かもしれない。

@ 物見台西の岩を削った堀切。 A物見台。北側には石塁がある。 B大手曲輪入口にある月ノ池。 C月の池北の竪堀。
D大手曲輪入口。 E大手曲輪から三郭を見る。 F南曲輪方向。 G水手郭にある日ノ池。
H御台所曲輪から本郭を見る。 I本郭に建つ新田神社。 J御台所曲輪の石垣。 K御台所曲輪南の腰曲輪。
L月ノ池から見た西側の馬場。 M物見台の南にある石橋。 N西矢倉台西の堀切。 O西城筋違門の石垣。
P西城の石塁と堀。 Q西城見附出丸西の虎口。 R西城見附出丸西端の物見台。 東側山麓から見た金山。

岩松氏も横瀬氏も新田氏とは何らかの姻戚関係はあったかもしれないが、この地を支配する上で都合が良いため、に知名度がある新田氏の後継を称したのではないかと思われる。
 この点、徳川氏も全く同じであることが面白い。まだ、岩松氏や横瀬氏の方がはるかに新田氏との関係は強く、その血が入っている可能性は大きいであろう。
 戦国時代に入るとこの岩松氏にも他の戦国大名同様相続争いが勃発する。持国と家純の二家に分れ、抗争の末、家純が当主となる。
こういう時は必ず功績者がいて、その者の地位が上がる。それが家純の筆頭家老横瀬国繁である。
 結局、横瀬国繁が家宰となって岩松家を切り盛りする。横瀬国繁は余り野心はなく、純粋に岩松家を盛り立てるつもりであったというが、岩松氏に諫言する者がいて、自衛のため、横瀬が岩松氏を徐々に封じ込め、実権を握る。

 結果としては横瀬氏が下剋上によって岩松氏から実権を奪ったことになる。
 国繁は主家岩松氏に代わって国政を左右し、子景繁、孫国経、曽孫泰繁にかけて、実権を確立し、成繁の代に由良氏に改名する。
 面白いことに実権を奪われた主家岩松氏も滅亡はせず存続していることである。まるで室町末期の足利将軍家のようである。
 由良氏は敵対する那波氏などを破り戦国大名化していく。
 成繁は天文十四年(1545)家督を継ぎ新田金山城主となるが、北条氏の北上、上杉謙信の関東侵攻、後には武田氏や織田氏の侵攻の中で生き残るため、あっち付き、こっち付きの揺れ動く対応をする。
 このため、時には北条氏から攻められ、時には上杉氏から攻められながら、巧みな外交戦略を駆使して、戦国時代を切り抜けるとともに、領土確保に努める。
 関東をあっと言わせた越相同盟成立も立役者は由良氏が北条、上杉を仲介した成果である。
 しかし、上杉謙信が死ぬと後を追うように当主、成繁が死ぬ。

 後継の国繁は弟の長尾顕長とともに領国支配を強めるが、織田氏の勢力が関東から一層されると後北条氏の圧力が強まり、ついには北条氏に騙され金山城も奪われ、桐生城に退去する。
 小田原の役では国繁、顕長兄弟は、小田原城に拘束される。
 残った国繁の母とその家臣はいち早く、豊臣方に軍勢を送り、これが功を奏し、役後の取り潰しを免れる。
 一方、北条氏に奪われた金山城には、北条氏の家臣が在城衆として派遣されるが、小田原の役では手足となる由良勢が動かないため、せっかくの堅城も何の役にもたたず開城降伏する。
 小田原平定後、由良氏の所領は没収されるが、国繁の母の釈明により、牛久に5000石の知行を得。子孫は徳川幕府の高家旗本として存続した。