安中市の城

後閑城(安中市中後閑)
JR信越線磯部駅の北2q、磯部駅と長野新幹線安中榛名駅の中間、後閑地区、後閑小学校裏山の標高270mの山にある。
南向きの日当たり良好で高台である後閑小学校の地に居館があったのかもしれない。

この地は碓氷川が流れ、国道18号、信越線が通る谷の1本北側の谷であり、眼下を県道216号が通り、九十九川に後閑川が北から合流する。
九十九川付近の標高が190mほどであるので城の比高は80m。

城は公園としてきれいに整備されており、九十九川沿いの低地からも山上の主郭部の段々が良く見える。

比高はあるが、ほとんど山頂直下まで車で行ける。
西側からは自動車が走れる細い道が延び西三郭が駐車場になっている。
東側から登る道もある。

ここの城の整備の仕方は素晴らしく、遺構はほとんど破壊されていない。
手入れも行き届いている。おまけに城自体も素晴らしい。特に切岸の勾配の鋭さと高さが素晴らしい。
この切岸、そのまま、取り付いてもとても登れない。

しかし、休日の午後なのに城跡の公園を歩いているのは管理人1人だけ、他には誰もいない。
城は北から九十九川の低地に向かって張り出した尾根の先端部が盛り上がった部分に本郭を置く。

このパターンだとだいたい直線連郭式の尾根城の場合が多いが、この城の場合はその先端部分が北以外の3方向に分岐する。
したがって派生する尾根に西郭、南郭、東郭などがある。
城の規模は直径400mくらいだろう。

一番、大きな尾根が西郭がある尾根である。
本郭直下から高さ数mの間隔で扇状に西一郭、西二郭、西三郭と3段に曲輪を展開させる。
各曲輪の突き出しは40m程度は十分にある。

西三郭から南周りに帯曲輪があり、そこを行くと主郭部との間に堀切があり、南に南郭がある。さらに東に行くと堀切があり、その南が二郭である。
この堀切の北が本郭であるが、堀底からは15mほどの高さがあり、切岸が絶壁である。

二郭は北端、堀切側に土壇があり、南に3段の曲輪がある。
総延長は130m、幅は20mほど。堀切をさらに東に行くと、東曲輪群がある尾根がある。
ここを西に登ると本郭東直下の東郭である。
さらに登ると本郭である。2段になっており、南北80m、東西40mほどあり、平坦。曲輪内には庚申塔が沢山建てられている。

本郭の北は尾根続きで一番防御が厳重であり、三重の堀切と北郭がある。いずれも非常に規模が大きい。
堀切は斜面部では段々状の曲輪状の竪堀になって下る。

この城での攻防戦はなかったようであるが、尾根が広がっているため、直線連郭式の尾根城とは違い、多方向からの攻撃を受けやすい。
守る側の兵力が豊富ならこの城の切岸の鋭さからして撃退できるが、兵力が少ない場合、多方向から同時攻撃を受けた場合はとても対応できないであろう。

城址遠景 @本郭内部 A本郭から見た7m下の東郭
B東曲輪群 C二郭(右)との間の堀切 D二郭内部
E南郭(右側) F本郭から見下ろした西一郭と西二郭 G西三郭から見た本郭、西一郭と西二郭
H本郭北側の堀 I本郭北側二重目の堀 J本郭北側二重目の堀は竪堀となる。

城は嘉吉元年(1441)、信濃御嶽城主依田内匠頭忠政が築城を開始し、文安4年(1447)に完成したといわれる。
しかし、依田氏は忠政の子政知を経て光慶のとき、箕輪城主長野業政の女を室としてその片腕となり、天文7年(1538)に鷹巣城に移ったという。
その後に後閑城に入ったのが北条政時、その後、城主になったのが、新田景純である。
彼は主水正ともいい、当初は丹生城を領していたが、弘治元年(1555、翌年という説もある。)後閑城の北条政時を滅ぼし、後閑を領するようになったという。(『上州故城塁記』)。
なお、後閑を称したのは、子の信純からともいう(『群馬県人名事典』)。
新田氏というと新田義貞の子孫と思われるが、新田景純も先祖を新田義貞の末弟・四郎義重としている。
ただし、どこまで真実か?

『姓氏家系大辞典』(太田亮、1963年)によれば、義一―重兼―兼重―義景―義行―行兼―景純という系譜が伝わる。
ただし義一は新田義貞の子(「新田族譜」)とも里見氏後裔の大島義政の弟(『上野国志』)ともされる。
一方、後閑氏は金山城主岩松氏の後裔とする説もある。
岩松氏は室町時代に京兆家と礼部家に分裂しているが、この両家それぞれを先祖とする説がある。

先祖を京兆家とする説では、岩松二郎(岩松持国の子)が上野国甘楽郡丹生を領し、その子が新田景純であるとする(『系図纂要』)。
礼部家説では、岩松明純の子・顕純が丹生に領地を得て土着し、子の憲純の末裔が新田景純であるとする(『関東地方の中世城館』)。
まあ、この辺りは過去の英雄を先祖とする経歴詐称は日常的なことであるのでなんとも言えない。
後閑に移った景純は箕輪城主長野業政に属するようになるが、永禄6年(1563、永禄2年(1559)という説もある。)、景純の子新田(岩松)信純のとき、武田信玄の侵略を受けて敗れ、武田氏に従う。

武田氏滅亡後は、滝川氏、北条氏に従う。小田原の役では後閑氏は小田原城と松井田城に詰め、この城は空城だったという。
そして北条氏滅亡とともに武家としての後閑氏は滅亡し、その子孫は井伊氏に仕えたという。(安中市史、日本城郭大系を参考にした。)
後閑城の廃城は小田原の役後であろう。

人見城(安中市松井田町人見)
JR信越線の磯部〜松井田間の南側にある信越化学松井田工場の南の岡の縁に築かれている。
岡の下の柳瀬川からの比高は50mほどあり、岡縁部の勾配は急な典型的な断崖城である。

伝承では元々は南北朝時代の武士である人見四郎恩和の館であったという。人
見四郎恩阿は太平記絵巻にも登場する武将という。
その人見氏、その後、どうなったのか分からないが、今残る遺構は戦国時代の姿である。

しかし、戦国時代、誰が整備したのかについては一切記録がないという。
大方の説では上野侵攻の拠点として武田氏が整備したという説が有力である。
ここから東に位置する磯部城も記録がないが、武田氏は陣取りゲームのように拠点の城を築きながら、東の長野氏の勢力範囲を侵略し、さらに南の富岡方面に侵攻したのではないかと思われる。

その人見城であるが、7つほどの曲輪からなっていたらしい。
岡の縁部分の遺構は良く残るが、台地内部となる南側は宅地や農地となって遺構は不明瞭となっている。
現在、確認できるのは5つの曲輪と馬出、その間を区切る堀である。
城址のほとんどは竹林となっており、堀は倒れた竹の地獄状態であるが、残っている遺構は比較的良好な状態である。

城域は広く東西400m、南北300mほどと推定できるが、正確な面積は分からない。
特徴的なのは崖端に横堀Dが掘られ、土塁の外側に狭い帯郭が設けられてことである。
曲輪間を区切る横堀は竪堀となって斜面を下る。
これは出撃口であるとともに排水路なのであろう。


本郭の場所には2説ある。城郭体系では2の曲輪であるが、現地解説板では1としている。(番号は現地解説板にしたがった。)
見た感じだと、切岸がもっとも高く、かつ、横下に馬出が存在する2の曲輪が本郭にふさわしいのではないかと思う。
馬出が変わった場所にあるが、普通は台地に続く防御の弱点、南側に設けるのが常識である。
それが、もともと地形自体が防護力がある崖に面した部分に存在するのは不自然である。

これはこの方向に想定する敵が存在したという証拠であろう。
多分、安中城方面を意識したものであろう。逆に弱点である南側の菅原城、丹生城方面は勢力下に置いたということであろうか。

一方、現地解説板が本郭とする1の曲輪は現在では民家の敷地であり、堀等は失われている。
果たしてかつてはどうだったのか分からない。この曲輪の南にも曲輪5が存在したらしいが詳細が不明である。
とすれば、曲輪に囲まれたこの曲輪が本郭であってもおかしくはない。
鳥瞰図は現地解説板の図に従って描いたものであるが、南側の湮滅した部分、果たしてこんな感じであったのかは今1つ疑問が残るところである。
この城へは東の大宮神社に車を置くのが良いだろう。

ここに解説板がある。
西の竪堀@を越えると曲輪9(大きさは40×60mほどと推定されるが、民家の敷地であり、南側が不明確である。)の腰曲輪に出る。
ここに「鶯井戸」Aがある。その西に曲輪8、9間を隔てる堀Bがあるが、堀と言うより虎口のような感じである。
この曲輪8、9を東郭ともいうらしい。
曲輪8の北下、曲輪2の東下Cが馬出と言われる場所である。
方30mほどの馬蹄形をしている。
岡縁部の堀Dを西に歩くと、曲輪4Eとなる。
ここは民家の裏庭であり、三段ほどになっている。
三方に土塁が巡り、西側に堀がある。

@大宮神社西の竪堀 A曲輪9北下にある鶯井戸 B曲輪8、9間の堀
C馬出(右)と曲輪2間の堀 D岡北縁の横堀 E曲輪4内

磯部城(安中市上西磯部)
磯部駅の東1km、信越線の線路を北の低地に見る標高253mの小高い山に築かれている。
信越線が標高200mであるので比高は50m。
下の写真は北下の信越線の線路越しに見た城のある山である。

南から北に張り出した岡末端部の周囲が侵食され、谷津となり、侵食残しの部分が独立した山になった場所に築かれている。
直ぐ西下が信越化学磯部工場である。


城址は城山公園となっている。信越化学磯部工場が整備してくれているようである。 伝承では、鎌倉時代初期、正治3年(1201)に佐々木盛綱が築いたとう説もある。
ちなみに、上野志には「正治3年4月、磯部村古城は佐々木盛綱入道西倉の旧跡である。」と記され、上野国風土記には「佐々木高綱は磯部に居住す。先宮(鷺宮)村内と伝えている。」などと書かれている。

しかし、この城であると特定はできず、この説は疑問視されている。
この城について書かれた資料は発見されていないそうである。
しかし、城は明らかに戦国時代のものである。

コンパクトであるがメリハリが利いた第一級の中世城郭である。
現地案内板には、永禄5年(1562)ころ上野侵略を意図する武田信玄が侵略拠点にするために築いたものではないかと書かれている。
おそらく、この説が妥当であろう。

武田氏滅亡後は北条氏の城となり、北条氏による改修を受けている可能性もある。
遺構の残存度は高く、ほぼ完全に残っている。

南側に城址の案内板があり、その道を入って行くと、車が数台置ける駐車場があり、ここから登城路が延びる。
この道が本来の大手道だったようである。
@本郭下部の曲輪の横堀 A双馬出という曲輪 B二郭東の物見台 C物見台の東下の横堀
D物見台から見た二郭。 E本郭内部は笹藪 F本郭西下の帯曲輪 G三郭内部

この駐車場付近に門があったのではないだろうか。
この道は南側の谷部分を登るように付けられているようであり、曲輪や横堀@が見られ、くねくね道が曲がり、三郭Gからの横矢がきかせるように工夫されている。
三郭は40m四方ほどの大きさがあり、南東側に曲輪が展開する。
その西に「双馬出」Aという曲輪がある。
変わった名前であるが、二郭と三郭、共用の馬出と思われることから名が付いたのではないかと思われる。

登城路の着いた先が二郭Dである。東西40m、南北25mくらいの曲輪で、虚空蔵菩薩の社がある。
東側に南北50mほどに細長い土塁のような曲輪Bがある。
物見台としているが、井楼櫓が建っていたのかもしれない。
そこから東下を覗くと、10mほど下に横堀Cがぐるりと回っている。

二郭の西側に堀があるが、結構埋没している。
その西側に土塁があり、虎口を入ると本郭Dである。
曲輪内は50m四方ほど、田村神社の小さな社があり、曲輪内は熊笹が生い茂っている。

本郭は山の西端部に位置し、北側、西側から南側にかけては山の勾配が急であり、西側から南側にかけて帯曲輪が2段存在するだけである。
また、北側には帯曲輪はなく、下に降りる道がある。これが搦手道である。

碓氷城(安中市松井田町坂本)

中仙道の碓氷峠登り口にある坂本宿の北西の標高570mの山にある。
別名は「愛宕山城」とも言う。
坂本宿の標高が450mであるので比高は120mほど。
西側の山の尾根が東に延びる尾根末端にある。
ちょうど山裾を国道18号線の旧道が走る。
この旧道、カーブの連続で名高いが、その第一のカーブから第四のカーブがある西の山が城址である。
ちなみに後、1.5qほど走るとあの有名な「めがね橋」である。

この山には旧中仙道が通っており、国道脇に旧中仙道への入り道がある。
この旧道、遊歩道として整備されている。この遊歩道を歩けば城に行けると思うと間違い。城には行けない。
城に行くには遊歩道から直角にそのなま山に登れば良い。約5分で城址である。

ところが城址は完全な藪、堀や土塁、平場は確認できるが、写真を撮ってもちっとも分からない。
山裾を中仙道が通る(当時は城内を通っていた感じである。)ので街道を監視する関所城である。
どこまでが本来の中仙道か分からないが、堀の底を通るような道である。
山裾にあるので西側の者が東側を監視する城、東側からの攻撃に対する城として築城したもの思われる。
とすれば上野侵攻を意図する武田氏が松井田方面の上杉方に対しての築城であろう。
城の曲輪配置も東側の先端部に周囲を堀が覆う70m四方の本郭がある。
土塁は西側、南側にある。南側に馬出があるが、これは後付けであろう。
東に下る道沿いに曲輪や虎口があるが、ほとんどは藪で確認できない。
本郭の西側に堀を隔てて二郭があるが、地勢上、本郭より高い位置にあり、内部は藪である。
西端には関所の番屋のようなものがあったらしいが、それ以上の防御施設はなく、西側からの攻撃には弱いことは明白である。

上野が武田氏の手に落ちた後はあまり使われていたとは思えないが、武田氏滅亡後、上野が北条氏の領土になるとここは境目の城として、松井田城の出城として整備されたのではないかと思う。
小田原の役でどんな役割を演じたかは不明であるが、西側からの大軍による攻撃には耐えられない城であり、おそらく放棄されたのではないかと思われる。
@本郭(右)と二郭間の堀 A本郭南側の帯曲輪、この先に馬出がある。 Bの突き出し部分 
C堀底のような所を中仙道が通る。 D 枡形のような場所があるが? E 国道脇の空き地から見上げた城址


簗瀬城(安中市簗瀬)
安中市役所から国道18号線を2q、長野方面に走行すると原市の交差点がある。
その交差点の南に「セキチュー」があるが、その南側の城山稲荷神社境内が城址である。
神社につくとすぐ土塁とその間に開く虎口があるので、一目で城址だと分かる。

この虎口の北側には土塁と空堀が残り、北側は二重土塁だったことが分かる。
境内は70m四方ほどの広さで北側、西側及び東側の一部に土塁が残る。
北西端部が一段と高く、櫓台であったようである。
虎口は南側以外の3方向にあったようである。
南側は碓氷川に面した高さ20mほどの崖であり、防御の必要性はない。
南側以外の道路はおそらく堀の跡と考えられるが、神社境内となっている本郭以外の部分は民家となり分からなくなっている。
失われてしまった部分も含めれば、東西200m、南北140mほどの規模であったと推定される。

築城時期や築城者についての記録はないが、安中城と松井田城の中間に位置していることから、繋ぎの城として戦国時代に安中氏によって築かれた可能性が高いと推定される。

@ 本郭の北、土塁間に開く虎口 A本郭(左)の北側の堀と土塁 B本郭に建つ城山稲荷神社、周囲を土塁が巡る。

鷹巣城(安中市板鼻)
板鼻城とも言う。安中市の東端、関東平野を望む比高25mの岡末端にある。
地図には城址が示されているが、現地には碑もなく、城への案内板もない。
増しては城まで行く道さえないような状態である。
城のある岡の下を碓氷川が流れ、中仙道(旧国道18号)が通り板鼻宿の宿場町である。城のある岡は西から張り出し、城のある西側は谷津、東側も緩い谷津になっている。
西側の谷津の西側の山には出城があった。また、東側、緩い谷津の東側には小丸田出城があった。
この小丸田出城はその後、江戸時代初期には里見讃岐守忠重が1万石でここに陣屋を構え、現在、安中市老人福祉センターになっている。
城は直径300m程度の広さであるが、北東半分は宅地になっているが、その中に曲輪や堀が残る。

南半分は南相寺の墓地や畑になっている。
肝心の本郭部分は藪が酷く、堀等は確認できるが写真を撮っても分からない。

かつては畑であったようであるが、耕作が行われなくなり、荒れてしまっているようである。
古い航空写真によると、城は輪郭式であり、最高場所に本郭を置き、少し標高が低い部分に竪堀、横堀を巡らし曲輪を作り出している。
竪堀は出撃路も兼ねているようである。
この形式は岩櫃城に良く似ている。
この城は武田氏が整備したので、同じ系統の岩櫃城が似ていても不思議ではないかもしれない。

築城時期については良く分からないが碓氷川が平野部に出る場所であり、城を置くには適した地であるのでかなり古い段階で城館があった可能性がある。
一説では鎌倉時代、この地方を領有していた里見氏の館として築かれ、その後、天文8年(1538)箕輪城主の長野業政が、後閑城主であり娘婿であった依田光慶を、武田信玄の上州攻略に備えて城主としたことになっているが、この時点では武田氏は上野への侵攻の気配は見せていないので、この説明には疑問が残るらしい。
その武田氏が侵攻するとこの城は安中氏と長野氏の分断と箕輪城攻略の拠点とするため、拡張整備したものと推定される。
なお、航空写真は国土地理院が昭和50年に撮影したものである。

@本郭南側の曲輪 A本郭東側の切岸 B城南側の帯曲輪 @から見た小丸田出城

安中城(安中市)
安中市役所などのある安中市の市街地が城址である。
城の中心部は安中小学校と安中市文化センター体育館、図書館がある地である。
城は北に九十九川、南に碓氷川が流れる東西に長い岡にあり、比高は20mほどである。
城を置くにはかなり良い条件である。

残念ながら城の遺構はほとんどない。
かろうじて国道18号線が北下を通る北側の切岸が城を思わせるのみである。

肝心の城址には城の解説板さえない、ただ、体育館の横に腐りかかった安中城跡の木柱があるだけである。

弘治2年(1556)、武田信玄に敗北した上杉方の長野業政、安中忠政らが、武田信玄の侵攻に対抗するため、安中忠政が安中城を築城し嫡子忠成を入れ、自身は松井田城を強化して入ったという。
永禄4年(1561)、この地では川中島の裏合戦が行われる。
上野に侵入した武田信玄は安中城と松井田城を分断するため、八幡平城を築き牽制。
さらに永禄7年(1564)の侵攻で安中忠成は降伏。忠政は松井田城で抗戦するが降伏。

忠成は信玄傘下になり、景繁と改めて安中城主となる。
しかし、天正3年(1575)の長篠の戦いで討死し、城も荒れ果てる。

その後、慶長19年(1596)に井伊直勝が城を再興。
ただし、領土は2万石程度であり、陣屋程度のものだったらしい。その後、堀田氏、板倉氏、内藤氏、板倉氏と代わり、以後板倉氏の時代に明治維新を迎える。

安中と言えば「安政遠足」が有名。
城址の一角にその碑がある。なお「遠足」と書いて「とおあし」と読むそうである。
現在は、毎年5月の第2日曜日に開催され、仮装ランナーが走るので有名。
この遠足の歴史は安政2年(1855)に当時の安中藩主「板倉 勝明」が藩士の鍛錬のため、碓氷峠の熊野権現まで7里余りの中山道を徒歩競走をさせ、その着順を記録させたことがはじまりといいで、これが日本のマラソンの発祥と地元では言っている。
そのスタート地点がこの安中城址である。

体育館横に建つ城址を示す板 安中遠足の記念碑 国道18号から見上げた城址。