膳城 2025 (前橋市粕川町膳)
膳城に前回行ったのは2003.11.15だった。
それから21年後、2024.10..8に再訪した。
しかし、その日は大雨、ろくに見れず、2025.5.9にまた行った。
しつこいねえ。

21年前に比べると何か荒れた感じがした。
公園化されたが、管理費が削られているのか?
昔、ここは粕川村だった。
平成の大合併で今はピンと来ないけど前橋市である。
大合併すると結構、管理費が削られることが多い。
合理化という名の経費削減である。
城内にあった「出土文化財管理センター」も廃墟状態、どこかに統合されたのだろう。

城は上毛電鉄「膳駅」の北約500mにある。
赤城山南麓の扇状地にあり、比較的赤城山に近い側に位置するため、土地の起伏が多く、平城ではあるが、丘城の性格も有する。
本郭T付近の遺構の残存状態が良好であるが、それ以外は宅地や畑となって湮滅している。

鎌倉幕府初代の問注所執事を務めた三善康信の末裔という善氏(のち「膳」を名乗る。)が嘉吉年間(1441〜44)頃、築いたと推定される。
善氏は勢力拡大に伴い、隣接する赤堀氏等との確執を生み、文明年間(1469〜87)には佐野氏に城を追われ、横瀬氏の援助で城を回復する。
以後、横瀬氏の家臣となり、金山城の支城となる。

上杉謙信が関東に進出すると謙信側の城となり、羽生城を退去した木戸忠朝、菅原為繁などの羽生衆が置かれるが、城主は善宗次のままであった。
元亀3年(1572)、下野の小俣城攻めで宗次が戦死し、北条軍の反撃で城は奪われ、宗次の子、春松丸は厩橋に逃れ膳氏は没落する。

天正2年(1574)、上杉氏が奪還するが、同6年(1578)謙信が死ぬと、城は北条氏の手に落ち、金山城から河田備前守が城代として派遣された。
天正8年(1580)武田勝頼が上杉景勝を支援するため、上野に侵攻する。
武田勢に膳城を攻撃する意図はなく、牽制を目的で平服のまま、通過したが、些細なことから兵同士の喧嘩が起こり、それが城攻めに発展し、武田勢が落城させ、河田を討ち取った。
この時、武具を付けずに城攻めを行ったので「膳城素肌攻め」として後世に伝わる。
この落城後に廃城となったという。

数々の攻防戦が演じられ、城の帰属が度々変わったため、その都度、城は改修が加えられ、本郭の周囲に郭が拡張、増築されていったと思われる。
西から南にかけて「兎川」が流れ、天然の水堀の役目を果たす。
南西側の兎川沿いに根小屋が形成され、大手は南側にあった。
本郭は根小屋からは比高が12mあり、約45m四方の広さ、周囲を深さ5m以上の堀が取り巻き、さらに周囲の堀から何本もの堀が蜘蛛の巣のように延びる。
これらは通路を兼ねた掘底道であり、堀の出口が虎口になっている。
本郭の東西に馬出状の郭Vを配し、西側に郭U、南側に郭Z、[がある。
また、北側には郭Xを置き、その西には郭Yを配する。
城域は東西約250m、南北約500mに達する。
@本郭北側の堀 A本郭(左)と二郭間の堀 B本郭内部、かつては土塁が覆っていた感じである。
C搦手口、堀が2重に配置され技巧的な造りである。 D@の堀は東に下る。右側が四郭。 E五郭西側の堀なのだが・・・草茫々!


2003.11.15訪問時の記事

膳城(粕川村膳)

ほぼ等間隔で存在する山上、膳、女渕3城の真中の城である。
 県道大胡大間々線の北、粕川村歴史民俗資料館のある場所が膳城の北郭にあたる。
山上城の南西800mという至近距離にある。

 主郭部は歴史民俗資料館の南側にあり、遺構がよく残る。
 といっても本郭と本郭の西側以外は宅地化しており、本来の城の大きさは現状からは伺い知れない。

 縄張り図によれば南に緩やかに傾斜する赤城山南麓の斜面に立地し、南北500m、東西250mの中央部が広いひし形状をしており、東に兎川、西に 川が流れ、その間にある台地に築かれる。

 この台地を掘り切るように区画して郭を造っており、堀の深さは5mは優にある。
馬出郭は宅地化しているが、その北側の堀は幅20mほどもあり、浅くはなっているが良く残っている。西郭、南郭は隠滅状態である。

 鎌倉時代に幕府問注所執事三善康信が築き、子孫が代々居城したという。
 一時、三善氏は城を奪われたこともあったが奪還し、その後、膳氏を称した。

 この城が有名なのは「膳城素肌攻め」による。天正9年武田勝頼が上野に侵攻し、大胡、山上を落とし休憩中、膳城の雑兵が武田勢に打ちかかり、逆襲した武田勢に落城させられた。
この時、武田勢は休憩中であるため甲冑を着けておらず、この名が生まれたという。

膳氏は現在も存続しており、その子孫により本郭に城址碑が建てられている。

北郭の堀。 搦手門北の堀。 二郭西側の北の堀 本郭西側の郭
二郭西の堀 本郭(左)と二郭間の堀 本郭東の堀跡。 馬出郭(右)北の堀。