山上城2025 桐生市新里町山上 36.4284、139.2777

2003年11月16日以来22年振りに2025年5月9日に訪問した。
前回行った時は城跡公園で何かのイベントがあり、家族連れが大勢いたのであるが、今回は平日だったので誰もいなかった。

あの時、ここは新里村だった。
今回は桐生市になっていた。
すぐ西の膳城は前橋市なのだ。
前橋と桐生、けっこう離れている印象があったのだが。
隣接しちゃったのだ。

改めて見れば、でかい城である。
南北約500m、東西約200mはある。
お隣の膳城よりも遺構の規模、残存度は遥かに優れている。
しかし、知名度は残念ながら・・・。

膳城には「膳城素肌攻め」というド派手なエピソードがある。
その陰に隠れてしまっている感がある。

公園になってしまい南側や東側は遺構が曖昧な感じになってしまったが、北郭付近や西側は戦国時代の城遺構がよく残っている。
@三郭東下の帯曲輪 A 三郭(左)と二郭間の堀角 B 二郭内部、本郭の切岸が見える。
C 本郭内部 D 北郭北側の堀 E 主郭部西下の横堀の北側
F主郭部西下の横堀、南側 G三郭内部は芝生の公園になっており遊具がある。


H南郭を北西側から見る。

2003年訪問時の記事 山上城(新里村山上字宿)

赤城山南山麓の緩傾斜地にある城郭。
山麓の南北に延びる丘に築かれている丘城である。

 南北は650mあるが、東西は200mほどしかない細長さである。
この細長さの印象としては大胡城を連想させるものがある。

 これは南半分の南郭が別郭となっており、北側の本城部分とは堀切で隔離されていることにもよる。
 本城部分にあたる北側は南北420mほどの大きさである。
城の東には天神川が流れており、天然の水堀となっている。
三郭は城址公園となっており一面の芝生である。
郭の途中に段があり、2段構成となる。

 この段の部分は子供が芝そりをするには絶好の場となっていた。
 三郭の東側には下腰郭(腰曲輪)があるが、ここは駐車場と庭園になっており城址であることを全く感じさせない。
城址であるのを感じさせるのは三郭の西側に築かれた堀と土塁である。
この堀と土塁は三郭の西から二郭の北側まで全長400m以上にわたって続いており圧巻である。
特に北側の二郭西側は深さ10m近い。
この堀は堀底道も兼ねている。三郭の北側に堀があり、この堀も堀底道であり、下腰郭から通じる。
この堀を隔てて北側に二郭がある。
二郭内はくぬぎ林であり、その中に遺構が良く残る。
二郭内に一段高くなっている場所があり、そこが本郭である。

 本郭の西側には堀がある。
 二郭の東側には腰曲輪が2段見られる。本郭の北側に堀切を隔てて北郭がある。
 三郭の南は堀切を隔てて南郭であるが、ここは発掘作業中であった。

 南郭部分はほとんど平城という感じであり、畑と宅地となっている。
 この城は足利成行の孫、五郎高綱が平安末期、山上氏を称して築城したことに始まると言われる。
 その子、高光は頼朝に仕え、戦国期には管領上杉氏の家臣となって活躍した。
 永禄年間には由良氏のものとなり、天正2年上杉氏の攻撃で落城した。
 天正8年には北条氏の攻撃を受けたが落城したかは不明。

三郭内部。一面の芝生。 三郭西の堀と土塁。 三郭(右)と二郭間の堀。 二郭西側。右の堀のさらに右が本郭。
二郭西の堀と土塁。段々深くなる。 左同じ。郭部分が高くなり、
堀底を見下ろす感じとなる。
二郭と本郭。本郭は1.5mほどの段差
があるに過ぎない。
二郭の内部。
二郭東の腰曲輪から堀を隔てて
三郭を見る。
二郭東の腰曲輪から二郭と
本郭を見る。
東側の下腰郭内。 三郭(右)南の堀切と南郭。
南郭は発掘中であった。