津戸城(群馬県大間々町)

 大間々町中心部の北西、渡良瀬川の対岸、標高284.3m要害山の山頂にある山城。
 山上にある要害神社の場所が本郭に当る。
 このため「要害城」とも言う。
 この山は南側の平地から見ても非常に目立ち、見ただけで城があることを予感させる。
 渡良瀬川の川面からの比高は100m近くあり、西側は高津戸渓谷となっており、この方面からの攻撃は不可能。
 東側は低くなり山地に続くがこの方面からの攻撃も困難であろう。

 南側の傾斜は若干緩く、このため南側に防御の重点を置く。
主郭部は南北に長い尾根上に置かれる。
 高い山ではあるが、公園化されており、三郭が駐車場となっているため、車でここまで行くことが可能になっている。

 このために三郭付近の土塁、堀等は破壊されてしまっている。
駐車場から本郭までは比高30m程度、歩いてわずか5分である。本郭、二郭の遺構の残存状態は良好であり、夏でも十分に見学が可能となっている。

城域としては530m×170mほどである。
 最高箇所にある本郭は直径60m位の平坦地であり、神社本殿が建つ。
その周囲4m下に幅10m位の腰曲輪1が一周する。

 東側の腰曲輪は1段低い。神社参道が大手虎口である。本郭の北には2郭がある。
 本郭腰曲輪の南側下が二郭になるが、本郭との間(1と2の間)には堀が存在していた可能性があり、西側は竪堀Aとなる。
 

また、その東側は堀底道となって東下の曲輪に続く。
小さな段郭6段で構成されている。
 それぞれの郭間は2、3mの高度差がある。
最大の郭5でも30m四方程度に過ぎない。

 この中を大手道が南に下っている。(参道の道ではない。)
二郭の最南端6と三郭7との境界部には堀と土塁があったが、三郭を駐車場とした時に破壊されている。
(駐車場からの登り口がわずかに残った堀の堀底である。)
 参道は三郭に至るようになっているが、本来は竪堀@の堀底を通って西下に下るようになっていた。
 三郭は7、8、9の3段からなっており、それぞれの郭間は堀で区切られていたが、北側の郭7、8は駐車場となり、堀は失われている。
 それでも段差は確認できる。三郭の3つの郭併せては東西50m、南北300mほどの広さとなる。
 三郭の東側10m下にも段々状の曲輪10が認められるが、その中を車道が貫いている。

西側の渡良瀬川対岸から見た城址。 三郭から見た二郭。ここに土塁があった
が失われている。
三郭の地。途中に7と8の間跡の段差
がある。
二郭、5の曲輪から6の曲輪を見る。右
に@の竪堀がある。
二郭、4の曲輪。 二郭内を下る大手道。右は2の曲輪。
2の曲輪から1の曲輪とAの竪堀を見る。 1の腰曲輪から見た本郭。 本郭に建つ要害神社社殿。

築城は、寛治年間(1080頃)、山田七郎平吉之によると言われるが、10代目則之の代に桐生氏に滅ぼされたというが、山田氏については良くわかっていない。
後に桐生氏の持ち城となるが、桐生氏はこの城を余り重視せず、このため、由良氏に攻められた時、桐生氏はこの城を放棄してしまったために簡単に滅ぼされてしまう。

 その前にこの城を巡っての1つの戦いがある。
桐生氏の家臣里見実堯が主君に意見を行ったところ、逆恨みで殺害され、(あるいは子供を上杉謙信に託したため、誤解を受けたからともいう。)その仇討のため実堯の息子隋見勝政、勝安兄弟が天正4年(1576)高津戸城で決起したが、天正6年に敗れ戦死したという話がある。
 この反乱には上杉謙信が支援していたという。
しかし、この話もどこまでが真実か疑問があるそうである。
 見るからに威圧されるような山にある城であり、これほどの要害性を持つ城にも係わらず、余り華々しい活躍の場が与えられなかった城であるのは信じられない感じがする。
ほぼ八割程度の遺構は残っており、しかも車で主郭まで簡単に行くことができる。
四季を問わず、中世の城を満喫でき、お勧めできる城である。

用命の砦(桐生市川内町)

高津土城から、渡良瀬川北岸を走る県道338号を東に2km、相川橋から川内町に入る道との川内南小前交差点の南西にこんもりとした独立丘がある。
丘上は永明寺の境内になっている。
この丘、東西が250m、南北は200mほどであり南は渡良瀬川が流れる。川からの比高は40m。川筋は崖である。
西側が高く、東側に向かって斜面になっており段郭が築かれていたようだが、斜面は墓地が段々に造成され遺構は失われている。
それでも西側と東側に帯曲輪が確認できた。丘の北側、山地に続く裾野には堀が廻っていたようである。
桐生城の支城であったと言われる。

鹿田山城砦群(笠懸町鹿)

日本に旧石器時代があったことを実証した岩宿遺跡の北東に扇状地内に独立して聳え立つ山がある。
山の名を総称して「鹿田山」という。
比高は結構高く70mもある。この山は北西に開口部がある「コ」字形(馬蹄形)をしており、開口部の奥に渡良瀬養護学校がある。

直径としては1.5q位である。
山が北側から東側、そして南側を覆った形になっており、山々のピークに小規模な砦が築かれる。

砦としては北側の尾根の西側に「道帰山砦」、その東側に「建岩砦」があり、南に下って「弥衛門山砦」、南から西に回ったピークに「雷電山砦」があり、これらの砦群を総括する城として南西端に「泉沢城」がある。
これらを総称して鹿田山城砦群という。

中心となる「泉沢城」は山の南の山麓の山際集落の西側の集落が居館跡に当たり、その東側の清泉寺を含む東側一帯が城址である。
ここも宅地や工場となって遺構はかなり失われてはいるが、段郭は明瞭に残っている。
堀切はそのまま道路になっている。

尾根の末端に位置する城であり、それほど防御に優れた感じではなく、城が危うい場合は尾根伝いに東南の兎山、雷電山砦方面に退避するようになっていたと思われる。

その雷電山砦であるが、明確な城郭遺構というものはない。
やはり段郭のみで構成されているだけであり、一見、自然地形にしか見えない。
「弥衛門山砦」には行かなかったが同じようなものであるという。

西側低地から見た泉沢城。
この道路は泉沢城の堀切を通る。 中腹にある清泉寺も曲輪の跡である。 雷電山砦は段郭のみである。
北側の山には「道帰山砦」と「建岩砦」が位置する。
両砦間は400mほどであり、高度は西側の「道帰山砦」(235m)の方が東側の「建岩砦」(220m)より若干高い。
砦のある尾根は北側が岩剥き出しの急斜面であるが、南側は養護学校までの緩い斜面である。
養護学校裏の道に車を置き、学校の裏(北側)の整備された道を登ればすぐに砦である。
この道はやや健脚者向けの散歩コースというべきであろう。
道帰山砦であるが、ここはほとんど自然地形である。
尾根の北側が土塁状になっており、その南側に曲輪状の平坦地がある。
西斜面に堀があると聞いたが、堀は確認できなかった。
ただしずっと麓の民家付近に堀、土塁と思えるものが見えたがこのことだろうか。
どうも宅地化に伴うもののように見えるのだが。
ただし、頂上部から東に向かうと段差4mほどの明確な切岸がある。切岸の下は堀がある。
尾根を遮断する堀と切岸である。これがほとんど唯一の城郭遺構である。頂上部は結構平坦であるが、特になにもない。
東側の「建岩砦」はもっと砦という感じが強い。道帰山砦から尾根を東に歩くと高度を下げるが、建岩砦の西で鞍部になり、その東に砦がある山がせりあがる。鞍部から砦に向かう道は土橋状になっている。
砦は北東端に15m×10m程度の小さな主郭を置き、崖である北側を除く周囲を2段の腰曲輪が覆う。
段差は4m程度に過ぎず、幅は8m程度である。南にはさらに2段の曲輪がある。
西側には井戸跡と思われる直径3mほどの窪地がある。
一応砦であるがささやかなものである。とても戦闘に耐えられるものではない。
場所的にも物見台、狼煙台を置くなら格好の場所であり、両砦ともそのような目的のものであろう。

笠懸村史によると、築城は南北朝の頃という。
誰が築城したかは明確ではないが、戦国末期には岩崎氏を中心とする13人衆と言われる由良氏に従う武士団がいたというので岩崎氏らの先祖の築城であろう。
この付近は山の伏流水が地表に出る場所といい、湧き水が豊富である。
この水を利用した水田開発に携わった武装開拓民であったのであろう。

おそらく始めは桐生城の桐生氏に従属していたと思われるが、由良氏の勢力拡大に伴い由良氏に従属していたらしい。
戦国末期では金山城に付属する砦であったのであろう。
この地も上杉謙信や北条氏、武田氏による金山城攻撃で戦場になったりしていると推定されるが、この城砦群がどんな役割を演じたか明確な資料はない。
小田原の役後、由良氏の没落で廃城となり、岩崎氏らはこの地に帰農した。
今もその子孫が付近に居住している。

道帰山砦東の切岸 北から見た道帰山砦 健岩砦の主郭 北から見た健岩砦