群馬県太田市周辺の金山城の支城群
群馬県太田市周辺には金山城の支城群や新田義貞を始めとする新田一族に係わる城館がいくつかある。これらを紹介する。
雷電山砦(太田市(旧藪塚本町)湯の入)
薮塚温泉から桐生市広沢に向かう県道薮塚桐生広沢線が直ぐ南側を通る八王子丘陵にある金山城の出城である。
同じ名前の砦が鹿田山城砦群にもあるがこれとは別ものである。
しかし、群馬、栃木には「雷電」という名の神社や山が結構ある。
板倉の雷電神社を始め、宇都宮、伊勢崎等にもあり、大間々には雷電神社古墳がある。
山としては桐生に雷電山がある。
同じ北関東でも茨城県では「雷電」とつく神社等は余り聞いたことがない。
やはりこの地方には雷が多いことに基因して「雷電」という名の神社や山が多いそうである。
落雷避けの祈願も当然であるが、雷電は農耕の神でもあるのだそうである。
しかし、「雷電」と聞けば、管理人が連想するのは、どうしてもF6Fヘルキャットに良く似た第二次世界大戦に出てくる日本海軍の迎撃戦闘機である。 この砦は、北西方向からの敵(上杉?武田?)の由良領への侵攻を鹿田山城砦群⇒茶臼山砦⇒雷電山砦⇒丸山砦⇒金山城と狼煙リレーで知らせるための由良氏の狼煙台でもある。 同じ狼煙台である茶臼山砦の南方1.5qの距離である。 ただの狼煙台程度の役目であるので、八王寺丘陵にある茶臼山砦、前八王寺砦、丸山砦そして北西の鹿田山城砦群の砦等と同じように、この砦もこれらと余り変わらない自然地形に近いものかと思っていた。 しかし、この砦には中途半端で規模は小さいものの横堀、石垣がちゃんと存在していた。 この点、前記の砦とは一味違っている。 藪塚温泉の直ぐ東に見える標高190mの山が城址であり、麓の東武薮塚駅の標高が90mであるのでここからの比高は100mである。 薮塚温泉から山を越え太田双葉カントリークラブに向かう県道の最高標高箇所に急カーブがあり、この西側にある山が城址である。 県道が大きくカーブする場所に山に向かう岩盤むき出しの切通があり、ここを入ると城址に行ける。 しかし、この道は直ぐに無くなり雑木林となる。道を30mほど行くと西側に土壇が見え、ここが登城路であったことが分かる。 ここに門か何かがあったのであろう。 この土壇の西側に岩がむき出しの窪んだ場所があり、窪みに水が湧いている。 当時からの井戸として使われていたのであろう。 この付近の斜面の勾配は緩い。西に50mほど行くと巾4m程度の横堀が東西に延び、石垣を持つ虎口の土壇があり、その横に虎口が開く。 |
虎口の前のみは堀はなく馬出状になっている。 その両側の堀底から山側主郭部の土塁上までは3mの高さがある。 なお、土塁は堀の両側に存在する。 この虎口から西は小竹が密集しており十分に確認できないが、途中で堀が帯曲輪状になっているようである。 虎口の東側は落葉樹の林であり、冬場は歩きやすい。 堀と土塁を越えると今度は横堀2本が南北に山から竪堀状に下って来る。 その間には土塁になっている。 ここを過ぎると山頂までに段郭が4段ほどあり、その内部は平坦になっている。 頂上部は長さ8m、巾4m程度の土壇にすぎない。 丸太で組んだ物見の櫓が建てるだけで精一杯のスペースしかない。 山頂から南側、東側は緩斜面であり、横堀が築かれるが、北側は崖状であり、この方面からの攻撃を想定する必要はなく曲輪等はない。 頂上部の西側には3段にわたって小さい曲輪がある。 うち2つは前面に土塁を持ち、武者溜のような感じである。 |
北東側ゴルフ場から見た城址。 | 県道がカーブする場所に城址への 入口の切通がある。 これは登城路だろう。 |
左の切通を入ると左手に土壇があ る。石があるので石垣だったかも? |
土壇の西側には湧水がある。 砦の井戸として使われていた。 |
少し登ると横堀が東西に走る。 | 虎口の土壇には石垣が残る。 | これが山上の曲輪。小さなものであ るがここにも石が多くある。 |
東側斜面には二重の横堀がある。 木のある所が堀間の土塁。 |
頂上直下の曲輪には小さな石の社がある。
山頂付近は結構石が多く見られ、これらは石垣の残痕であった可能性がある。
城域としては120m×50m程度の小さなものである。
大した城ではないが、山を這う横堀や石垣、現役の井戸等結構面白い城である。
車で来ても歩いてすぐに行くことができるので楽チンである。
こういう城は管理人のような藪山城マニアにはこたえられない。
江田館(太田市(旧新田町江田))
東武伊勢崎線世良田駅の北1.8km、新田町役場の南西800m、若干の高低差がある河岸段丘にあるが、平地にある城館と言って差し支えない。
南側の堀跡を県道311号線が通り、本郭の南に駐車場が整備されている。
それにしても本郭は良く形を残している。 このような平地にあれば、耕作や宅地化で完全になくなってしまうことがほとんどである。 これも戦前南朝に属した者の顕彰が行われ、南朝の雄、新田義貞に係る一族の館であったことが大きく寄与している。 国の史跡にも指定されている。 地元、新田町の名前の起源になった一族の館ということから整備されたという。 それ以前は本郭内も畑となっていたようである。 本郭以外はほとんど湮滅しているが、残っている本郭は東西約80m、南北約100mの規模を持ち、堀と土塁が一周している。 土塁は郭内から2〜3mの高さがある。 完全な方形ではなく、東と西の両面に 「折(おれ)」を持ち長方形を2つずらして重ねたような形である。 虎口は南に開いており土橋になっている。 東にも土橋があったようであり、堀の土橋があった部分が盛り上がっている。 本郭周囲は水堀が一周しているが、かつてはもっと深かったと思われる。 |
南側の土橋から見た本郭内部。 | 本郭東側の土塁の折れ。 | 西側の二郭。木のある位置に土塁 があったらしい。 現在は畑となっている。 |
本郭西側の堀の折れ。 |
本郭の外にも郭があったが、さすがにほとんど湮滅している。
それでも北東側に土塁が残り、西側の郭も土塁は失われているが、郭の形は良く残している。
集落全体が城館の領域であったようであり、本郭の北東側に黒沢屋敷、毛呂屋敷、柿沼屋敷の3郭が連なる。
これらは臣下の屋敷と思われ、城郭集落であったようである。
築館は鎌倉時代、新田一族江田行義と伝えられている。
江田行義 は、新田氏の祖 新田義重の子 義季(よしすえ)の四世の孫に当り、新田義貞の鎌倉攻めに参加し軍功を上げ、その後も 義貞 とともに各地を転戦した。
その後、新田一族はばらばらになり、戦国時代、館は「反町館」とともに金山城の由良氏の手に落ちる。
金山城防衛網の1出城として整備され、由良四天王の一人、矢内四郎左衛門
の居城となる。
しかし、天正年間、北条氏により金山城が乗っ取られ、江田館も北条氏のものとなる。
廃館は、天正15年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの後という。
反町館(太田市(旧新田町))
江田館の東1.8km、新田町役場の東800mにある平地城館である。
新田義貞の居館と伝えられるがどこまで真実かは不明である。
築館は元徳2年(1330)頃という。
おそらく始めは本郭付近のみの館であったのであろうが、戦国期に拡張され、今に残る500m四方もある平城になったものと思われる。
新田義貞の時代にこんな規模の館がある訳がないが、「義貞はこんなでかい館に住んでいたんだ。」と勘違いする者は多いであろう。
現在、本郭は照明寺、通称、反町薬師の境内となっており、周囲に土塁が見られる。 本郭の大きさは120m四方であり、北西側に折りがある。 虎口が西と南東にあり枡形が形成される。 駐車場付近の土塁はそれほど高いものではないが、北側の土塁は2.5mほどの高さがあり、これが本来の規模のものかもしれない。 一部は櫓台のようになっている。 周囲の堀は一部、道路となって埋められて小さくなっている部分もある(逆に東側は池が拡げられているとのこと。)が、幅10m以上はあったようである。 本郭の外部に輪郭状に郭があり、都合、三重の堀があったという。 全体では東西300m、南北500mの大きさであった。 新田義貞がこの地を出た後は部下大館宗氏が管理し、新田義貞の子、義興も住んでいたという。 新田氏が没落した後は、金山城主由良氏の出城となり、重臣、矢内時英(成道)が居城した。 北条氏の勢力が強まった天正年間には北条氏のものとなり、天正12年(1584)、北条勢の金山攻撃に氏邦はここを本陣として金山城の長手口から攻めたが敗れた。 廃館は小田原の役後という。 |
本郭跡に建つ反町薬師。 | 本郭東の水堀。当時のものより 拡張されている。 |
本郭南側の土塁。高さ2m程度。 | 北1.5kmにある新田義貞旗揚げの 地と伝わる生品神社。 |
この反町館の北1.5kmに生品神社がある。新田義貞旗揚げの地ということで国の史跡になっている。
これも戦前の南朝の英雄顕彰のお陰であろう。確かに由緒ありそうな神社であるが、意外に小さな神社であった。
ここが旗揚げの地とすれば、距離的に反町館が居館であることには納得がゆく。
小泉城(大泉町小泉)
大泉町のほぼ中心部にある完全な平城である。
小泉城があるのが大泉町というのが、面白いが、小泉町と大川村が合併して誕生したのが大泉町とのことである。
この城は規模も大きく立派である。城址は城の内公園になっており、本郭の全てと二郭北側が良く残っている。
残念ながら総構えに当たる三郭は市街化で湮滅状態になっている。
戦国期に使命を終えた城とは思えないほどであり、江戸時代も何らかの用途に使われていたのであろう。
そうでなければ、平地に存在する城は簡単に湮滅してしまうであろう。
本郭は100m四方の大きさであり、築館当時のオリジナルの大きさのままなのであろう。
この規模は近隣の江田館等とそれほど違うものではない。
土塁はさすがに高い。
堀からは3m以上の高さはある。
西側には折れがあり、これも江田館や反町館と同じ標準的なものである。
本郭の周囲は幅10m以上の水堀である。公園であるため良く整備されている。
虎口は東にあり、馬出があったようである。馬出の場所が駐車場に当たる。
二郭は輪郭式に本郭を取り巻く、南西側は中学校の敷地になって姿を失っているが、北側は大きな土塁が残っている。 二郭は東西400m、南北300mの大きさである。 南が大手であった。 郭内に何故か古墳がある。 古墳を櫓台に転用する例があるが、そのような感じは受けない。 古墳として認識されていたのであろうか。 北側の堀も残存しているが、葦が生え本郭周囲ほどは整備されていない。 その北側を東武小泉線が通る。 外郭部は市街化に伴い湮滅状態であるが、北方向はかろうじて城址の雰囲気を残す。 総構え全体としては南北1km位有りそうである。 |
本郭内部きれいに公園化されている。 | 本郭南側の土塁。 きれいに周囲を1周する。 |
二郭北側の土塁と水堀。 本郭の土塁より規模が大きい。 |
本郭北側の水堀。 |
小泉城の城主、富岡氏は、結城氏の流れを組む。結城合戦の主役結城氏朝の弟、久朝の子直光が祖とされる。
久朝は結城合戦で戦死したが、直光は脱出し、この地に匿われ、その後、結城氏の復権に連動して陽の目を見、延徳元年、小泉城を築城して小泉を本拠としたため小泉氏となったという。
そして、佐貫庄21郷のほか吾妻郡71村、武蔵深谷などを領して古河公方政氏を支えた。
群馬県に富岡市があるが、こことも関係があるとのことであり、「富岡家譜」には「結城久朝が、永享元年、将軍義政により上野国甘楽郡富岡郷を領し、富岡城に住す」と記されている。
古河公方が没落し、富岡氏も周辺の由良氏、小山氏、結城氏、皆川氏、佐野氏、桐生氏等の中小戦国大名同様、上杉氏と北条氏の戦いに翻弄され、あちらこちらと葦のように揺れ動く去就をする。
永禄3年(1560)、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が関東に出陣し、小田原を攻めるが富岡氏は参陣していないようである。
しかし、その後は上杉謙信に従ったらしく、謙信から「西上州の備を一だんと緊張すべき」という文書が出されている。
「上杉輝虎軍勢書上」には「富岡主税助 三十騎」とあり軍事力が伺える。
ちなみに「結城 二百騎」「佐野 二百騎」「横瀬(由良) 三百騎」「長尾但馬守 百騎」となっており、それほどの軍事力はない。
秀親の代には、北条氏に属するようになるが、北条氏に屈服したというより、由良氏、佐野氏らと対抗上であろう。
永禄12年、富岡秀親は成田氏と古戸で戦い戦死、小山氏から重朝を養子に迎える。
富岡秀信の時代は、上杉謙信が天正6年に死去すると北条氏の圧力が強まり、完全な従属関係に置かれ、あれやこれやとこき使われる。
それでも由良氏攻撃の最前線として北条氏から領地を加増されているので優遇された方であろう。
しかし、天正18年(1590)の小田原の役では、富岡氏は北条氏に従い小田原に籠城。
留守の小泉城は、秀吉の部将浅野長政、前田孫四郎らの兵に囲まれ開城。
小田原城も開城し、富岡氏も没落してしまう。小泉城の廃城もこの時である。
丸山砦(太田市丸山)
金山城の北2.5km、金山城のある金山丘陵と桐生南の八王子丘陵が途切れる。
そこに三角形の独立した山がある。国道50号只上西陸橋から県道39号線を西に700m入った場所である。
この山はほぼ円錐形で直径が250m足らず、周囲を車で一周できる位の大きさであるが、比高は50mあり、結構目立つ。
いったいどういうメカニズムで形成された山なのか興味がある。
山頂からは360度の展望があり、天然の物見台である。 どう見ても山頂に城か何かあってしかるべき山である。 この山の山頂にあったのが丸山砦である。 山頂には東側にある米山薬師の脇から登る。結構、岩が多い山である。 道を登っていくと、山頂から20m下に方10m程度の広さの平地(ここが当時の遺構かは疑問がある。)があり、20mほど少し登ると山頂である。 直径15m程度の岩を削って平坦化した最高部の曲輪の南側2m下に15m×20mの曲輪、さらに5m下に20m×5mの曲輪が3段になっているだけである。 特段の城郭遺構はなく物見台、狼煙台に過ぎない規模である。 景色は抜群であり、金山城を始め、足利、桐生、伊勢崎方面が手に取るように見渡せ、物見台としては抜群の場所である。 |
北側から見た城址。 完全に独立した山である。 |
登城口の米山薬師。 | 山頂から見た桐生方面。 | 山頂の曲輪。 狼煙台程度の規模である。 |
この砦の名が出るのは、元亀3年(1571)3月、北条氏に付いた金山城の由良氏を攻めた上杉謙信が攻め落とした記録があるだけである。
攻め落としたというより占領したという方が実態に近いのではないかと思う。
ここには30名程度しか収容できない。
この人数ではどうにもならないであろう。
狼煙を上げて報せたあと、金山城に退避したのであろう。
茶臼山砦と前八王子砦(桐生市広沢)
太田にある由良氏の本拠地金山城は関東地方屈指の巨大城郭であるが、金山城の支城は家臣の居館や物見台程度のばかりで、いずれも小さいものばかりである。 これらは金山城を100とすれば1桁というスケールである。 桐生城は大きいが、これは由良氏が桐生氏から奪ったものであり、純粋な支城ではない。 この茶臼山砦、前八王寺砦は由良氏の領土の北西端に位置する砦であり、伊勢崎、桐生、前橋方面を一望の下に収めることができる山上にある。しかし、小規模なものである。 右の写真は伊勢崎方面から見た両砦であり、TV塔が茶臼山砦、右のピークが前八王子砦である。 |
桐生市南部から金山城方向に南東に延びる八王子丘陵と呼ばれる山地がある。 丘陵といっても比高200m位あるので立派な山地である。 金山城の北西でこの山地が途切れ、そこに丸山砦のある山があるが、この茶臼山砦は山地の最北端にある。 金山城の最北端の物見の砦である。この茶臼山砦は麓から良く分かる。 何しろ高いTV塔があるので付近のどこからも見える。 右の写真は南側から主郭のあるTV塔を見たものである。 この坂は写真以上に急勾配である。 逆にTV塔が建つので遮蔽物なく四方に電波を飛ばせる場所であるため、物見の砦を置く妥当性を証明しているようなものである。 茶臼山砦に行く道は3つある。 いずれも整備された道であり夏でも問題はない。 砦はTV塔が建つ25m四方の主郭の北側から西側下8m下に幅8m位の帯曲輪が廻る。 |
主郭北側の腰曲輪 | 腰曲輪の前面にある土塁 | 北東の尾根筋にある堀切。 |
曲輪の前面には土塁があったようである。北側に下りる道は虎口状になり、そこを出ると曲輪があり、高度差で20m下ると堀切と竪堀がある。
一方、南側は主郭から急斜面を下ることになる。
一気に20m下った所に結構埋められてしまっているが、堀切がある。
その南に曲輪があり、その南はまた下りになる。
鞍部からは樹徳幼稚園方面に降りる道が分岐する。
この道を南に進むとまた登りになりピークがある。 ここから尾根は東に向かい一度山を下り、また、登った六他所が前八王子砦である。 砦と言っても城郭遺構はささやかなものである。 西側は切岸となっており、一部に土塁がある。 また、井戸跡もあり砦らしい感じはする。 しかし、尾根の東側は緩い斜面であり、堀切も土塁も城郭遺構はなにもない。 ここから南に下ると東毛少年自然の家に至る。 |
茶臼山砦から見た前八王子砦。 | 井戸跡であるとの説明板があった。 | 西側にある土塁。草で分からん。 |
両砦に行くには東毛少年自然の家に車を置いて登り、尾根を前八王子砦から茶臼山砦を往復するのが、結構高度が稼げてお徳であろう。
茶臼山砦は上杉謙信の部下が金山城の由良氏を攻めた時、攻撃を受けて落城したというが、もともと戦闘用の城砦ではなく狼煙台程度のものである。
砦から撤退した後、越後勢が占拠したというのが本当であろう。
薮塚館(薮塚本町薮塚)
東毛少年自然の家から南西に1km下ると水田地帯から1段高い場所に長円寺がある。 ここが藪塚館跡である。 南側は現在水田地帯であるが当時は沼であったであろう。 北側は堀があったようで低くなっている。 境内西に大きな目立つ古墳があり、この古墳が物見台として用いられていたという。 |
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東から見た館址。 | 古墳があり物見櫓であったらしい。 |
下小林城(太田市下小林町)
金山城の東、イオン太田ショッピングセンターの北東、国道122号線を挟んで反対側にある。 ちょうど若葉幼稚園の西側にあたる。 城址は民家になっており、北側、東側に土塁と堀が残り、櫓台のような高まりもある。 堀はほとんど埋められており、現在は幅が5mほどしかないが、本来はもっと大きかったらしい。 2つの郭からなっていたが、現状では外郭部の遺構は分からない状態である。 由良氏の家臣林左京の居城という。 写真は本郭北側の堀。 |
浄光寺館(太田市竜舞町)
下小林城南の国道122号線を館林方面に1.2km進んだ国道南側にある。 休泊中学校の西にある浄光寺境内が館址にあたる。 遺構は本堂の西側と北側に堀が確認できる。 堀は折れがある。 複郭の館であったといい寺の北側から西側にかけて郭があったようである。 その外側は水田であるが、堀跡であろう。 |
内ヶ島館(太田市内ヶ島町)
太田大泉工業団地の北西、県道2号線との間にある。 100m四方の単郭の館であったというが櫓台のような土壇がある。 この土壇の上に社が建つ。 北側は堀跡のような低地があり、道が土橋状になっている。 大夫四郎入道の館という。 |
道原城(太田市市場)
国道50号線只上交差点の北900m、県道39号線と県道256号線が交差する八幡前交差点の東側、渡良瀬川の崖に面した北側にある。 南側に矢場川(矢場川の低地は渡良瀬川の旧河床跡だそうである。)が流れており、渡良瀬川とともに天然の水堀をなす。 城はこの2つの川に挟まれた段丘上にある。 渡良瀬川を背にした梯子郭式城郭であり、2つの郭からなっていたというが、本郭の地は新興住宅街になってしまい土塁は完全に失われ、かろうじて堀跡と思われる窪地が見られるのみである。 また、二郭南側の市場川の流れる低地は当時のままである。 この段丘を南北に区切っていた東西の土塁と堀は痕跡が分からない。 城域は300m×200m程度あり、本郭は80m四方であったという。大手は東側にあり、搦め手は南側であり、神社の鳥居が建つ場所であったらしい。 |
長尾顕長が足利長尾氏を継いだ時、弟の横瀬繁詮が城主となり、城代の藤生紀伊守善久が城代として居城したという。 小田原の役後、足利長尾氏が滅亡した時、廃城になった。 |
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桜の木のある場所が搦め手口。低地は矢場川。 | 本郭南の堀跡は窪地として残る。 |
市場城(太田市市場)
道原城の南東1kmの場所にある。 県道39号線と住宅化により遺構はかなり失われている。 道原城同様に渡良瀬川と矢場川の間に挟まれた場所にある。 道原城の出城であろう。本城の遺構が壊滅状態であるが、県道脇南側に写真の堀と土塁が残る。 矢場川の南岸に古墳があるが、ここは物見として利用していたのだろう。 この古墳は6世紀中頃のものであり、直径32m、高さ4mの円墳で、墳丘には葺石が行なわれ、円筒埴輪や形象埴輪が立てられていた。 |
西側には堀の跡が残るがこれは古墳に付随したものであろうが、城の防御施設にも使用されていたのであろう。
矢田堀城(太田市矢田堀)
只上交差点の南1qにある。諏訪神社周辺が城址である。
輪郭式の2郭からなる城であり、本郭は50m四方、その周囲を覆う二郭は150m四方の大きさを持つ。
二郭の南側に二重土塁が、北側に土塁と堀跡が残る。
鳥瞰図は現地の説明板にあった図から想像したものであるが、実際にはこの中にさらに1郭があったという。
現在残っているのは外側の二郭、北側、南側の土塁と堀のみであり、後は湮滅している。
本郭は湮滅している。諏訪神社東に名号角婆塔が5基あり、太田市の指定文化財になっている。
これは頭部が角錐形の四角の柱で四面に「南無阿弥陀仏」と彫られている。
正慶2年(1289)、正和5年(1316)という年号が彫られており、城があった以前からここにあったものらしい。
城は由良氏一族、泉基国、基茂が城主であったという。
江戸時代には矢田堀勘兵衛屋敷となったという。
北側に残る土塁。 |
由良の砦(太田市由良)
金山城の南、県道2号線の新田遺跡の南側にある。宝泉城ともいう。
河川の微高地上に築かれた城である。ジョイフル本田新田店から東に2qの地点である。
この地は新田義貞の生誕地と言われ新田氏に関する遺跡が多数ある。城は新田義貞生誕地の碑が建つ南側である。 輪郭式の2郭からなる城であったといわれるが、城址は新興住宅街となり遺構は何もない。 かろうじて北側と東側に低地があり堀跡を思わせる程度である。 本郭は60m四方あり、周囲は土塁と堀が巡っていたらしい。 岩松満国の子満澄が居城していたとも新田義重の曾孫政義(由良入道)が住んでいたともいう。 金山城に移る前の横瀬氏の居城であったともいう。戦国時代は金山城の支城であり、天正12年には北条氏の攻撃を受け大激戦が展開され、双方とも大損害を生じたという。 写真は城跡北に建つ新田義貞生誕の碑。 |
富田城(太田市富若町)
春日神社周辺にあった。城とは行っているが1辺70mの単郭の館規模のものであったらしい。 若干の微高地がある平地にあるため、宅地化と耕地化で湮滅状態であり、一部土塁が残存するに過ぎない。 |
矢部城(太田市只上町)
国道50号線と国道122号線の交差点南100m東側にガソリンスタンドがあるが、その東側にあった。 現在では水田の中に土塁の一部がポツンと残るだけである。 太田近郊には大型の古墳が沢山あるので、この土塁はじめは古墳ではないかと思ったのだが、近くにいた人に聞いたがやはり土塁であるとのことである。 どうも隅部の櫓台のようである。 写真はその土塁の一部である。背後に見える山が金山城である。 |
小金井館(太田市(旧新田町)小金井)
生品小学校の北側の道を東に800mほど行くと、右手に大きな民家がある。 この民家の北側と西側に幅5mほどの堀があり、水が満々と湛えられている。 民家側は土塁がある。付近は完全な平地の水田地帯である。 館としての広さは分からない。 金山城の由良氏の家臣の屋敷跡であろう。 |
大館館(太田市(旧尾島町)大館町)
大館町を通る県道298号の北側の畑の中にある。しかし、この館はなかなか分からなかった。 |
徳川館(太田市(旧尾島町)徳川町)
江戸幕府を開いた徳川氏の発祥の地という。 一応、新田義重の子義季が、父より新田庄のうち六郷を相続し、得川郷へ居住、世良田あるいは得川姓を称したのが起源という。 (でっちあげた?)話によると8代目の親氏は、南北朝合戦で室町幕府による新田氏残党追捕の命令で三河国松平郷へ移り、そこで松平太郎左衛門の娘婿となり、以後9代後の家康が徳川姓に復するまで、松平姓を称することとなったということになっている。 このため、徳川一族の松平氏でも、松平氏2代泰親、3代信光、7代清康や家康の4男忠吉、尾張家3代綱誠、7代将軍家継(幼名)は一時、世良田姓を称させるようにアリバイ工作も徹底しているのはさすがである。 この話は征夷大将軍の要件が源氏でなければならないということのこじつけであろう。 そのために系図も偽造したらしい。 この徳川館の跡地が、縁切寺として有名な満徳寺である。 城館としての遺構は確認できない。 |
この満徳寺は、徳川氏始祖の徳川義季の娘浄念尼の開山による尼寺という。
江戸時代、一度嫁いだ女性は、夫と不和を生じて実家へ戻っても、夫からの離縁状がなければ再婚することができなかったが、離婚を求めて駆け込んだ妻を救済し、夫との離婚を達成させたのが縁切寺であったという。
寺に駆け込んで25ヶ月間、寺に入ると自動的に夫に三くだり半(離縁状)を書くよう要求できたというので、現在の家庭裁判所のような役目があった訳である。
意外と江戸時代も進んでいた文化があった訳である。
この満徳寺が縁切寺の特権を持つようになったのは、徳川家康の孫娘千姫が係るという。
千姫は大坂城落城後、豊臣家と縁を切り本多家へ再嫁するため、満徳寺に入寺したと伝えられている。
新田館(太田市(旧尾島町)世良田)
世良田地区の西側、総持寺付近一帯が新田氏の総領の館があった新田館の跡である。
初代の新田義重が築き、歴代の当主が住んだというが、源頼朝が新田義重を訪ねたことがあるというが、2人があったのがこの館であったらしい。
太平記によると新田義貞が鎌倉末期、北条高時からの税徴収の役人の首を刎ね、世良田に晒し、宣戦布告をしたというので、あの新田義貞も住んでいたのもここであるらしい。
別名『館の坊』とも呼ばれていた。
この総持寺は江戸時代には真言宗の学問所で、36ヶ寺もの末寺を有していたという大寺院である。 この寺の鐘楼が非常に味がある建物であり、ここの梵鐘は太田市の指定文化財に指定されている。 かつては世良田地区全体を覆うような大きな館であったらしく、寺の南側には土塁があったという。 しかし、遺構らしいものは確認できない。 国道354号線が館跡を通っている。 規模は東西500m、南北300mの規模があったというから相当なものである。 新田氏が衰退した後も、戦国期まで使用されていたと言われる。 |
(おまけ) 天神山古墳
太田市には東日本最大の前方後円墳である天神山古墳など巨大古墳が多くあり、古代の毛野(けぬ)の国の中心地であったと言われる。
この天神山古墳は東武伊勢崎線太田駅東方約1qのまだ若干周囲に畑が残る市街地に隣接する平地にある。
別名「男体山」ともいう。
墳丘の長さは210mで、東日本最大、全国でも30位以内(近畿地方を除くと3位)の規模を誇る大前方後円墳である。
墳丘の周りには二重に堀が巡らされ、北東には天神山古墳に付属する小古墳(陪塚)も造られている。
江戸時代には、棺(ひつぎ)として使われた大型の長持形石棺が発見され、家形埴輪のほか、楯や水鳥(白鳥)形の埴輪が出土している。
埴輪は墳丘上のほか、中堤帯の一部にも円筒埴輪が立てられていたらしい。
5世紀中頃のものと推定され、大型長持形石棺や埴輪の特徴から、古墳に埋葬された人は畿内大和政権と強いつながりを持っていた毛野(けぬ)国の大首長と考えられている。
天神山古墳東の平坦地には女体山古墳がある。 墳丘の長さ106mの帆立貝形古墳(または造出付き円墳)であり、隣接する男体山(天神山古墳の別名)に対して女体山と呼ばれている。 5世紀中頃のものであり、天神山古墳よりも少し古いと考えられている。 両古墳はほぼ同一時期のもので同一方向を向いていることから、2つの古墳に埋葬された人物には、親子関係ではないのか等、密接な関連があると考えられている。 この古墳であるが、さすがにでかい。 周囲に堀もあり城としても使える。 |
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天神山古墳。手前の畑は堀跡。 | 女体山古墳。 |
小田原の役の忍城攻めや大阪冬の陣でも古墳を本陣に使ったり、城内に古墳を取りこみ、曲輪や物見台に使っている例も多い。
この天神山古墳は何にも手を加えず、そのまま砦である。
果たして戦国時代には城砦に用いたのだろうか?