大胡城(前橋市(旧大胡町)河原浜)

 大胡町の中心部にあり荒砥川の西岸の南北に細長い比高30mほどの丘の上に築かれた丘城。
 現在は本丸と二の丸程度しか遺構が残っていないが、かつては南北670m、東西300mの広い城域を有し、近戸曲輪、3の丸、西曲輪、南曲輪等の郭が並郭式に並んでいた。

「城郭体系」掲載図と現地を見た結果を基に鳥瞰図を描くとこんな感じである。
    
 足利成行の子孫が大胡氏を称して築城したのが始まりという。
 その後、戦国期までこの城にいたが小領主に過ぎず、上杉、北条、武田氏の争奪戦に引き込まれていった。  大胡氏は戦国末期の段階まで名が見られるが、最後は北条氏の支配するところとなり、小田原の役後は徳川家康の家臣、牧野康成に与えられた。

 大阪夏の陣終結後、元和3年(1617)牧野氏が長岡に移封(この子孫が戊辰戦争における激戦「長岡戦争」の主人公の殿様である。)となり、酒井氏の領地となり城代が置かれたが18世紀はじめころ廃城となった。

 廃城から400年、陣屋が廃されてからも300年の歳月がたつが、本丸周辺の遺構は良く残っている。
 現在見られる遺構は最後の城主牧野氏の支配した約25年間に拡張整備されたものである。
 したがって、純粋な中世城郭ではなく、ほとんど近世城郭と言える。
本丸と二の丸のある場所は他よりも一段と高い場所にある。
本丸の東と北を除く2方を二の丸が囲んでおり、本丸と二の丸の周囲は深い堀となっている。 
石垣も見られ二の丸の枡型、本丸東側には石塁となっている。
本丸は二の丸よりも一段と高くなっており、堀を掘った土で東側以外は土塁が築かれている。
本丸の北方は深さ15m以上もある堀が掘られている。
二の丸の南側、西側も掘となっており、水の手門が南に開く。これ以外は市街地に飲み込まれてしまっている。

二の丸桝形門の石垣。 二の丸水手門から見た三の丸。 本丸塁壁と堀。 本丸内から見た土塁。
本丸から見た東の荒砥川方面。人家は武家屋敷跡。本丸は15m近く高い。 本丸北側の堀。右側は北の丸。 本丸の東側は段になっており、石垣がある。 東側の荒砥川付近から見上げた主郭部。

中村城(前橋市(旧粕川村)粕川町中寺皆戸)

県道3号線沿い、上毛電鉄粕川駅南に「中村城」の標識がある。
ここを北の月田小学校方面に北上し、約900m、右手100mに中村城がある。
しかし、そこは民家であり、道路沿いからは、よく見ないと土塁は低いため、見逃してしまうほどである。

現在は北側に約100m、西に約20mの幅7mほど堀が残っており、深さは4mほど、一部、水がある。
それ以外は湮滅して畑となっている。北側には土橋のような土塁がつき出る。
一見、100m四方程度の単郭の方形館のようにも思えるが、実際は2重方形館であったらしく、その周囲をさらに曲輪が囲んでいたという。

内部は民家である。この城の歴史を物語る文献は見られないが、膳城と女渕城の中間地点にあり、いずれかの城主家臣の館と思われる。

伝承によれば、「中村右馬之丞」の居城で、武田勝頼の膳城攻めの時、共に落城し、廃城となったものとされている。
東北に「姫塚」があるが、落城の時、城主の娘が奮戦して、最期を遂げた所と伝えられ、伝承の所に碑を建て、今尚土地の人々に供養されている。
膳地区や新里小林地区には、中村姓が多く、中村右馬之丞の子孫ともいう。
しかし、城跡に住んでいるのは中村さんではない。(航空写真は国土地理院が昭和55年に撮影したもの。)
北側の堀と土橋状の出っ張り部 西側の堀と土塁