女渕城 2024(前橋市粕川町女渕)
2003.11.15以来21年振りに2024.10.8に再訪した。
折りからの大雨の中、傘を射し長靴を履いて見てまわった。
そんな環境で撮った写真、やっぱり靄がかかっていてちょっと見栄えが悪い。
城は上毛電鉄新屋駅の東約400m、赤城山南山麓の標高180mの緩やかな起伏を持つ地にある。
築城者については諸説あるが、天文年間(1532-55)の築城と推定される。
永禄4年(1561)関東に出陣した上杉謙信(当時は長尾景虎)が本城を占拠し、足利の長尾景長に与え、その家臣新居(新井)与一長重を城主とするが、後に横瀬繁勝の支配下に入り、娘婿の沼田景長が置かれる。
横瀬氏が北条氏に付いたため、天正2年(1574)再度、謙信が攻略し景長を追うが、天正4年、新居氏が乗っ取り、146金山城の支城となり、景長も城に戻る。
武田氏が滅亡し、織田家重臣の滝川一益が関東から撤退すると、北条氏が支配し、北爪氏が城主を務めるが、天正18年(1590)、小田原の役後、北条氏滅亡に伴い廃城となる。
なかなか目まぐるしい歴史を持つ城であるが、果たしてここで攻防戦はあったのであろうか?
本城の最大の特徴は桂川Bの水を窪地に引き込み、沼にした水による防御である。
郭T(本郭)を囲む西宿沼@の幅は最も広い場所で約50mに達する。
南側の御霊神社西側の公園Eも沼跡であり、西宿沼はかつて南北約300mの長さがあった。
しかし、現在、沼周囲は護岸工事がされており、古城の雰囲気は失われている。
東を流れる桂川も深さ3m以上の谷状Bになっており、水堀の役目を果たす。
桂川から西側の低地までの間が城域であり、南北約450m、東西約200mの広さがある。
北から南に、約40mの広さを持ち北側に土塁を持つ郭W(北郭)、周囲を水堀に囲まれた約40m×30mの広さの本郭A、約60m四方の広さを持つ二郭U、御霊神社が建つ70m四方の広さの三郭V(御霊曲輪)、一辺80〜100mの三角形をした四郭Y(龍光寺曲輪)Hが並ぶ。
さらに西側には100m×50mの大きさの郭X(西郭)を配置する。
かつては郭間に堀があり、郭周囲に土塁が巡っていたが、堀の多くは湮滅し、土塁も一部Gが残存するのみであり、城址の雰囲気は少ない。
@本郭を囲む西宿沼、護岸工事で雰囲気は失われている。 | A本郭は40×30m程度と小さい。草茫々! | B東を流れる桂川、深い谷状であり、水堀代わりとなる。 |
C北郭(右)の北側の堀跡は水路で残る。 | D西郭内部、周囲の土塁は湮滅している。 | E西宿沼の南側は埋め立てられ公園になっている。 |
F三郭(左)西側の堀跡 | G三郭西側に残る土塁 | H龍光寺曲輪に建つ龍光寺 |
2003.11.15訪問時の記事
女渕城(前橋市(旧粕川村)女渕)
県道大胡大間々線の女渕の交差点の北側にあり、水堀を多用した平城である。
膳城からは1km程度西に位置する。
城域は南北800m、東西200mと広いが、かなりの部分を水堀が占める。
このうち本郭西の堀は南北320m、最大幅90mの池として残り、現在も貯水池として用いられている。
現在城址一帯は公園となっており、池の周囲は城を意識したものか石垣風に改変されている。
人工的なわざとらしい風景であり、とても城址とは思えない。やりすぎである。
東側には川が流れその水を取り込んで水堀としている。
現在もそうであるが、かつてもこの堀は灌漑用の池を兼ねていたものと思われる。
池は複雑に入り組んでおり、その中の島が本郭であるが、内部は畑である。 築城時期は不明であるが、南北朝時代には築かれていたと思われる。 |
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三郭跡に建つ御霊神社。 | 御霊神社西側の土塁。 | 御霊神社北側の土塁。道は堀跡。 | 本郭(右)西側の水堀 |
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本郭、40m四方程度で狭い。 | 本郭内部。 | 北郭より本郭を見る。 | 本郭南東の堀 |