沼田城(群馬県沼田市)
 沼田公園の地が主郭部にあたる。
 江戸時代の初期に破却され、その後、陣屋になったりしているため、かつて五層の天守閣が聳え立っていた名城の面影はほとんど薄れている。

 それでも櫓台の石垣、土塁が残り、堀跡も確認でき、かつての姿の一旦を伺うことができる。
 典型的な崖城であり、西に利根川が北に蓮根川を臨む台地端部に位置し、川からの比高は60mほどある。
 城のある丘の上一帯に城下町であり、現在ここが沼田市街地である。
 しかし、こんな高い場所に沼田の町の市街地が広がる光景は関越自動車道から見ると見事な光景である。 

現在の市街地にも外郭遺構があったが、ほとんど湮滅している。
 本丸が公園の中心部であり、内部は花壇等になり、多くの人が散歩している。
 本丸の東南端に五層天守があったというが、その天守台は現在では土壇に過ぎない。
 かつては高い石垣であったそうである。
とてもそんな立派な建物があった感じは受けない。

 その西側、崖面に面して西櫓台跡があり、周囲が石垣になっている。
 沼田城が紹介されている写真の多くがこの石垣部分である。この石垣は高さが精々2.5mに過ぎない。櫓台の土留めが目的のものであろう。

 本丸内西側には鐘楼があるがこれは真田時代のものを復興したとのことである。
 本丸の東側には馬出の曲輪があり、南端部は盛り上がっており櫓台跡である。
 南側に水堀跡が池になって残る。
 テニスコートがその南にあるが、ここも堀跡である。
 その東側の二の丸はグランドになっている。
 西側の本丸側に土塁が残るがかなり低くなっている。
 ここから東側は三の丸であるが、地形上、二の丸より高い。
 土塁と堀があったようであるが、市街化で分からない。
 おそらく道路が堀跡であろう。
 本丸の北側に捨曲輪がある。
 かつては本丸と間には堀があったのであろう。 

 西側、北側が崖であり、東が一段低く、天狗堂が建つ。その東に堀跡が谷津状に残る。
 ここを北に下ると保科曲輪となる。
 この捨曲輪が初期の沼田城の本郭であったと推定され、今もその雰囲気を残す。
 大きな岩があり、これが沼田景義の首実検をした岩という解説板がある。
 外郭は全くわからない状態であるが、公園までの道が結構湾曲していたりして城下町の雰囲気を良く残す。

 この沼田城の歴史については大変、ドラマチックなものであり、その波乱万丈ぶりは多くの城の中でも特筆されるであろう。
 沼田城は平氏の流れを組む大友氏から分かれた沼田氏により築かれたというが、始めは居館程度の小規模なものがこの地にあったと思われる。

 なお、大友氏は戦功により頼朝から沼田に領地をもらったため、一族をこの地に派遣して統治させたものである。
 これが沼田氏の起こりである。
 大友氏の一族は九州の知行地にも行き、この子孫があの大友宗麟である。
 しかし、この大友系沼田氏は世継ぎがなく断絶してしまい遠縁の三浦氏の一族が北条氏の弾圧を逃れてこの地に来て、三浦姓を捨て、沼田氏を称する。
 その初代が沼田景泰である。
 沼田氏は三浦氏そのものであり北条氏から睨まれる立場であったが、折からの元寇等のごたごたで北条氏も沼田氏に手を出せずそのうちに幕府は滅亡してしまう。
 沼田氏がこの時、倒幕側に立ったのは言うまでもない。

本丸内部は公園になっている。鳥居の後ろが天守閣があった場所。 本丸西櫓の石垣。土留め用であろう。 本丸北にある捨曲輪。当初の本郭であろう。 二の丸はグランドになっている。先に土塁が見える。

沼田氏は南北朝期には北朝方に立ち、この功労で沼田地方の支配権を確立する。
 沼田氏からは下沼田、発地、小川、名胡桃、岡谷、川田、後閑、石柱等の一族が輩出され繁栄する。
 沼田城が城として拡張整備されたのは、天文元年(1532年)沼田顕泰によってと言われる。

 この頃から沼田氏のごたごたが始まる。
 側室の子を相続させたい顕泰は反対派を粛清する。
 最後は反対派が上杉の援軍をたのんで顕泰と側室の子景義を会津に追放してしまう。

 このころ上杉謙信の関東進出が開始され、内紛で混乱し弱体化した沼田氏は簡単に上杉氏の支配下に置かれ、藤田信吉が城代となる。
 謙信が死ぬと今度は小田原北条氏が攻め込み天正6年(1578)北条の武将、猪俣能登守が城代となる。
 しかし、天正8年(1580)武田氏に属していた真田昌幸が沼田地方に攻め込み、北条氏を駆逐する。

 一方、会津に逃れていた沼田景義は永禄12年(1569年)上野に帰り金山城の由良氏の支援を受けて天正9年(1581年)沼田城奪回に動く。
 沼田城を支配していた真田昌幸は偽書状で景義を沼田城内に引き入れ殺害し、ここに沼田氏は完全に滅亡する。

 現在も沼田城の捨て曲輪に昌幸が沼田景義の首実検したと伝えられる大きな石があり、説明板が立つ。
 しかし、真田氏が仕える武田氏は天正10年(1582)織田氏に滅ぼされ、真田氏は織田氏の配下の滝川一益に従う。
 沼田城には一益の甥滝川益氏が入り、真田氏は撤退する。

 ところが、直ぐに本能寺の変が起き、織田信長が倒れると、北条氏が神流川の戦いで滝川一益を破り、伊勢に追い払う。
 上野は北条氏の勢力下に置かれる。
 ところが沼田城はちゃっかり真田昌幸がどさくさに紛れて再占拠し、叔父の矢沢薩摩守頼綱を城代として置く。
 北条氏と徳川家康との密約では甲信は徳川、上野は北条という取り決めにしていたため、家康は昌幸に沼田の引き渡しを迫る。
 当然、昌幸はこれを拒否、ここで遂に家康は武力行使に出、天正13年(1585)真田氏を攻撃する。

 これが第1次上田合戦であるが、結果は徳川の惨敗に終わり、真田の名を高める結果となる。
 その間に北条氏も何度か直接沼田城を攻撃する。
 しかし、矢沢頼綱により撃退され、豊臣秀吉が仲裁し、徳川領から信州伊那郡を替地として真田氏に、そして真田氏は沼田領の2/3にあたる利根川の東を北条氏に渡すことになった。
 こうして、天正17年(1589)7月沼田城は正式に北条氏の所有となった。
 しかし、この仲介案ではなぜか名胡桃城だけが、真田領として残される。
 これは北条氏をわなにかけるための秀吉と昌幸の撒いたえさであったといわれる。
 案の定、沼田城代猪俣能登守はこの毒餌に食いついてしまう。

 名胡桃城代の鈴木主水重則を、猪俣能登守は謀略で岩櫃城に出かけさせ、その隙に名胡桃城を占拠する。
 餌に食いついた情報は昌幸から秀吉に知され、秀吉は天正18年(1590)北条氏を攻撃し小田原を陥落させた。
 猪俣も謀略を使ったが、秀吉の謀略はその比ではなかったということであろう。
 北条氏滅亡後、関東の大半は徳川氏の領土となったが、沼田城は真田氏の下に返還される。

 真田昌幸は沼田城に名君の誉れ高い長男の伊豆守信幸(後信之と改名)を置く。
 信之は家康の養女小松を妻に迎える。秀吉が死ぬと関が原の戦いが起こるが、真田氏は東西両軍にたもとを分ける。
 当然家康側には信之が付く。西軍側には昌幸、幸村が付く。
 どちらに転んでも真田は生き残るために恐らく始めからこうすることは暗黙の上で決められていたのではないかと思う。

 この小松姫であるが、小山から上田に戻る昌幸が孫の顔を見たいと沼田城に入ろうとしたのを拒んだことで有名であり、かなりの人物であったと伝えられる。
 関ヶ原の戦いでは、信之は秀忠の率いる中山道軍に組み入れられ、第二次上田合戦に参加する。
 信之のため、昌幸は戸石城を攻略させる手柄を上げさせるとともにこれを餌に上田城を攻撃させ、徳川軍に再び大損害を与え、関が原に遅参させる。
 戦後、信之は昌幸、弟幸村の助命に奔走する。
 信之には上田領も与えられ、上田に移り、沼田城は信吉を置く。

 信吉は城の整備を行い、二の丸、三の丸、枡形、水の手曲輪の大門、最後に5層の天守を築くとともに城下町を整備する。
 5層の天守を持つ城は当時関東では江戸城以外には沼田城しかなかった。
 信吉は寛永11年(1634)40歳という若さで病死し、松代の本家より信政を当主に迎える。
 信吉には妾腹の子喜内(5歳)がおり、小川城(月夜野町)に5千石にて別居した。
 信政が松代に戻ると、喜内改め信澄が小川城から沼田城主となった。

 信澄は本来なら本家筋の人間のため、本家を継ぐものと思っていたが、本家は信政の庶子である右衛門左幸道が継いでしまった。
 その鬱憤を信澄を開発に熱中させ、3万石の領土を14万6千3百石にまで引き上げてしまった。
 しかしこの無理が農民の重税転嫁され、領民は困窮し、餓死者も出るようになった。
 このような状況を、月夜野町小川の中流の自作農であった杉木茂左衛門が幕府に訴える。これが有名な茂左衛門の直訴騒動である。
 ついに真田信澄は天和元年(1681)所領を没収され取り潰されてしまう。
 一方、江戸に潜伏していた茂左衛門は直訴の罪により処刑されてしまう。
 この時、幕府は茂左衛門の行為を徳として赦免するために赦免状を持った使いを走らせたが、到着が一歩遅かったという。

 茂左衛門の行為は「茂左衛門地蔵」として今も地元に祀られている。
 一方城は天和2年(1682)から取り壊しが開始され、5層の天守も破壊された。
 以後元和2年から元禄16年(1703)まで代官が送られ、本多伯耆守正永が城主となった元禄16年(1703)に簡単な城が再建される。
 以後幕末まで本多氏、天領、黒田氏、土岐氏と変わり明治を迎える。
 幕末に土岐氏は尊王派か幕府派か態度をはっきり示さなかったため、官軍と会津藩との戦いに巻き込まれるという混乱振りであったという。

長井坂城(群馬県赤城村/昭和村)
 赤城山の西山麓末端、利根川の西と北が断崖に面した標高390mの場所にある。
 この地方に特徴的な崖城の典型であり、眼下は利根川の浸食谷。
 利根川からの比高は何と200mもある。ちょうど直下を関越道長井坂トンネルが走る。
 この地点は昭和ICと赤城ICの中間点付近にあり、永井川の渓谷を隔てた対岸の山に赤城SAがある。
 行政区分上は昭和村と赤城村の村境が城址のど真ん中を通る。

 ここまで行くのが結構大変である。
 しかし、県史跡ということもあり、ところどころに案内板が建っているので迷うことはない。
 永井川に沿って赤城山方面に向かい、関越道永井坂橋のたもと長井坂をうねうねと登ると城址である。

 城址から北を見ると長井坂トンネルを出た関越道が永井橋を走る迫力ある風景が見られる。
 関係ないが、この永井橋は谷からの比高が100m以上もあり、日本の土木技術の粋を見るような建設物である。
 しかし、よくもあの細い橋脚で支えているものである。
 うねうねとした急勾配の永井坂はかつての沼田街道であったそうであり、街道はこの城の真ん中を貫いていた。 

長井坂を登りきるとそこには別世界がある。
 赤城山の山麓の緩斜面である。
若干傾斜はしているものの平坦であり、高原野菜の畑が広がる。
 城はこの西側断崖絶壁の上にある。
凄い断崖であり、断崖に面した部分は一部崩落している可能性もある。
 三郭はほとんど畑である。
南東側に土塁と堀があり、斜面との間に虎口がある。
 三郭からは二郭の堀と土塁が見える。
堀と土塁は完存であるが、郭内は畑であり非常に白ける。
 二郭は西側のみ土塁はない。100m×60mほどの広さがある。
 二郭の西側が本郭である。その間に堀があるが、この堀底道こそが沼田街道である。
 「森下宿へ」、「南雲宿へ」と書いた看板が立っている。
 城の中心部を街道が通るのは山中城、石塚城や山方城等いくつかあるが、この点では街道を扼する関所城であったことになる。
 しかし、本郭という城の中枢部分横を街道が貫くというのはどうなのであろうか?
 本郭に関所の役所があったのであろうか?
関所自体は本郭北の堀を隔てた馬出曲輪にあったらしい。
 また、街道に面した二郭側に土塁がないのはどうしてなのか?
 本郭の周囲は西側の崖部を除いて土塁が巡り、東南には枡形がある。
80m×40mの広さを持つ。
二郭は西側以外を堀と土塁が囲む。 二郭西の堀底は沼田街道が通る。
正面が馬出、関所があったという。
本郭(左)と馬出間の堀。 西側の崖。写真以上に大迫力であり、
怖ろしい位である。
本郭(左)と四郭間の堀。 二郭東の堀。 南東に延びる沼田街道の土塁。 三郭から見下ろした関越自動車道永井橋。下まで100m以上ある。絶景。

 ここが本郭の虎口であろう。本郭の南の堀を経て四郭があるが、二段構造になり、南側に土塁がある。50m×25mの広さがある。
 この城の土塁は高さ3mほどのであり画一的である。ところどころ横矢になっている。これら主郭の城域は東西250m、南北350mである。

 四郭を抜けた街道は南東方向に向かうが、南東方向に200m程度にわたって土塁が延びている。
 良く見ると三重の土塁になっている。堀が二重になっている訳であるが、上りと下りを分けていたのであろうか。
 さらにこの街道土塁周辺を見ると土塁から垂直に土塁が2本走っているのが分かる。
 耕地化したためにかなりの破壊を受けており、まだ他にもあったかもしれない。
 さらに土塁の南東端にコ字形に土塁で囲った遺構が2箇所ある。
 この城は北方向、西方向が急斜面であり、この方面からの攻撃は心配しなくても良い。
 しかし、南東方面は平坦であり、しかも城内よりも標高が高い。
 この城を攻撃するにはこの南東方向が最適である。これらの城外の遺構は南東方面からの攻撃を想定したものであろう。

南東の城外に延びる沼田街道の土塁。 左の土塁の先端にコ字形に土塁で囲った遺構がある。

以上が長井坂城の概要であるが、要害堅固のようでそうでないようでもあり意味が分からない城ではある。
 どうも北方向を意識しているようであり、南方の勢力が北方の勢力に対して築いた城である可能性が大きい。

 築城については不明な点が多いが、白井長尾氏が沼田氏に対して築いたのではないだろうか。
 この城が記録に出てくるのは、永禄3年(1560)の上杉謙信の関東出陣で陣城として使われたということであり、三国峠を越えた謙信は小川城、名胡桃城等を攻略し、沼田城を攻略するにあたり、沼田を迂回しここに着陣して、北条氏の後詰を絶ち沼田城を孤立させて、沼田氏を降伏させたという。

 この戦術はさすが戦術の天才謙信の成せる技である。
 その後、謙信は何度も関東に出陣するが、そのたびにこの城に立ち寄り、沼田城と厩橋城の間を繋ぐ拠点として用いられた。
 この点では、謙信支配時代は宿城というのが役目であったようである。

 一方、謙信が死去し、真田氏がこの地の騒乱に登場してくる。
 天正8年(1580)長井坂城は真田昌幸が落とし、白井長尾氏に対する。
 武田氏が滅亡すると北条氏の北上が激しさを増し、天正10年(1582)、鉢形城主の北条氏邦が攻撃し、城将の恩田越前守、下沼田豊前守は奮戦するが、落城し城を脱出する。
 その後、北条氏は家臣のあの名胡桃事件の首謀者である猪俣邦憲を入れ、沼田城攻略の拠点とする。
 北条氏はこの城を拠点に真田氏の沼田城を何度となく攻撃するが、その度、沼田城代矢沢頼綱に手ひどく撃退される。

 今残る遺構のほとんどは北条氏が手を入れた姿である。
 沼田城を北条氏が奪取した後もこの城は沼田城と前橋城を繋ぐ中継地であったと思われる。
 廃城は小田原の役の後であろう。
 しかし、この城が北条流と良く書かれている資料を見るが、どこが北条流なのか分からなかった。
 縄張もそう斬新なものではない。
 上杉でも武田でも真田でもこれ位の城は整備できるのではないだろうか。
 この城で印象に残ったのは崖の凄さと南東方向に延びる土塁と土塁で囲まれた出郭のような遺構、それに馬防ぎのような土塁である。

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