みなかみ町の城館

名胡桃城(群馬県みなかみ町)

小田原北条氏滅亡のきっかけとなった「名胡桃」事件の舞台である。
 この日本史に残る事件のため知名度は高い。

 群馬県には金山城や箕輪城など大規模な中世城郭があるが、全国的知名度でははるかにこれらの城をしのぐ。
 多少詳しく書いた日本史の書物では金山城は出てこなくても名胡桃城は載っている。
 その意味では全国区の城と言えるだろう。

 また「名胡桃」という響きもいい。
 半村良の小説に「飛雲城伝説」があるが、その舞台が「胡桃野」という名前である。
 どうも名胡桃がモデルのような気がするがどうなのだろうか。

この城はそれほど規模が大きい城でもなく、もし名もない城であれば破壊されてしまうか藪に埋もれてしまうような城である。
 しかし、知名度抜群というご利益にあやかりきれいに整備されている。
 ただし、三郭の西側に国道17号線が通っているため一部は破壊されている。
 反面、国道が通っているため自動車さえあれば、簡単に訪れることができる。
 しかも、利根川を挟んで対岸に関越自動車道月夜野ICがある。ICを下りて国道17号線に入り新潟方面に少し走っただけで直ぐ城址である。
 ICからは2.5qの距離である。遠くから訪れるのにも非常にありがたい。

 東の利根川に南西方向から突き出した河岸段丘上の端に築かれた崖城である。
 標高は420〜430m、利根川からの比高は80〜90mである。

 国道17号線脇に駐車場があるのでそこに車を置く。
すでにこの場所が馬出堀跡である。
 すぐ東に幅15m深さ3mほどの箱堀があり、その東が三郭である。

三郭は50m×30mの広さであり、幅15m深さ4mほどの堀を隔てて東が二郭である。
 二郭と三郭の連絡は食違い虎口の土橋で結ばれる。
二郭は60m×40mの広い郭であり、さらに幅15m深さ5mの堀を隔てて本郭である。
 両郭間はやはり土橋で結ばれる。本郭は50m×25m位の広さであり、幅15m深さ7mほどの大きな堀切を隔てて「ささ郭」がある。

 ささ郭は長さ35m幅15m位の広さであり、南側に土塁がある。東側には袖郭が2段あり、10mほど下がって物見郭がある。


 ここまでは郭が直線状に並び国道から先端部までは250mほどの長さがある。
 国道の反対側西側は外郭であり、幅30mもある堀が西に延びていたようである。
外郭の南側は切岸状になっている。
 崖面近くには物見台と水の手郭があった。
西側にも遺構があったようであるが、宅地化でかなり湮滅してしまったようである。

 一方、殿坂と呼ばれる谷津を隔てて本郭部北側に般若郭がある。
80m×50m程度の広い郭であり、ここには居館があったという。
北側のこの場所に郭を置かないとこの場所から、主郭部が鉄砲の射程範囲になってしまうことも郭を置いた理由であろう。
三郭西の堀 三郭から見た二郭。間に堀がある。 二郭から見た本郭。南側は崖である。 本郭、二郭間の堀。
本郭から見たささ郭。堀切が深い。 ささ郭から見た沼田方向。 国道17号西側の外郭部。 般若郭の虎口。両側に堀がある。

この城も西側が平坦地であるため、この方面からの攻撃には弱い。
 しかし、西側からの攻撃を想定するなら主郭部の郭西側に土塁を置くべきである。
 しかし、土塁は見られない。国道からはるか先の本郭まで丸見えという状態である。

 般若郭が占領された場合も想定すれば北側にも土塁を置くべきであるがやはりない。
 これはどうしたことなのだろうか。
 とても鉄砲主体の戦国後期の城という感じではないと思ったのだが、発掘結果、やはり土塁があったことが確認されているそうである。

名胡桃事件で名高い城であるが、築城は古く沼田氏一族の名胡桃三郎景冬がこの地に居住したともいう。
 この時、城が築かれたものと思われる。
 戦国時代たけなわになると上杉謙信の関東出撃路になり、謙信は永禄9年(1566)名胡桃の地を堅固に構えるよう命じている。
 これは名胡桃城を整備しろとの指示であると思われる。

 謙信が死去すると北条氏がこの地を支配するが、天正7年(1579)真田昌幸が武田勝頼の命を受けて西から進攻し、この城を奪取する。
 ここに始めて真田氏が登場する。真田昌幸はこの城を基地に沼田城を奪い取る。
 しかし、天正17年(1589)、沼田の地を巡って豊臣秀吉が調停し、沼田地方を北条に譲らせた。

 しかし、真田昌幸は「名胡桃は祖先の墳墓の地なので、この地だけは残して欲しい」という主張をし、これを認めさせてしまう。
 一説には北条氏をわなにかけるため、秀吉と真田昌幸が仕組んだものともいわれる。
 たしかにここから沼田城までは6qほどの距離であり、天気が良ければ十分にお互いが見える距離である。
 これは沼田城にとっては目障りこの上ない存在である。
 北条氏は恐らく名胡桃城がわなであることは見抜いていたとは思うが、そんなことは末端にまでは認識されていなかったようであり、沼田城代の猪俣邦憲は名胡桃城主鈴木主水を偽の書状で城から誘い出したすきに名胡桃城を急襲、城を占領してしまう。

 当然ながら真田側から何らかの挑発行為があったのであろう。
 だまされたことに気づいた鈴木主水は慌てて戻るが城は占領された状態であり切腹して果てる。
 しかし、これが秀吉による「全国総無事令」違犯という格好の口実となり、秀吉は北条攻めを決定する。
 北条氏滅亡後は沼田城とパックで真田氏の手にもどる。豊臣体制が確立すると小城の整理が行なわれ、この城も廃城になった。
 都合、真田氏の名胡桃城は10年間ほどの短い歴史しかなかったわけである。

 日本史上重要な事件の舞台となった城であるため、戦後間もない昭和24年(1949)に城址は県史跡に指定された。
 それ以前から、地元の保存会により城址が保護されてきた。
 昭和56年(1981)国道17号線月夜野バイパスが建設されることになり、順次、発掘調査が行われ、般若郭からは溝と柱穴列を郭周囲にめぐらせた柵塀、内部の溝区画や掘立柱建物9棟による館址が確認されている。

 ささ郭では両側に3段から4段に積まれた腰石垣をもつ高土塁、中央の通路面北端に搦手口の門礎石が確認されている。
 馬出しには半丸形の堀に橋があったことが確認され、三郭からは土塁跡と三日月状の丸馬出し堀と掘立柱建物2棟などが見つかっている。
 二郭からは周囲にローム土の削り残しを基壇とした腰石垣をもつ土塁、本郭の桝形状虎口の石垣と門礎石が見つかっている。
 堀は現在よりも2m深く、土橋は郭間を結ぶ木橋の橋脚台であることが分かったそうである。遺物としては鉄砲玉10点が出土している。

小川城(みなかみ町) 

上越新幹線「上毛高原駅」の直ぐ東が城址である。
 名胡桃城からは赤谷川を隔てて北に約2.5kmの距離である。
 国道291号線が本郭のすぐ西を通り、本郭西の見事な堀が国道からも見える。
 2つの郭からなる城であるが、二郭は隠滅状態であり、本郭付近がほぼ完全な形で残る。

 本郭の堀は深さ6mほどある見事なものである。本郭は60m×40mのT字形をしており北側に土塁があり、南側の出っ張り部分に櫓台のような土壇がある。
東側には25m四方の大きさの腰曲輪がある。
良く見ると切岸は石垣となっている。


 二郭は本郭を西から南にかけて囲んでいた。西側中央に虎口があったようである。
 この地は関東と越後を結ぶ交通の要衝であり、沼田景久が沼田の西の押さえとして明応元年(1492)、築城し、景秋を置き小川氏を称させた。
 しかし、2代目小川景祐は乱が多く、文亀2年(1502)城を追放される。

 景祐の弟の秀泰が3代目城主となったが、この小川秀泰は勇将であり、沼田七騎の1人として沼田氏を支えた。
大永2年(1522)に秀泰が死去し、景奥の代になる前後から北条氏の影響がこの地にも及ぶようになる。
 永正17年(1520)には景奥の子景季が内紛で戦死し、大永4年(1524)には景奥も戦死、小川氏は滅亡し、一門の北能登守等が城を復興して城主となる。
 このころ、赤松則村の子赤松捨五郎祐平がこの地に流れ着き、客分として城内にとどまるうち信頼を得、景季の未亡人と結婚し、上杉謙信の許可の下、小川氏を継ぎ小川可迦斎と名乗る。
本郭西側の深く見事な堀。 ささ郭内部。 本郭北側の土塁。南側には櫓台がある。 二郭は宅地になっており遺構はほとんど湮滅している。

天文16年(1547)沼田勢と北条勢が合戦し、沼田勢が敗走するが、天正8年(1580年)小川可迦斎が沼田勢とともに北条勢と再戦し、北条勢を撃破、名声を高める。
 このことで北条氏のうらみを買い、天正10年北条氏の攻撃を受ける。
 可迦斎以下は果敢に戦うが、兵力差はどうしようもなく最後は越後に逃れる。

 小川城主には北能登守が復帰し、その後、北条氏家臣富永又七郎が城主になるが、小田原の役の後、再度真田氏の城となる。
 真田昌幸の支配下で北氏が城主に復帰、その後天正20年(1592)頃まで城主となっていた。
 寛永16年(1639)から19年間、真田信吉の庶子、後の真田伊賀守信澄がここに5000石の領土を貰い沼田藩の支藩となるが、後に叔父の信政が松代に移ったため、沼田城として移り廃城となる。
 この信澄こそが沼田真田藩を潰してしまう人物であるが、皮肉にもそのきっかけを作った杉木茂左衛門の碑がすぐ近くに建つ。 

明徳寺城(みなかみ町)
JR上越線「後閑駅」、古馬牧小学校の東、関越自動車道がすぐ東をかすめる。
東に「みねの湯 つきよの館」があり、その駐車場に案内板が立ち、そこから虎口@が見える。
ネーミングの元になった明徳寺が東の山麓にある。


@東のみねの湯側の虎口、土塁が2重になっている。

A曲輪内は畑であるが休耕ぎみ。南半分は草茫々

城は東の山から利根川の低地に張り出した尾根末端部標高470mの場所(36.6846、139.0058)に位置し、後閑駅(標高380m)からの比高は90mである。
山の斜面部に楕円型に土塁を巡らした面白い形をした単郭の城である。
この形、茨城県笠間市の「館岸城」に良く似ている。

山斜面の北側と西側は急勾配であり土塁Bがあるだけであるが、傾斜が緩い南側には土塁の外側に横堀が構築される。

B曲輪周囲には」高さ3mの土塁が巡る。 C城西下は急傾斜、明徳寺側に帯曲輪がある。

尾根続きの東側は城の一番の弱点であり、2重土塁、2重堀構造になり、虎口が開く@。
その虎口から城内に入ると高さ3mの土塁Bが巡り、斜面部は斜めに土塁が下っているのが分かる。
西側は竹林で土塁の写真が撮れない。

曲輪内A、かつては果樹園か畑であったようであるが、ここも多くの畑等と同様、耕作は放棄され草茫々の状態である。
末端まで見ようと思っても十分に見れない。
西下には帯曲輪Cがあり、明徳寺に下る道があるが、こちらも草茫々状態である。
明徳寺の地が居館の地であったようである。

地元の土豪、後閑氏の築城という。
天正8年(1580)に真田昌幸が城主の矢部豊後守を破り占領し、ここを足場に沼田城を攻略したという。

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