五覧田城(群馬県桐生市(旧東村)荻原)

群馬県大間々から渡良瀬川の渓谷を足尾方面に国道122号線を走り、旧黒保根村(現桐生市)と東村(どちらも現在は桐生市)の境にある山標高593mの上にある典型的な尾根式山城である。
麓の渡良瀬川からの比高は300mもある。

城へは東村役場や塙駅南1qの黒保根東分署の直ぐ近く、国道沿い西に城址入口の標識がありここを進む。
途中で高橋口登山道まで700m、関守口登山道まで1300mの標識があり、どちらに行ってよいか迷う。
近い高橋口の方に行きたいのだが、近いにはそれなりに難が有りそうという猜疑心が湧き関守口に向かう。
(結局、どっちから登っても距離は変わらないらしい。高橋口には駐車場があるらしい。)
関守口登山道までの道は林道であるがちゃんと舗装されており、登山道入口にちゃんと標識もある。

その付近の道路も比較的広く、車も何とか駐車可能である。
ここから山頂を目指すが、距離は1000mほど。それほど急な勾配でもなく、道も整備されているので楽である。
やはり道が付いている山城は有りがたい。
尾根に出て北方向に登って行くと城址であるが、この尾根上にピークがあり物見があったと思われる場所がある。
尾根上は結構広く、そのまま曲輪としても使えそうである。

尾根から北西に赤城山が雄大な姿を見せる。20分程度の登りで西端の物見台の曲輪に着く。
ここは3方を土塁で囲った径10m程度の曲輪Yである。
この城は最高箇所の山頂部を本郭とし東、西、北と三方向に延びる尾根上に曲輪と堀切で構成しており、T字形をしている。
形状としては長野市の葛山城と良く似ている。
西の物見から本郭までは200mほどの距離があるが尾根幅が15m程度あり広く、土塁の痕跡が残っているので尾根自体が曲輪であったと思われる。
50mほど行くと堀切の跡がある。ここから東が曲輪Xである。
長さは40mほど、内部は結構だらだらしている。
堀切がありそこを越えると曲輪Wである。
この曲輪からは先はきちんとしており、内部は平坦になっている。
40m×15mほどの広さがあり、低くはなっているが周囲を土塁が巡っていたようである。
東側に幅10m、主郭側から4mほどの深さの堀切を介して、曲輪Uとなる。
10m四方ほどの小さな曲輪であり、北側に土塁がある。深さ8mの堀切を越えるといよいよ本郭である。
長さ55m最大幅20mのいびつな長方形をしており、東側に窪みがある。武者溜というが井戸に見える。
ここから東に本郭よりやや低い平坦地が見える。
本郭からは直線で100mほど。そこが曲輪Uである。
その間、15mほど低い場所に鞍部があり、本郭側からは高さ4mおきに前面に土塁を持つ突き出し幅10mの二段の曲輪がある。

鞍部は堀切になっている。曲輪U側は平場があり低い土塁が見える。
この場から登ると曲輪Uである。何故かこちらに城址碑や東屋が建っている。直径は30mほどあり、内部は3段程度になっていた感じである。
ここからの渡良瀬川の谷の風景は絶景である。

周囲は急勾配である。曲輪Uの東に尾根が続くが、9m下に堀切があるだけでその先は城郭遺構はない。
一方、本郭から北に延びる尾根上に曲輪群がある。
本郭の東下3mに小さな腰曲輪があり、その下に深さ8mの岩盤むき出しの巨大な堀切がある。
その北に本郭側に土塁を持つ傾斜した直径10mほどの曲輪Yがあり、再び堀切がある。
曲輪Zは長さが120mもある「く」の字をした細長い曲輪で幅は10mほど高低差はほとんどなく平坦である。
先端部に3段の腰曲輪がある。

典型的な尾根城であるが、尾根上の高低差はそれほどなく20m程度である。
周囲の勾配は急であるが尾根が広く、尾根筋の勾配が比較的緩やかであり、尾根筋からの攻撃には強そうに思えない。
本郭と曲輪Uはほぼ同等の副郭という位置づけが感じられ、これが1城別郭という方式なのであろう。
城内部は手入れがされており、見学には最高である。
東村はこの城を大切にしており随所に「五覧田城址」の立派な石碑が建てられている。

曲輪Y先端の物見台。土塁が周囲を
覆うが光の加減でよく分からない。
曲輪Wの周囲には土塁の痕跡があ
る。
曲輪Vから見た曲輪T。曲輪Tまで
の間に土塁と堀切がある。
曲輪X、Y間の堀切。
曲輪Tの西側斜面には2段の土塁を
持つ曲輪がある。
左の写真の曲輪から見た西側の曲輪
U.
曲輪Uから見下ろした渡良瀬渓谷。 曲輪U内部。ここが本郭のように思え
るが曲輪Tだろう。
曲輪T北下の堀切から見た曲輪U北
側方面。勾配は急である。
曲輪T北下の堀切。 曲輪Zから見た曲輪T、間に堀切が
あり、上までは高さ15m程度。
城址からは赤城山が綺麗に見える。

この城は黒川郷と呼ばれた渡良瀬川渓谷一帯の中心的城郭であり、戦国時代は上杉、北条等の戦国大名の争奪の場となった。
この黒川郷には、戦国時代初頭に「黒川八城」と呼ばれて深沢城、五覧田城、三カ郷城、小中城、座間城、神戸城、草木城、沢入城があったという。
この一帯の武士は「黒川衆」と呼ばれ、源義家が奥州から連れ帰った安倍一族に従っていた蝦夷を奥州との連絡のために土着させた子孫ともいう。
阿久沢氏、松島氏、高草木氏等であるが、その筆頭が深沢城を本拠にする阿久沢氏であり、深沢城は彼ら黒川衆の寄居であったという。

彼らは始めは桐生氏に従い、桐生氏が滅亡すると由良氏に従う。
しかし、由良氏自体が北条、上杉の間で揺れるため、必然的に黒川衆もその動きに巻き込まれる。
なお、この黒川の地名は鉱山に由来し、金山がある場所に多い地名であり、甲斐、越後、常陸に「黒川金山」が存在するように鉱物資源に恵まれていたようである。
その証拠に上流には足尾銅山がある。このため農業生産性は低いが、戦国武将にとっては経済的に魅力的な地であった。

さらにこの渓谷沿いは沼田方面から桐生方面に通じるルートであり、戦国末期、前橋を抑えた北条氏はこのルートで沼田方面と連絡し反北条の真田氏と結んで反抗する佐野氏等に苦慮し、真田氏の配下であった黒川衆を寝返らせることで、佐野氏等の反北条勢力の息の根を止めている。

しかし、北条氏についたことで黒川衆の武士としての生命は絶たれ、城は廃城となり彼らはこの地で帰農することになる。
この城で本当に攻防戦があったとは思えない。
包囲、篭城はあったであろうが、戦闘は起こらなかったのではないかと思う。

包囲という恐喝で開城させたり、一族の篭絡による分断、去ったあとの裏切りというのがこの城を巡る戦いの姿であったのであろう。
五覧田城は戦国時代でも整備されたのは比較的新しい時期であったようである。
「五乱田の砦」とよく混同されるが、五乱田の砦はこの城の南の麓、関守地区にあった川の断崖に面した城であったという。
ここの城主、深沢氏は真田氏の諜略で由良氏を裏切り、黒川谷から桐生方面進出の拠点とした。
これを北条氏の命を受けた由良氏が阿久沢氏を派遣して奪回し、真田氏の勢力を駆逐する。
五覧田城はもともと五乱田の砦の詰めの城として存在していたようであるが、真田氏の奪回行動を阻止するために今の姿に整備されたようである。
時に天正13年(1585)というから戦国時代ももうすぐ終わりの頃である。


深沢城(桐生市(旧黒保根村)本宿)
黒川衆筆頭、阿久沢氏の本拠である。
神梅城ともいう。この付近では五覧田城に次いで名の通った城である。
五覧田城からは南東3.5qの位置にある。
非常に変わった城であり、本郭が二郭より低い場所にある。まるで小諸城とそっくりである。
俗にいう「穴城」というものである。

二郭からは本郭内が丸見えであり鉄砲で狙い撃ちにされてしまう。
しかし、この不自然さも地形を見れば納得できる。
城がある場所は南東方面に緩い斜面が続く場所である。

しかし、東に渡良瀬川が北に川口川、南に深沢川が流れ、川に沿って3方が渓谷になっている。
城は3方が崖となっている斜面にある。
この3方からの攻撃は困難である。
残り1方の北西側は赤城山に続く山地であり、こちらの方面からの攻撃は可能であるが、北西方面に回りこむこと自体が困難である。

なお、城址付近は現在も集落地であり、字名がずばり「城」である。
この城には「わたらせ渓谷鉄道」本宿駅付近から登る道があるのでこの道を行けばよい。
迷ったら正円寺の名を出して聞けばよい。

正円寺の地が二郭なのである。
城のある場所の標高は360m、本宿地区を流れる渡良瀬川の標高が220mであるので、それでも140mの比高がある。
二郭から見た本郭。地勢が二郭の方が高く、郭内は丸見えである。 本郭(左)東側の堀@は幅20mほどある巨大なもの。 二郭に残るAの堀。 本郭の北端Dにある八幡社の社。
この付近は土壇になっていたという。
本郭南下の帯曲輪Bは土塁を持つ。 二郭内を仕切る堀底Cは道路になっている。 二郭は3段構成になっている。真ん中の段には土塁の痕跡が残る。 二郭の西、正円寺の墓地には阿久沢一族累代の墓がある。

城域は200m四方程度でそれほど大きいものではない。
急勾配の渓谷に面した場所に本郭を置き、その背後と台地続きの東側を二郭が被う梯郭式を採る。
本郭は50m×40m程度の長方形であり、北西端に櫓台があったらしい。
北側と東側に幅20m、深さ4mの堀がある。当時はもっと深かったはずである。

本郭の北と東をL形に二郭が覆うが、郭内部が3,4段になっている。
二郭の北側が正円寺であり、寺の背後を高さ4mの土塁が覆い、堀がある。
二郭の東の堀は現在道路になっており、西側の堀は埋められ、道路と墓地となっている。
この墓地内に小田原の役後、帰農した阿久沢氏累代の墓がある。

一方、本郭の南側10m下に帯曲輪があり、谷側に面して土塁がある。
なお、この帯曲輪の西側が尾根状に張り出しており、小さな曲輪が5つほどある。
ここを端城といい、築城当初の城であったという。

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